山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

松井田城③

2017-08-04 18:07:44 | 山城ー上州
二の丸から北尾根へ、北尾根を下りてゆき曲輪が終わって、薮が見えて戻ろうとしたときに、大きな熊の咆哮が聞こえ、地面をとてつもない力で叩く音が聞こえました。これは熊が警告のサインで、後ろから襲ってこないか警戒しながら熊スプレーを構えながら、二の丸に戻りました。それから駐車場に戻るまで、いつ薮から現れるかわかりませんので、緊張し、油断なく戻りました。幸いにも襲ってこなくて良かったです。どうしても、登城したい方は真冬に登るしかありません。ただし、温暖化で冬眠しない熊が出てきています。真冬であっても、必ず安全であると言えませんのでご注意を。

馬出から二の丸へ、そして北尾根へ



馬出・二の丸に登ります。



ここに主な部将は集結し、出陣したようです。



二の丸

二の丸から北へ下りてゆきます。第一堀切

尾根を越えて

第二堀切

第一曲輪(シャッターを押すのが早かったようです。)

第二曲輪

峰を登り

第三曲輪

第四腰曲輪、ここで熊の咆哮が聞こえました。

二の丸に戻り、本丸の城壁を登ります。


本丸を見て、さすがに東尾根にある安中曲輪はやめました。

松井田築城主 安中忠政について

安中 重繁(あんなか しげしげ[1]、生没年不詳)は、戦国時代の武将。上野国山内上杉氏、甲斐国武田氏の家臣。受領名は越前守。父は安中長繁とも。室は沼田顕泰の娘、長野憲業の娘。子に景繁、高田繁頼室、某(次男。上杉謙信の人質。久繁か?[2])。安中城城主。
なお、『和田記』など近世の著作では、越前守の実名を忠政(ただまさ)とするものがあるが、古文書から裏付けられる実名は重繁である。
略歴
安中氏は上野碓氷郡を本拠とした国人。重繁は安中宮内少輔長繁の後継者と見られている。関東管領山内上杉氏に従属し、上杉家臣長尾氏の同心となる。ただし、重繁以前に越前守を名乗っていた当主はおらず、嫡流である長繁またはその後継者が上杉憲政に従って越後国に落ち延びた後に、庶子である重繁が惣領の地位を継いで北条氏に従ったとする説もある[3]。永禄3年(1560年)の越後上杉氏の上野侵攻に際しては上杉氏に属し、松井田城を領有する。
永禄4年(1561年)に武田氏が上野に侵攻すると、翌永禄5年(1562年)9月頃に重繁は武田氏に降伏し、上野先方衆となる[4]。武田氏に従属後は家督を嫡男の景繁に譲り隠居する。なお、『甲陽軍鑑』(品第卅三)に越前守(重繁)が「成敗」されたとあるが、降伏した時に切腹・処刑された訳ではなく、重繁が松井田城を没収されて隠居・出家に追い込まれたことを「成敗」と称されたとみられる[5]。その後、永禄11年(1568年)までの活動が確認される(「長伝寺文書」)。ウィキペディアより


次回 麻績村 虚空蔵山城(麻績古城)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

松井田城②

2017-08-03 22:28:50 | 山城ー上州
連続竪堀を歩きます。


第一堀切

第一、第二の曲輪

第二大堀切

大堀切の壁を見返しています。

第三曲輪

土橋と虎口

第四曲輪

第四曲輪の北先端部の土塁

第三堀切

小曲輪が連続しています。

第四堀切

第五曲輪

北尾根虎口

北尾根城域

安中氏の時代
築城は永禄初年、1560年頃とみられているが、既にこの地には城が存在した。安中忠親[1]の松井田西城と松井田諏訪氏の諏訪城である。長享元年(1487年)に安中忠親が城主としてあり、その子・忠清[1]が榎下城に移ったという[2]。その後、松井田諏訪氏(松井田諏訪氏の当主としては長野憲業の庶弟である諏訪明尚の存在が知られる)[3]が松井田西城に入っており[4]、一方の諏訪城は永禄4年に武田信玄の攻撃を受けている。松井田西城と諏訪城のどちらかが現在の松井田城の前身とも考えられる。
諏訪氏の後は、再び安中氏が松井田を領したらしく、安中忠清の子・忠政[1]が安中城を築城したが、その際に忠政は子・忠成[1]を安中に置き、自身は松井田城を改修し居城としたという。安中氏の行動は武田信玄の西上州進出に対抗したものであり、この時本格的に整備されたと考えられる。ウィキペディアより


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

松井田城

2017-08-02 21:54:43 | 山城ー上州
松井田城を久しぶりに登ってきましたが、熊の警告を受け早々に退却しました。単独の登城は控えたほうが良いでしょう。

松井田城地図
国道18号線でくるま屋ラーメンの店から西に250mくらいに、北側にうどん屋(だるま食堂)があり、その手前の道から地図にある市道を北に行けば、登り道の看板が出ています。初めての方は旧松井田市街(県道122号線)から松井田小の西側の市道から国道18号線の高架下を進み、だるま食堂の東側の道になります。


林道入り口に案内板があり、縄張り図のように8本の尾根すべてに遺構があります。林道から750mくらい進むと自家用車8台くらいの駐車場があります。

駐車場からすぐに虎口があります。

第二虎口

堀切

水の手に進まず主郭への道を進みます。



今回は連続竪堀を完全に見ようと進みました。

門跡の道は左手です。

連続竪堀よりも連続堀切としたほうが良いのではと思いつつ下りてゆきましたが、次回とします。

今日、山梨県の空手家の方が、空手の技で熊を撃退したとの話題が報道されていましたが、頭を怪我をされていて撃退できたのは運がよかったのではないかと思います。松井田城の山は熊が縄張りとしていますので、登城はお勧めしません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大胡城(上泉伊勢守に関して)②

2017-07-27 10:15:15 | 山城ー上州
本丸周辺から大胡神社へ

本丸西虎口

西虎口から下りて、虎口を見返しています。ここが一番の見どころです。

二の丸と本丸との空堀

本丸北側の空堀

橋を渡って越中屋敷(現在保育園)

大胡城縄張り図「群馬の古城 中東毛編」山崎一氏著

大胡神社

本殿

本殿裏の土塁の残る北曲輪(西側)

東側の土塁

北曲輪の北側の空堀、東は荒砥川の断崖へ

北曲輪の西側の空堀、途中から沢の堀に通じています。

大胡城の歴史
大胡城は大胡氏の居城であった。大胡氏は藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族であった。「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事には大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代の初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。しかしこの頃の大胡氏の居館は、現在の大胡城ではなく、城の西300mほどの所にある養林寺の辺りであったのではないかと推定されている。また、現存の城趾には近世大名牧野氏の城主時代の縄張りや構造が認められる
南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。
その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の乱のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。また、文明元年(1469年)に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えている。
子孫の牛込氏の伝えによれば、天文10年(1541年)、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。少なくとも永禄2年(1559年)以前には江戸へ出ており、既に後北条氏配下にあった(『大胡町誌』)ウィキペディアより
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

大胡城(上泉伊勢守に関して)

2017-07-26 19:27:12 | 山城ー上州
上泉伊勢守は長野業政に仕え、嫡子業盛の代となって武田信玄による箕輪城攻撃によって落城してしまいますが、剣においても、人物においても優れた人材であることから、信玄から仕官するよう勧められたが、断り新陰流の普及のため全国への行脚を行ったということが伝えられています。

上泉城の記事にある地図に自治会館がありますが、この敷地内に伊勢守の銅像があります。

銅像の北奥に上泉郷倉があり、ここが本丸とされています。

大胡城と上泉伊勢守との関係
上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ[4]、大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して[5]」新陰流を大成した。
信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。
嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える[6]。
剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏[7]も独自の家伝を持っている(後述)。ウィキペディアより


これらの伝説を裏付ける文書が遺されています。
その他の古文書
長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主[1]としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006年)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。
上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564年)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565年)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。[2]
永禄8年(1565年)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。
永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する[2]
丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567年)2月に与えた目録[2]と、同年5月に与えた印可状[3]が残る。
これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。ウィキペディアより


大胡城(伊勢守は大胡氏の一族で大胡城主ではありませんでした。)
大胡城地図
城好きな方は大胡城へは一度は訪問されたでしょうが、北にある大胡神社に尋ねたことがあるでしょうか、本殿裏に曲輪と土塁が確認でき、この大胡神社を守るかのような、箕輪城並の大空堀が残っています。機会があれば訪れてみてください。

地方道3号線で大胡地区に入り、信号橋西詰を北に向かい200mくらいで、この入り口があります。(案内板が出ています。)

二の丸は駐車場となっていまして、南、西に本丸を囲んでいます。

説明版

二の丸の東側にある桝形虎口

桝方虎口を東から見ています。

本丸南城壁

本丸西側

本丸北側

次回 大胡神社の遺構
コメント
この記事をはてなブックマークに追加