山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

与板城②

2016-04-30 19:45:38 | 山城ー越後
本丸へ


大手は右手から左につづら道を登ってゆきます。

本丸東下の曲輪の裾を登ってゆきます。

本丸東下曲輪(仮に)、奥が本丸城壁、つまり大手道は東下曲輪にさらされ、それをたどり着けば本丸から狙い撃ちされるわけです。

本丸東下曲輪、北から見ています。

本丸に入る前に、本丸北尾根を先に見てきます。

北尾根第一曲輪

木戸を下って

北尾根第二曲輪

第二の木戸を下りてきて

先端部の瘤状の出丸のような曲輪が北尾根を監視していたようです。

縄張り図は「甲信越の名城を歩く」本丸➀とある、上が北尾根です。

本丸北側下にもどってきました。


越後では本丸を実城といいます。

次回 本丸から二の丸へ



与板城

2016-04-29 19:24:52 | 山城ー越後
与板城は新潟県長岡市与板にあります。直江兼続の居城でした。

与板城地図




地方道69号線で八坂神社から登りました。

直江兼続

越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。通説では、永禄3年(1560年)に樋口兼豊(木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟である樋口兼光の子孫と言われている)の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれている。母は上杉家重臣・直江景綱の妹とする説と、信州の豪族・泉重歳の娘とする説がある。 永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われる。
謙信急死後の天正6年(1578年)の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に就いた。天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認され、同年8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者を務めている。
天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。 ウィキペディアより



神社の境内横から登ってゆくと虎口が見えてきます。

写真で分かりやすいルートを紹介してゆきます。全山と縄張りされており、本当は今回は見逃す遺構がないよう、足を棒にして歩き回りました。これを登れば

東郭下曲輪

縄張り図は「甲信越の名城を歩く」吉川弘文館

東郭下曲輪から階段を登って

東郭



おせん清水は東郭の北側にあります。

次回本丸へ







夏戸城⑦

2016-04-28 21:49:13 | 山城ー越後
詰の丸へ


横堀

横堀の西上に詰の丸東曲輪(仮)

横堀土塁とは初めての名前です。北東から見ています。

横堀土塁を南から見ています。

詰の丸東下第一曲輪(仮)

詰の丸東下空堀

詰の丸東下第二曲輪、奥の階段を登ると

詰の丸

詰の丸の縄張り図、曲輪が本丸を囲むように配されていますが、雑木林で写真になりません。

次回 与板城

氏族の追跡(長野氏)

2016-04-27 17:53:43 | 歴史資料
長野氏関係の寺、来迎寺

来迎寺地図

来迎寺は高崎市浜川町にあります。浜川町は長野氏の浜川の砦があったところです。

来迎寺の門

お堂の裏手に回ると長野市歴代の墓石が並んでいます。

後日紹介しますが、現在の高崎市北新波町に満勝寺があり、その南には長野小もあって、この地域はかつて長野郷と言われていました。この地域を本拠にして長野氏は勢力を伸ばしていったようです。また満勝寺裏手に長野氏の北新波砦が整備され残っています。


近藤義雄氏著書の中で、来迎寺の墓石で判読できるものを一覧表にしています。一番古くて1384永徳四年、南北朝の時代です。長野氏の出自はこの著書から引用して、後日紹介しますが在原業平を祖とする説ともっと古くて石上姓を名乗っていたことも伝えられており、多胡碑に記されている石上麻呂の関係でもあるとされています。多胡碑は和銅四年(711)ですから、長野氏ははるかに古い氏族であった可能性があります。

来迎寺の墓石の中に長野家の墓があり、直系の方がお守りされています。

長野氏は桧扇の家紋を1838年まで使用していたが、寺社奉行によって徳川氏にゆかりがある家紋であるとして使用を許されなかった時代があるという。桧扇の家紋は、扇の中央に日の丸です。

長野氏の直系の方が店の敷地に案内板を出しています。

榛名町史 「永正の乱と上杉憲房」は明日とします。

夏戸城⑥

2016-04-26 21:57:57 | 山城ー越後
下の城から北尾根へ

下の城から東尾根を進むとここへ出ます。ここから北尾根に入ります。

第一堀切

第二堀切

第三堀切

北尾根曲輪(仮に)は能登半島のような形をしています。

歩いている北尾根は右手下です。縄張り図は右が北です。

区切りがあって

北尾根はここまでです。

下の城から堀切を見下ろしています。尾根を右手に廻って行けば詰ノ丸です。縄張り図では右手上の一郭です。

土橋を渡り

大きな西北曲輪

西北曲輪の西先端部に土塁

横堀、この先が詰ノ丸となりますが、次回とします。