山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

若神子城

2015-09-30 22:19:08 | 山城ー甲斐
若神子城は信州北杜市須玉若神子にあります。

若神子城地図
現在、ふるさと公園となっています。

駐車場のそばにある説明板

公園として全く改変されています。信玄も重要視し、北条、徳川の争いの拠点でもあった城なのですから遺構を大切にしてほしかったものです。

東北の景色

本丸、東側にある北杜市の山城地図。若神子城を中心に多くの山城、狼煙台が配置されています。

掲載されている山城、狼煙台を今後も見ていく予定です。
ところで、若神子城には南城・北城があります。転載した地図の国道141号線をふるさと公園から700mくらい北上すると正覚寺があります。この西裏の山に北城があります。


正覚寺裏から登るには急斜面ですので、南尾根から登ります。

男山という酒の看板下に行くには、国道141号線の反対側から高架をくぐって、この場所にtなり、山道があります。

広い尾根が続いて、本当に北城があるのかと疑いながら北に進むと見つけました。

南に土塁が盛られて、曲輪を作っています。

西側に土塁を盛ったく長い長い曲輪400mくらいあります。幅も100mほどの大きな曲輪です。

北側先端部の土塁

若神子城の説明板にあるように、天正壬午の戦いの時、北条氏の陣城であろうと宮坂氏は推測されています。

源太ヶ城②

2015-09-28 22:35:19 | 山城ー甲斐
石尊山砦から源太山砦に向かいます。二つの山を合わせて源太ヶ城と呼びます。(祠がある方が石尊山でした訂正します。)

東尾根を100mほど歩いて堀切があります。

さらに100m先を登ると源太山が見えてきました。

縄張り図は「甲斐の山城と館 上」、右が源太山、左が石尊山、前回記事は石尊山砦です。

源太山砦は幅広い帯曲輪に守られています。

源太山本丸

本丸北側の長い帯曲輪

第一空堀と北尾根第一曲輪

第二空堀と第二北曲輪

土塁を北側に盛った第二北曲輪先端部

北尾根第四曲輪

本丸の南側に回ります

南尾根第一曲輪

源太山南尾根、虎口の土橋

地図で見ると、源太ヶ城の南は津金地区で、津金衆の領地でした。とすれば源太ヶ城は津金衆の本拠地で若神子城の支城でもあったようです。さらに山城の東に海岸寺があり、北へ伸びる支道は信州南牧村平沢地区へ通じています。この佐久往還道を抑える城でもあったと言えます。

源太ヶ城

2015-09-27 22:41:35 | 山城ー甲斐
源太ヶ城は山梨県北杜市須玉町上津金にあります。

源太ヶ城地図
県道605号線からキャンプ場ウッドペッカーを目指します。

ここもキャンプ場と思いますがウッドペッカーとは地図で離れており、250mほど西になります。このポールからまっすぐ林道を進みます。

このキャンプ場はMTBコースの看板があります。

敷地から見える中央の高い峰に城址があります。

林道を300mくらい歩くと、自衛隊顕彰の碑があり、この右手に登り道があります。

登り道を登って頂部に着くと、石尊山の本丸と成ります。

本丸を北東から見ています。

本丸北側の曲輪

石尊山本丸(東尾根に源太山があり、ここにも砦があります。)の北側曲輪から本丸を振り返って見ています。

北尾根が伸びていて、よく見ると段差があり曲輪が段々に作られていたようです。

次回 源太山の砦(石尊山と併せて源太ヶ城と呼んでいます。)

『浦野一族の系譜』⑤

2015-09-26 21:39:04 | 氏族の追跡
二、川中島合戦と浦野城の役割

天文二十四年七月十九日川中島第二回の対陣に於いて、浦野新右衛門に首一つ討取りの武功を賞する信玄感状が発給されている。、この新右衛門は生島足島神社の起請文に名を連ねている新左衛門尉貞次ではないかという説もある。(信濃史料)永禄四年、第四回の合戦で「甲陽軍鑑」は「霧の深い中、信玄公信州先方浦野という弓矢巧者の侍を召し物見させ給う。」とあり信州侍の浦野という武勇優れた武士を斥候に出し、その報告から車懸かりの戦法を見破り備えを立て直したとある。この信州侍の浦野某については浦野民部とか、左衛門尉幸次とか諸説あって特定できない。
 この永禄四年の合戦に関して、信玄は八ヶ岳山麓の棒道を通り湯川から大門峠を経て茶臼山に至っているが、大門峠から茶臼山までの経路は明らかでない。「信陽雑誌」は「大門峠を越えて長窪に入り砂原峠を経て八月二十二日浦野に到着、滞在二日軍議を重ね、兵を整え八月二十四日早朝孫子の旗を靡かせつつ室賀峠を越え千曲左岸を経て茶臼山に着陣した」と浦野滞在とその重要拠点としての働きを伝えている。

三、大戸城主
大戸の浦野は信州海野氏の一流で、浦野の本領は信州小県であることはすでに述べた。海野氏は上信国境三原庄の領主であり、鎌倉期以来吾妻谷に進出していた。吾妻上流の羽尾・鎌原の地は一族が分出してその地名を苗字としている。上野国に所領を持つ浦野は大戸城を拠点としたが、大戸は吾妻川の支流温川沿いにあり、羽尾、鎌原からは須賀尾峠を越えて温川谷に出て岩櫃方面を結ぶ交通の要衝に位置する。
 大戸進出の時期については鳥子稲荷神社史料によると、健保三年(1215)信州小県郡より浦野玄蕃重治西上州に来て大戸に居を構えたとある。この史料により十三世紀初頭に浦野庄における浦野氏の存在が確立していたことが明らかであり、大戸浦野の系譜が次のようであることがわかる。 重治(健保三年信州小県郡より上野へ来たる)--弾正重勝(大戸に居住)--(長男)新左衛門(豊岡に移り住む、高崎市)次男 久左衛門(大戸に住む)

須賀尾峠地図

月山富田城⑤

2015-09-25 09:54:36 | 山城ー山陰地方
詰め城の二の丸から本丸へ




二の丸

歩いてきた三の丸を見返しています。改めて長い曲輪であり、兵が多数集結できたとと実感します。

二の丸から見える南西の景色

二の丸南西虎口

二の丸から降りて、南に向かい本丸との間に鞍部があります。見えているのは本丸北虎口です。

鞍部から二の丸城壁を見返しています。


本丸、全長200mくらい

本丸にある年表

山中鹿之助の碑、戦国の世で忠臣といわれる人物は多く数えられますが、鹿之助も尼子氏再興のために命を懸けて戦い続けた人でした。

本丸南奥



勝日高守神社



麓にある歴史資料館で頂いた縄張り図、まだ未踏の尾根があったので驚きました。

事前にこの南条範夫氏の『出雲の鷹』を読んで、山中鹿之助の労苦とその無念な心を知っての登城でしたので感慨深いものがありました。。