山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

平瀬城③

2017-05-31 19:09:18 | 山城ー信州
本城から北東連続竪堀を越えて、北平瀬城を目指します。


曲輪1から北へ

慰霊碑があったのですが壊されています。

曲輪1の北側下の大堀切

曲輪1の城壁を見返しています。
虎口(土橋)この周辺は幾つもの竪堀が左右に切り下されています。

北東第一曲輪

第二虎口

瘤を迂回して進みます。

曲輪4の外形

曲輪4・曲輪5の確認を、連続竪堀の間に曲輪4があります。

曲輪4

曲輪4の西側城壁

南西に竪堀

北東第三虎口

曲輪5

山を北に折れて進むと

曲輪6(ここからは宮坂氏の縄張り図にはありません。)

曲輪6、北には幾つもの階段状の曲輪が配されており、見直す必要があります。

曲輪6からは「戦国武田の城」中田正光氏の縄張り図を引用しますが次回とします。
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平瀬城②(本城)

2017-05-30 19:34:58 | 山城ー信州
本城を歩きます。警告ですが、俯瞰図の本城の北尾根に描かれている、遺構を歩きますとクマの糞をあちこち見かけております。また南平瀬城で熊と遭遇しました。幸い尾根の北側斜面下40mくらい距離があり、木に隠れる行動をとったため、襲ってくる気配はないと思いましたが、熊スプレーを構え下山しました。もし登城されるなら、真冬が安全です。

本丸虎口です

本丸、南から見ています。

本丸を東から見ています。宮坂氏は本丸を1としていますが、実際は曲輪2の方が一段高くなっています。本丸は曲輪2ではないかと思いつつ

麓のパンフに入っていた縄張り図ですが宮坂氏の図です。

曲輪1の北側斜面下に犬走り

曲輪3下の北曲輪、以前は全くの薮でしたが、今回はきれいに伐採されています。

北側景色、旧豊科方面

曲輪3の城壁

北下曲輪を見下ろしています。

曲輪3

南側気色

南下腰曲輪

曲輪3から曲輪2を見ています。

次回 北東連続堀切から北平瀬城へ向かいます。

武田氏が平瀬城を落とすと原虎胤が城主となる。
明応6年(1497年)、原友胤の子として生まれる。
『甲斐国志』によれば、元は下総国千葉氏支流である下総国衆・臼井原氏の一門であるという。『甲斐国志』によれば、永正10年、小弓城合戦にて小弓公方・足利義明軍に敗北。居城である小弓城を奪われ、父・原友胤とともに甲斐に落ち延び、武田信虎の家臣となったとされている。ただし、実際に足利義明による小弓城攻めは永正14年(1517年)の出来事であるため、史実との齟齬が指摘される。
友胤は信虎の下で功績を挙げ、虎胤も主君・信虎から「虎」の一字を貰い受けて足軽大将として活躍した。大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川軍の福島正成(北条綱成の実父、但し別人説あり)を討ち取る功績を挙げる。
信虎追放後は信玄に仕える。一般には武田二十四将の中に数えられる事も多く、また甲陽五名臣としても名があげられている。なお、彼の子の康景は同じく甲陽五名臣の一人横田高松の養子となっている。
信濃の小笠原氏との戦いで活躍し、平瀬城の城代を任されるなど重用されていた。天文22年(1553年)、宗旨問題(虎胤は法華宗信者であった)で信玄に浄土宗に改宗するように迫られて拒絶したため、一時期甲斐を追放され、相模北条氏に身を寄せ善得寺の会盟の際に帰参。以後引き続き武田氏の将として活躍する。この帰参の際、北条氏康は虎胤に対し惜別の念を表したと伝わる。永禄2年(1559年)に信玄が剃髪すると、同じく剃髪して清岩と号した。 ウィキペディアより







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平瀬城

2017-05-29 20:49:28 | 山城ー信州
平瀬城は多くのサイトで取り上げられて、、登られた方も多いのではないかと思います。平瀬城は従来の本城とされるところから北の頂部のところに遺構があり、さらに南支尾根に、たくさんの曲輪が構築されています。実は「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編」」に宮坂武男氏は俯瞰図に於いて、この北平瀬城を描いております。

宮坂氏がこの俯瞰図を上記の著書に載せているにも拘らず、縄張り図には描いておりません。今回、この俯瞰図を信じて登ったところ事実見つけられました。この平瀬城は本城・北平瀬城・南平瀬城と三つの尾根から成り立っており、大規模な山城であると再認識いたしました。

平瀬城地図


国道19号線で高架をくぐると島内集落となり、高架をくぐって左の道から

登り口となります。

碑の脇には説明板があり、平瀬城跡一口城主会のパンフがあります。一口1000円以上で一口城主に成れるそうです。このお金は平瀬城の整備保存資金となるそうです。

パンフと一緒に縄張り図が入っています。本城縄張り図

南平瀬城縄張り図、そして今回紹介する北平瀬城も新たに加えてもらえるよう一口城主会に働きかけてゆきます。

碑のあったところから15分で、縄張り図にある曲輪1が迎えます。

南に曲輪2

曲輪2の南支尾根に腰曲輪が二段と構えています。

曲輪3
曲輪4

曲輪4を上から見ています。

曲輪5、これらの曲輪は屋敷であったと思います。
次回 本城主郭部へ
平瀬城について
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。









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堀之内城③

2017-05-28 19:35:47 | 山城ー信州
西尾根を歩きます。

前回の尾根を、此の扇で結び

北の尾根に誘導する通路です。

北尾根

北尾根を南から見ています。

北尾根の北側下の曲輪1

北尾根の西先端部

北尾根を南側下から見上げています。

北尾根の南下曲輪2 要は北尾根を挟んで、両側に長い曲輪を配しています。

北尾根は溜池の北側の畑、西側に位置しています。


釈尊寺

観音堂から本堂を見下ろしています。

縄張り図は「戦国武田の城」より、釈尊寺から南に、階段状に屋敷群が並んでいます。

天文17年(1548)に武田信玄が佐久地方に侵攻し、布下仁兵衛(長野県小諸市大久保字堀之内:堀ノ内城の城主)・楽厳寺入道(長野県小諸市大久保字前法:楽巌寺城の城主)と戦った兵火により多くの堂宇が焼失、布下氏と楽厳寺は領主である望月氏(長野県佐久市望月:望月城の城主)に従っていましたが、この戦いの結果、両氏は村上氏を頼り落ち延び、武田信玄の実弟武田信繁の長男である信頼が望月氏の名跡をついで望月家は事実上武田家に乗っ取られています。布引観音の由緒上は弘治2年(1556)に当時の望月城の城主である滋野左衛門佐が堂宇の再建を図ったとされますが、滋野左衛門佐とは望月信永(武田信繁の3男)の事で、実兄で上記の望月信頼が死没した永禄4年(1561)に望月家を継いだ為、氏名か年号どちらかに誤りがあると思われます。布引観音は天正10年(1582)に武田家が滅び、望月家が没落するまで庇護され、その後は小諸城の城主になった依田氏などに引き継がれたと思われます。江戸時代に入ると歴代小諸藩(藩庁:小諸城)の藩主から庇護され、享保8年(1723)に火災により焼失後、翌年には当時の藩主である牧野周防守康明が再建しています 長野県 歴史・観光・見所(ホーム)サイトより引用



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堀之内城②

2017-05-27 20:22:16 | 山城ー信州
本丸西尾根の一つを歩きます。


溜池

縄張り図は「戦国武田の城」より、数字の763の上の溜池が上の写真です。

溜池から北に歩きますと畑があり(曲輪の可能性が高い)

畑から北斜面を下ると、土塁の下に広大な第一曲輪

第一曲輪の北側中央に虎口があります。

下って北側第二段曲輪から虎口を見ています。この先は耕作地となっていますが、地図を見ると北方600m先には千曲川によって230mという深い渓谷となっているそうです。

溜池から西の畑にもどって、西側斜面を下りますと

西尾根第一曲輪

見事な第一堀切

西尾根が伸びて

西尾根第二曲輪

浅い堀切

第三曲輪

帯曲輪

帯曲輪に立って西尾根を見上げています。
次回 二つ目の西尾根へ

釈尊寺について
寺伝によれば、奈良時代の神亀元年(724年)に行基が開き、聖徳太子が作ったとされる聖観音を祀ったと伝えられている。
戦国時代の天文17年(1548年)武田信玄が東信地方に進攻し楽巌寺入道雅方・布下仁兵衛雅朝を攻略した際に焼亡した。永禄元年(1558年)に望月城主・望月左衛門佐信雅によって再建された。


この布下仁兵衛雅朝が堀之内城主であると、日本城郭体系では記述されています





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