情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

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デジタル時代のNHK懇談会報告~政治から自立するために放送法改正を!

2006-06-21 00:17:55 | メディア(知るための手段のあり方)
デジタル時代のNHK懇談会の報告が6月19日,発表された。その内容は,ここ(←クリック)で確認することができるが,少なくとも,政治的圧力からいかに自立するかという観点ではしっかりした問題意識が盛り込まれているものとなっている。

20頁からの「おわりに-公共放送の自主自律のために、放送法は根本的に再検討されるべきである」をゆっくり味わって欲しい。

特に,21頁あたりに次のような指摘がされている。

【NHKの仕組みや事業内容、予算の成立の要件等については、放送法をはじめとする諸法令に定められている。経営委員会の委員が衆参両議院の同意に基づいて、内閣総理大臣によって任命されること、各年度の予算についても、国会承認を必要とすること等は、その端的な例である。NHKの公共性は、内閣や国会が関与するこうした仕組みによって担保される、というわけである。
 だが、ほんとうにそうなのだろうか。むしろこの制度こそが、NHKが、政府や政党や政治家の意向や動向に必要以上に気を配り、肝心の視聴者を軽視する傾向を生みだしてはいないだろうか、と私たちは危倶している。】


この問題意識は正しい。民主的コントロールという名目で政治権力によって監視されているのが,現在のNHKの姿である。


【議院内閣制のもとでは、議会は,有権者の選挙によって選ばれた議員によって構成され、内閣は議会の信任によって成立している。有権者のさまざまな期待は個々の政党や政治家に託され、立法につながり、行政によって税金を財源に実行される仕組みだが、果たしてこの一連の過程で、公共放送NHKの視聴者はどこに位置するのだろうか。
 視聴者は有権者と同義なのか。有権者の代表たる衆参両議院の議員は、同時に、税金とは別に受信料を支払っている視聴者を代表できるということか。あるいは、NHKは予算等の説明を国会ですれば、視聴者へのアカウンタビリティー(説明責任)を果たしたことになるというのだろうか。】


視聴者に対する責任と国会に対する責任とを混同してはならないはずだ…。


【おそらく、そうではない。NHKに限らずマスメディアは、立法行政・司法の三権から十分な距離をとって存立し、広範な視聴者や読者とのあいだに(直接的)な信頼関係を築くことで、その存在の根拠と正統性を獲得するものである。このことは近代という時代が言論・報道・表現の自由を基盤に成り立って以降、どの社会においても繰り返し問われてきたテーマであり、そのたびに確認されたのは、メディアが視聴者や読者と直接に向き合うことの重要性であった。】


メディアの存在価値は,権力の監視に尽きるわけです。


【私たちは、一連の不祥事の背後に、この重要性を忘れさせる制度的問題があったのではないか、という疑念を捨てきれない。相次いだ金銭的不祥事や、政治的中立性を問われたりする行為は、一見別々に見えるが、いずれも視聴者の軽視という同根から発している。これらは、NHKが視聴者に対してではなく政府や政治家の意向や動向に過敏に配慮せざるを得ない放送制度と、それを根拠づける放送法が生じさせたのではないか、少なくともその遠因を形成してはいないだろうか。】


そのとおり。なぜ,NHKの予算について,国会の前に,自民党の総務会などに会長が出席して質問されなければならないのか。そのようなことを許す制度であっていいのか?


【このように語りながら、私たちが感じているのは「時の流れ」、つまりは時代が確実にひとめぐりした、という思いである。現在の放送法制の骨格は、民意を国会に集中させるという戦後民主主義の高揚のなかで、先人たちが知恵を絞り、もっともふさわしい制度として形作ったはずである。それからテレビ放送が始まり、高度経済成長があり、民放が続々と登場し、NHKの放送波も増え、ハイテクや情報化や国際化の広がりと深まりにつれて経済も政治も社会も多様化し、複雑化してきた。3 0余回という放送法改正の軌跡は、それぞれの範囲になされた工夫と努力を示しているだろう。】


ここは美化している。日本の戦後の民主化は,放送法の改悪によって,つぶされてしまった。占領下では,直接郵政省(現総務省)が放送局免許権を握るのではなく政府から独立した独立行政委員会である電波管理委員会が免許権を握ることで,放送局が時の政権の道具とされることを防ごうとしたが,吉田首相は,サンフランシスコ講和条約締結後,まもなく,電波管理委員会を廃止し,郵政省が直接放送局に口出しすることを可能とした。そして,後に田中角栄はこの権限を使って放送局を系列化し,掌握してしまったのである。この点について,事実と対峙する必要がある。報告書は次のように続ける。


【そのなかで、マスメディアはときには「第4の権力」と呼ばれるほどに巨大化し、強い影響力を持つようになった。視聴者や読者がテレビや新聞雑誌に向ける目はかつてなく厳しくなり、それはとくに受信料で成り立つ公共放送NHKに注がれるようになった。こうした時代の変化、人々の意識の変容は、いま重く蓄積され、5 6年前に原型が制定された放送法によってその基本構造がほぼ固定されたままの放送制度とのあいだに大きなズレを生じさせているのではないだろうか。】


ここはやはり事実から目をそらせている。戦後は,自民党に対する予算の事前説明などを仰々しく行うことはなかったが,長期政権となるにつれ,説明の規模が大きくなり,ついには,会長までも出席するようになってしまった…。

【放送法は、この重大な問題の解決に向けて、根本から両検討されるべきである。公共放送NHKが視聴者に直接にアカウンタビリティーを果たし、広く合意を形成し、信頼関係を醸成できる仕組みが構築されるよう、その基本構造にまでさかのば-って見直されるべき時期にきている。】


見直すべきだという結論には大いに賛成する。


【これが容易でないことは、私たちも理解している。国会に代わって、誰が、どのような機関が、公共放送NHKの事業内容や予算等を審議・承認し、監督するのか。そのための機関をあらたに設置するのか、あるいは現在の経営委員会の役割を定義しなおして第三者機関に改組し、その任に当たらせるのか。そもそもそのような機関の人選をどうするのか。その人たちが広範な視聴者の意向や期待を反映していると、どうすれば保障できるのか…。】


そのヒントは,戦後間もなくの電波管理委員会にあるはずだ。

【どれも難問ばかりだが、だからといって放置しておくわけにはいかない。これらに向き合うことは、この国の民主主義のあり方を問うことと同義であり、その努力なしに主張される改革が十分な正統性を持つことはないだろう。マスメディアが高度に発達した国々はどこも、この同じ課題に直面し、それぞれのやり方でメディアと、とりわけ影響力の大きい公共放送と政府や政治家との距離をとろうと試行錯誤をかさねている。
 その努力の核心をなすのは、公共放送は視聴者のものであり、視聴者のためにあり、視聴者のみに責任を負うという信念である。その信念が貫き通されるなら、たとえどんな困難にぶつかろうとも、そのときは視聴者が公共放送を励まし、支えてくれるだろう。信念はそうした視聴者に対する信頼感にも基づいている。それはまた、私たちがたどり着いた結論でもあった。】

励ましたいと思う。そのためには,NHK内部でも自立する法的枠組みを真面目に検討して欲しい。

…というか,我々の側が,放送法を改正し,NHKの自立を実現すべく,積極的に,声を挙げなければならないと思う。メディアのあり方は,政治のあり方に密接に関連するのだから…。


参照記事:「NHKが独立行政委員会制度を提案?!…過去完了形」←クリック
「言論の多様性を確保する方法」←クリック



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