山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

吉田竜ヶ谷城②

2018-04-30 20:33:29 | 山城ー武州
曲輪2から曲輪3・4・5へ


曲輪2

曲輪2の北側を下ると、支尾根の先に

北曲輪

堀切に戻り(曲輪2と3との間)

南側竪堀

腰曲輪で受けています。

堀切を北側下から見上げています。

曲輪2の北側城壁

曲輪3

曲輪4から曲輪3の土塁を見ています。

曲輪4

曲輪5、曲輪4・曲輪5はとてつもなく大きな曲輪です。吉田の盾と言われたのは、武田軍を阻止するために、北条氏が地元の土豪を集結させた陣城ではないかと私は考えます。

曲輪5から曲輪4の城壁

次回 秩父市吉田久長にある寺尾砦

「吉田の盾」との異名
 さて「吉田の盾」については、永禄12年7月の武田氏の秩父郡侵入に際して阿左見氏に対して発給された北条氏邦の感状(写)に次のように記されています。
 「甲州勢、夜中土坂を忍入り、阿熊に屯し候を、物見山より早朝之を見附け、即刻吉田之楯へ駆付け 、相固め候條、感悦の至りに候...」  (「武州文書」)。
 「新編埼玉県史通史編2」(1988/埼玉県)では、鉢形城出城分布図のなかで注釈を加えてこの竜ヶ谷城を吉田の楯として比定しています。また、梅沢氏の「秩父・中世吉田の城'01」(2001/吉田町)などによれば「土坂」とは城峰山の西方4kmに位置する標高800mほどの土坂峠を指し、この峠から東の尾根筋を辿り城峰山へと到り、そこから南方の阿熊地区の谷筋に下りてきたものと推定しています。
 なお、この感状に記されている「物見山」の位置は少なくとも阿熊地区の集落が見通せる位置に所在すべきでであると考えられますが、その所在地については不明のようです。また、県道284号線沿いの阿熊地区は竜ヶ谷城の南西に所在する「寺山砦」からでも西側の標高368メートルの山が障害となって眺望することは不可能です。まして、阿熊地区から東へ直線で2km以上の距離を有し谷を2つ隔てた山上の竜ヶ谷城の守備固めを行う積極的な意図が見えないように思われます。さらに、同年の永禄12年9月には武田勢により鉢形城、江戸城、滝山城などの拠点を攻撃され小田原城さえも包囲されるという状況から見ても、「吉田の楯」についてはあくまでも形容的表現の一つと考えることもできるのではないかと思われます。いずれにせよ、感状に記されている「吉田の盾」の存在等をどう見るのかによって、この山城の評価が変わってくるように思われます。「城跡ほっつき歩記」竜ヶ谷城、記事より



吉田竜ヶ谷城

2018-04-29 19:04:56 | 山城ー武州
吉田竜ヶ谷城は埼玉県秩父市吉田久長にあります。

吉田竜ヶ谷城地図


地方道37号線で秩父市吉田久長地区に入ります。馬頭尊を過ぎてすぐに右折し、うぐいすの里に向かいます。

里の中に入り、この案内図を右手に登ります。(案内図の右上にタンクとあり)

水道用のタンクの奥に道があり山に入ります。

登って5分もせずに、東曲輪

西を見ると

東第二腰曲輪

岩尾根が続き、堀切

堀切の上に第三曲輪

岩場を過ぎて、二の丸東下曲輪

一段高く尾根が南に折れて

余湖さんはこれを曲輪1としています。この西側下に

一段低く曲輪2、土塁が堅固に周囲を守っており、こちらが本丸かもしれません。

西側には堀切

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

■久長但馬守の居跡
 「増補 秩父風土記」の記述によれば矢畑庄久永村(原文ママ)の記述に「久長但馬守の居跡、小田原籠城の後御当家へ出るなり...」との記述があり、これを受けて「秩父風土記」では矢納庄久長村(原文ママ)の記述に「この村の内に馬場と云うところあり、居跡残れり、土人の口碑に久長但馬と云いし人の住しと云う然れども詳説なし」と記されています。こうした事柄からのみでは、久長氏について伝承以上の事蹟を確認するのは難しいようです。「城跡ほっつき歩記」竜ヶ谷城記事より







長尾城

2018-04-28 20:48:17 | 山城ー武州
前記事で合戦場イベントを紹介しております。GWに出かけて見てはいかがでしょうか。

長尾城は埼玉県秩父市栃谷にあります。

長尾城地図


国道140号線の信号美の山入口から30m南の市道を右折しますと300m左手に瑞岩寺があり、この境内の西から登り口があります。

瑞岩寺本堂

上杉顕実の家老長尾四郎昭国が城主であったという。

山は80mくらいの比高ですが、こんな岩山です。

境内の説明板の裏手に登り口があります。

尾根に着いて

西曲輪

東尾根に見える峰に本丸があります。

本丸(ツツジ園として堀切など埋められたようです。)

秩父市街

本丸から東に尾根を下り

東曲輪

次回 吉田竜ヶ谷城

長尾景春の伝承
この長尾城についても「長尾威玄入道城は字堀之内にあり 山間に入る岩下に構たり 瑞岩の岩窟を背にし 蓑山(美の山)の山足を面とし中間山渓を湟とし 西に門路を開く 東行右に本丸あり 次に二の丸あり 湟に水を湛えて左に三丸あり 是より北方一高嶺を物見台と為し 形状にして自然の峻険に因しなるべし」と絵図入りで細部にわたり記されています。なお、当該絵図には「堀之内城跡 長尾威玄居跡」と記されています。 
長尾景春(嘉吉3年-永正11年,1443- 1514)について
(「埼玉県史 通史編2中世」より抜粋引用)
 文明5年(1473年)、山内上杉氏の執事長尾景信が死去したがその嫡子である景春はその職を継承できず叔父の総社長尾忠景が任じられた。このとき長尾氏には総社・鎌倉・足利・白井の各氏が存在していたが景春の白井長尾氏が最有力となり祖父景仲、父景信と山内上杉氏執事職(上野守護代を兼ねる)が続いていた。このため景春はこの処遇に不満を抱き鎌倉を退去し本拠地の上野白井城に籠ったとされる。
 当時山内上杉氏は古河公方足利成氏と関東の派遣を巡って抗争状態にあったものの武藏の大半・上野・相模・伊豆を事実上支配し、その執事職は管領の代官として鎌倉府の政務に関与し国人一揆を統率し時として主家の山内上杉氏を凌ぐ実権を有していた。しかし、越後上杉氏から山内上杉氏を継いだ上杉顕定は白井長尾氏の勢力の拡大を抑えるため敢えて景春に執事職を継承させなかったとされている。「城跡ほっつき歩記」長尾城記事より






(GW合戦場巡り)

2018-04-28 20:39:30 | 旅行
合戦場イベント情報

上田真田祭りで「真田丸」の感動を再び!
幸隆、昌幸、そして幸村。大河ドラマ『真田丸』で大人気となった真田家を偲ぶまつりです。出陣の儀、真田三代武者行列、真田軍VS徳川軍決戦劇、真田鉄砲隊演武など、真田ファンなら涙がでそうな演目となっています。信州上田観光プレジデント草刈正雄氏など、豪華ゲストが繰り広げる「真田一族と家臣団スペシャルパレード」は必見。

真田軍VS徳川軍決戦劇

上田真田まつり
平成30年4月29日(日)開催
上田城跡公園芝生広場
http://www.uedasanadamatsuri.jp/index.html


米沢上杉まつり
戦国史上最大の死闘といわれた上杉・武田両軍の激突―秋の川中島合戦一騎打ちが再現されます。戦勝を祈願して上杉陣で武禘式、武田陣で三献の儀が行われたあと、上杉の雷筒―30匁筒の一斉射撃で決戦の火蓋が切られます。
合戦場の河川敷会場には、当日席を100~200席用意。当日席の販売は川中島合戦会場の桟敷席受付所にて午前10時より販売開始予定。

米沢上杉まつり
5月3日(木)14:00~15:30
松川河川敷(当日席あり)
http://uesugi.yonezawa-matsuri.jp/log/?l=228128



長篠の合戦のぼりまつり
長篠の戦いで倒れた両軍将士の霊を慰めるために、関係将士の紋入りのぼり数千本を献植して行うまつりです。毎年5月5日に開催されます。「鉄砲三段撃ち」で有名な長篠の戦いの火縄銃演武は、身体じゅうが振動するほどの迫力です!

長篠の合戦のぼりまつり
5月5日(祝・土)
http://shinshirokankou.com/event/nobori.html


紀州九度山真田まつり
真田家三代のゆかりの地・紀州九度山町。決戦の地へと向かう戦国武将を支えたその歴史と文化を、いたるところで感じることができます。迫力の真田鉄砲隊、九度山武者武将隊演武、武者行列のほか、九度山・真田ミュージアムでは企画展も開催中。

紀州九度山真田まつり
5月4日(祝・金)〜5月5日(祝・土)
http://www.kudoyama-kanko.jp/event/2018-0223-1154-8.html


桶狭間古戦場まつり
1560年、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」で戦死した武者の供養祭です。一番の見どころは、300名を超える武者行列!そしてクライマックスの「桶狭間の合戦再現劇」では、甲冑を身に着けた人々が勝どきをあげます。
同時開催の桶狭間古戦場伝説地などをめぐるハイキングも合わせて楽しめます。

桶狭間古戦場まつり
6月2日(土)〜6月3日(日)(武者行列・桶狭間の合戦再現劇は日曜)
高徳院雲上ホール
http://welcome-toyoake.jp/event/history/post_65.html

諏訪城

2018-04-27 20:18:54 | 山城ー武州
埼玉県皆野町下日野沢にある浦山城の近くに新しい遺構を見つけ、皆野町教育委員会に連絡いたしましたところ回答がありました。


この度は、浦山城に関する情報提供をしていただきありがとうございます。
4月9日(月)、現地を確認した結果、石垣や曲輪と思われる平場を確認しました。

今後、専門家を交え調査を継続して行ってまいります。
貴重な情報提供ありがとうございました。

浦山新城としてブログで紹介しています。
https://blog.goo.ne.jp/tomiokamusasi/e/ea4e01d6fa5e0521371c9906759cd694

諏訪城は埼玉県秩父市大野原にあります。

諏訪城地図

大野原の原谷小の西側の市道を北西に進み、野口鉄工を過ぎ、秩父鉄道を渡り、そのまま道なりに行けば諏訪神社があります。

カーナビでは諏訪神社にたどり着けず、地元の方に教えられて、やっと見つけることができました。

奥まったところにある諏訪神社

本殿

境内が諏訪城であったようです。

本殿の裏側に土塁と曲輪

地図にあるように東の横瀬川、自然の堀

横瀬川の畔に平場

諏訪城北側先端部、左下に荒川

城主 諏訪民部
新編武蔵風土記稿」の大野原村の記述によれば諏訪社(諏訪神社)の記述の中に「東は横瀬川に臨み 西は荒川にて懸崖およそ十余丈 屏障を立てるが如く この森の出崎にて両川落合えり さてこの所は諏訪民部之進といえるものの 城跡といい伝う 城陥落の後諏訪社を勧請せしという ...今に土手堀等の遺構往々にあり」と記されており、このことから戦国時代の鉢形城城主北条氏邦の家臣諏訪氏の居城ではないかとということが推定されているようです。「城跡ほっつき歩記」諏訪城記事より

永田城
永田城地図
永福寺が永田城祉です。





本堂の裏手が墓地ですが、本丸があったようです。墓地の北側は川があり、南は谷です。

大野満穂(1814-1892)が幕末から明治初期に著した「秩父志」によると、寺尾村の項に「此村に永田と云う所あり、此に永田山永福寺と云る真言の古刹ありて...此寺地は東は荒川にして西北は小澤をまわし自然の深溝なり。南を表して長300間ばかりなる地なり。往古永田林四郎と云うもの居迹なりと云う、天正の頃諏訪七右衛門と云いし人住居せしと云う」というような伝承が記録されているだけで詳細はその規模の大きさの割には不明とされています。「城跡ほっつき歩記」より

次回 長尾景春が最初に籠城した山城 長尾城