曲輪2から曲輪3・4・5へ
曲輪2
曲輪2の北側を下ると、支尾根の先に
北曲輪
堀切に戻り(曲輪2と3との間)
南側竪堀
腰曲輪で受けています。
堀切を北側下から見上げています。
曲輪2の北側城壁
曲輪3
曲輪4から曲輪3の土塁を見ています。
曲輪4
曲輪5、曲輪4・曲輪5はとてつもなく大きな曲輪です。吉田の盾と言われたのは、武田軍を阻止するために、北条氏が地元の土豪を集結させた陣城ではないかと私は考えます。
曲輪5から曲輪4の城壁
次回 秩父市吉田久長にある寺尾砦
「吉田の盾」との異名
さて「吉田の盾」については、永禄12年7月の武田氏の秩父郡侵入に際して阿左見氏に対して発給された北条氏邦の感状(写)に次のように記されています。
「甲州勢、夜中土坂を忍入り、阿熊に屯し候を、物見山より早朝之を見附け、即刻吉田之楯へ駆付け 、相固め候條、感悦の至りに候...」 (「武州文書」)。
「新編埼玉県史通史編2」(1988/埼玉県)では、鉢形城出城分布図のなかで注釈を加えてこの竜ヶ谷城を吉田の楯として比定しています。また、梅沢氏の「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などによれば「土坂」とは城峰山の西方4kmに位置する標高800mほどの土坂峠を指し、この峠から東の尾根筋を辿り城峰山へと到り、そこから南方の阿熊地区の谷筋に下りてきたものと推定しています。
なお、この感状に記されている「物見山」の位置は少なくとも阿熊地区の集落が見通せる位置に所在すべきでであると考えられますが、その所在地については不明のようです。また、県道284号線沿いの阿熊地区は竜ヶ谷城の南西に所在する「寺山砦」からでも西側の標高368メートルの山が障害となって眺望することは不可能です。まして、阿熊地区から東へ直線で2km以上の距離を有し谷を2つ隔てた山上の竜ヶ谷城の守備固めを行う積極的な意図が見えないように思われます。さらに、同年の永禄12年9月には武田勢により鉢形城、江戸城、滝山城などの拠点を攻撃され小田原城さえも包囲されるという状況から見ても、「吉田の楯」についてはあくまでも形容的表現の一つと考えることもできるのではないかと思われます。いずれにせよ、感状に記されている「吉田の盾」の存在等をどう見るのかによって、この山城の評価が変わってくるように思われます。「城跡ほっつき歩記」竜ヶ谷城、記事より
曲輪2
曲輪2の北側を下ると、支尾根の先に
北曲輪
堀切に戻り(曲輪2と3との間)
南側竪堀
腰曲輪で受けています。
堀切を北側下から見上げています。
曲輪2の北側城壁
曲輪3
曲輪4から曲輪3の土塁を見ています。
曲輪4
曲輪5、曲輪4・曲輪5はとてつもなく大きな曲輪です。吉田の盾と言われたのは、武田軍を阻止するために、北条氏が地元の土豪を集結させた陣城ではないかと私は考えます。
曲輪5から曲輪4の城壁
次回 秩父市吉田久長にある寺尾砦
「吉田の盾」との異名
さて「吉田の盾」については、永禄12年7月の武田氏の秩父郡侵入に際して阿左見氏に対して発給された北条氏邦の感状(写)に次のように記されています。
「甲州勢、夜中土坂を忍入り、阿熊に屯し候を、物見山より早朝之を見附け、即刻吉田之楯へ駆付け 、相固め候條、感悦の至りに候...」 (「武州文書」)。
「新編埼玉県史通史編2」(1988/埼玉県)では、鉢形城出城分布図のなかで注釈を加えてこの竜ヶ谷城を吉田の楯として比定しています。また、梅沢氏の「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などによれば「土坂」とは城峰山の西方4kmに位置する標高800mほどの土坂峠を指し、この峠から東の尾根筋を辿り城峰山へと到り、そこから南方の阿熊地区の谷筋に下りてきたものと推定しています。
なお、この感状に記されている「物見山」の位置は少なくとも阿熊地区の集落が見通せる位置に所在すべきでであると考えられますが、その所在地については不明のようです。また、県道284号線沿いの阿熊地区は竜ヶ谷城の南西に所在する「寺山砦」からでも西側の標高368メートルの山が障害となって眺望することは不可能です。まして、阿熊地区から東へ直線で2km以上の距離を有し谷を2つ隔てた山上の竜ヶ谷城の守備固めを行う積極的な意図が見えないように思われます。さらに、同年の永禄12年9月には武田勢により鉢形城、江戸城、滝山城などの拠点を攻撃され小田原城さえも包囲されるという状況から見ても、「吉田の楯」についてはあくまでも形容的表現の一つと考えることもできるのではないかと思われます。いずれにせよ、感状に記されている「吉田の盾」の存在等をどう見るのかによって、この山城の評価が変わってくるように思われます。「城跡ほっつき歩記」竜ヶ谷城、記事より