山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

箕輪山城

2016-10-31 09:27:47 | 山城ー越後
箕輪山城は旧小国町(現在長岡市)箕輪にあります。

箕輪山城地図
県道171号線で箕輪集落に入ると大きな看板が目につきます。

この看板の手前40mくらいに公園があり駐車できます。登り道は道を挟んで案内が出ています。

これを登ります。

大手虎口、右手に櫓台

大手に沿って三段の腰曲輪

櫓台にも登れます。

三段の腰曲輪を見下ろしています。

これを登ると第二虎口があり

三の丸(私見)

城主は小国主馬頼平が築いたと伝えられています。西尾根に大脇城があります。(後日紹介)
次回 二の丸から本丸へ

要害山城

2016-10-30 21:15:42 | 山城ー越後
要害山城は三条市西大崎にあります。南東にある浄水場から登りました。(浄水場内に入るには許可が必要です。)
要害山地図

浄水場

赤い屋根の建物左手から登り道があります。

登り道

第一虎口

虎口を見下ろしています。

小山が聳え、これを右周りにから登ってゆきます。

第二虎口、山中に入ります。

第一空堀A

縄張り図は「図解 にいがた歴史散歩」伊藤正一氏作図

空堀Aの西側は大きな曲輪

第二空堀B

本丸D

草深く時期が悪すぎた感じです。サイト「古城祉狂が行く」三条市をご覧になれば、よくわかります。

次回 箕輪山城 長岡市小国町箕輪

武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)⑤

2016-10-29 14:58:35 | 歴史資料
碓氷峠の戦い
関東管領、上杉憲政の配下金井小源太秀景を大将とする上州軍は佐久郡の志賀城を攻めている武田軍を襲いかかろうとした。晴信は、志賀城包囲軍中から直ちに腹心板垣駿河守信形に命じて、小山田左兵衛尉信茂、栗原左衛門尉定孝、日向大和守昌時、小宮山丹後守昌友等の諸隊を引き抜いて立ち向かわせたが、まさに一騎当千の強者たちである。八月六日午後四時遭遇戦となり激戦の後、上州方は敗れて退却しはじめた。この時期の日没は午後五時ころだったと推定されるから、甲州勢は長追いできなかったのであろう。
 恐らく武田方はこの夜のうちに追分付近まで進出、翌日には碓氷峠に向かい残敵の掃討戦を行う必要があった。「関八州古戦録」に、時に上州勢の五千余騎は峠より北に備え主力は坂を打越し進みけるが、敵の押来るを見て隊伍を立て直さんと犇めくとこへ甲平鬨の声をあげて矢を射る。上州方も同じく鬨を合わせて打ってかかれば、武田勢は急にくびすを返して遠のく。上杉勢はこれを逃さ地じと追い討ち懸けた。板垣思うまま引き寄せ、手勢二百騎を一度に取って返し喚声を上げて突っ込んだ。その中に広瀬左衛門景房十七歳、仁科伝衛門形幸十九歳、真っ先に槍を入れ、広瀬は敵将藤田丹後守を討取り、仁科は師岡隼人正に槍を突けて散々突きまくった。上州勢は板垣勢に追われて峠へ引き上げて新たに陣を立て直そうとするところを板垣勢に遮二無二突き立てられたので、こらえかねて崩れ去った。この時武州の深谷内匠助小桜縅の若武者が坂の半ばで踏みとどまり、大長刀打ち振り、汚し返せと罵りながら突っかかるが、浮足立った上杉勢は大勢であるが、耳にも聞き入れず踏みとどまる者もなく、内匠助ただ一騎だけが追い来たる甲兵十四人を薙ぎ伏せて悠々と引き上げて行った。板垣はなおも追撃させようとしたが、上州勢は峠へ引取り後陣の新手を加えて一つになり備えを固めて持ち返したので、板垣はそれ以上の追撃を諦め引き返し、午の刻に勝鬨を挙げる。討取った首は千二百十九あったという。
 晴信はまだ瘧は治ってていなかったが、後の備えが十分でないので、たとえ板垣が切り勝ったとはいえ、このあと上杉勢が、どうでるかが不安もあって、病を押して出陣した。十月五日辰の刻には馬場民部少輔信房、内藤修理亮昌豊、浅利式部少輔信種、原加賀守国房、諸角豊後守昌清、山本勘介晴行、小幡山城守虎盛、原美濃守虎胤、安岡三右衛門、曽根七郎右衛門、以下総勢四千五百騎で甲府を発ち翌六日後には信州佐久郡軽井沢に着陣した。

つづく

旧中山道

旧中山道2

板垣勢が追撃戦を行った陣場原
私はここの陣場原で北の丘陵に砦を見つけております。安中市教育委員会に伝えていますが信用していないようです。

高柳城③

2016-10-28 11:58:32 | 山城ー越後
本丸へ

前回記事に畝状阻塞を紹介しましたが、竪堀と連携しているのは、この山城の大いなる特徴です。

畝状阻塞は越後の山城の特徴でもあります。しかし、この施設の本当の機能は分かっていないのではないでしょうか。大方は斜面での敵が横に動くのを阻止するという見方ですが、この畝状阻塞は、阻止できる機能を持っているように見えません。むしろ城兵の移動に利用していたのではと思います。

西側斜面にはこのように幾つか並んで作られ、そして、阻塞を束ねるように竪堀が繋がっています。

斜めから竪堀が畝状阻塞をまとめるように下っています。しかも二重堀です。兵の移動は敵に気が付かれないように、この竪堀を使い、この移動によって攻めてくる敵の後背に廻って奇襲を行うことができます。


二の丸の南側に廻ってきました。本丸南虎口を見ています。中々の堅固な構えです。

本丸

本丸北側土塁

北の山々

二の丸の虎口を見て下ってゆきます。

二の丸虎口を見上げています。

二の丸

一段下がって三の丸(山を下りながらおさらいしています。)

南下の横堀

横堀の東側先端

更に南下の二重堀

下段のL字帯曲輪と西虎口

帯曲輪に入る西虎口を下から見ています。

以上で高柳城は終わりです。素晴らしい山城ですので是非登ってみてください。次回 三条市 要害山城

高柳城②

2016-10-27 19:29:37 | 山城ー越後
二の丸から西側遺構へ

第一曲輪(三の郭としたほうが良いかもしれません。)

三の郭を東から見ています。

第二虎口を登ると二の郭へ

二の郭の西側、土塁を確認しています。

三の郭の虎口を見下ろしています。

二の郭全体を見ています。

縄張り図は「木村尚志氏 山城は語る」本丸の五角形のすぐ下を二の郭としています。この二の郭の西に虎口があり下段のL字帯曲輪へ下りました。

二の郭の西虎口を下って見上げています。

一番下段のL字形の帯曲輪

L字形帯曲輪から西側下を見ると畝状阻塞が見え、奥には竪堀と連携しています。

L字形帯曲輪の北側先端に行くと大きな堀切があります。

次回 本丸へ