集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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警視庁柔術世話掛中村半助と、それを悪用した人たち(その3)

2023-03-06 12:51:56 | 雑な歴史シリーズ
【5 「警察武術」が希求された、複雑切実な理由】
 ここで、明治初年における「警察制度と武術の位置づけ」を確認してみましょう。

 明治政府は「治安維持に当たる者には、武術の素養がないといけない」という点については、意外と早くから気づいていました。
 まあ当時の明治政府は、江戸に乗り込んできたばかりの「占領者」ですから、いつ反乱を起こされても文句を言えない立場。従って、江戸の治安に当たる藩兵の武力向上に理解を示すのが早かったのです。
 江戸入府直後の明治元(1868)年、明治政府は天神真揚流・磯又右衛門や揚心流戸塚派・戸塚英美といった柔術師範、一刀流・下江秀太郎、鏡心明智流・桃井直行等の剣術師範を起用し、江戸の治安維持に当たる藩兵・府兵(このころはまだ「警察」ですらない)たちを鍛えました。
 しかし明治4(1871)年、警察組織の運用が司法省の手に移り、近代警察になったことを契機にこれらの師範は解雇され、警察の組織的武術修業は一時、完全に途絶します。
 その理由ですが、当時は秩禄処分や脱刀令(廃刀令は明治9年)などをきっかけに、各地の不平士族が不穏な動きを見せており、従って当時の警察官には個人技である撃剣・柔術ではなく、「銃や槍を持っての部隊運用」が求められたからです。また初代司法卿・江藤新平がフランス式警察制度を是としていたことも、「武術離れ」に拍車をかけました。

 しかし、西南戦争が終結して内乱が惹起する可能性がほぼゼロになり、警察官の任務が「軍人のようなもの」から「市中の安全を確保する、近代的ポリス」に変わった瞬間、警察官の「悪いヤツを生け捕りにするための個人技能」の習得が、にわかにクローズアップされるようになりました。
 特にこのころの東京には、とうじの警視庁にとって「仇敵」といっても過言ではない、花のお江戸の治安を脅かす一大悪人集団が存在していました。
 その正体は、当時できたばかりの東京鎮台(のちの歩兵第1師団)や、近衛師団の兵隊…ようするに「日本陸軍」です。

 東京鎮台は明治4(1871)年発足。その年はくしくも、警察が司法省警保局として誕生した、まさに同年です。
 当初は徴兵制が敷かれていなかったため、維新に功績のあった各藩からの志願兵で編成(これら藩兵や、人材不足を補うために徴募された士族出身の兵士は「壮兵」と称され、徴兵の兵隊と区別化された)されましたが、明治8(1875)年の徴兵制施行以後は、徴兵と壮兵の混成部隊となります。
 ところが徴兵制施行初期のころの兵隊は、極めて倫理観の低い、はっきり言えば「人間のゴミ」みたいな連中ばかりでした。
 当時は「徴兵」という制度自体が非常に不人気であったことから、養子縁組をしたり、カネを払ってニセ戸籍を作ったりと、ありとあらゆる手を使った「徴兵逃れ」が横行していました。
 ただそうした「徴兵逃れ」術は、ある程度以上の身分、あるいはお金がないと行使できない手段であり、当時はそれすらかなわないヤツ…つまり一般社会では「ど百姓や町人、土方や人夫の部屋住みの身分」(「五代目警視総監 三島通庸」より引用)の者ばかりが、兵卒となっていたわけです。
 ところがそういった輩は、一般社会で低い身分にいた反動から「いったん兵士となれば、いやしくも陛下の兵隊であって、しかも彼らは(自分たちを)法権の武士同様の心得」(前掲著)るようになり、たまの外出日には「オレたちは国家の干城だ」などと息巻いて「無銭飲食の挙句の果て、往来の婦女子にたわむれるものがある―いやはや言語道断の沙汰であった」(前掲著)という乱暴振りを発揮したわけです。
 警察官は当然、こうした狼藉を取り締まらねばならないわけですが、不良兵隊は仲間1人が取り締まられれば、そこらじゅうにいる仲間が次々と加勢にやってくるので始末が悪い。たちまち大乱闘となります。
 こうした「乱闘」の件数は、明治中期まで毎月5~6件のペースで発生し、逆に発生しなかった月がなかったといいますから、そのころまでの日本兵が、如何にモラルが低かったかをうかがい知ることが出来ましょう。
(日本軍の軍規が厳正になり、国民から「兵隊さんよありがとう」とみられるようになるのは、日清戦争終結まで待たなければならない)
 
 明治12年、川路利良大警視(大警視=のちの警視総監)は巡査講習所に於て、このような訓示を述べました。少し長くなりますが、全文を引用します。
(原文は段落がなくて読みにくいため、ワタクシのほうで勝手に段落をつけております。悪しからずご了承ください。)
「武術について私の所見を述べておく。
 諸君は学問だけでなく、武術の方でも選抜された人々である。
 武術を知らぬ警察官ほど物足りないものはあるまい。なんとなれば、有事の際に一人前以上の腕力があって凶徒を鎮圧し得てこそ国民信頼の警察官である。私も若い時から武術をやっているが、警察武術という者を打建てねばならぬと考えている。警察官は凶賊を相手としてもそれを傷つけることなく取り押さえることが上乗である。凶賊の暴力を巧みに避けて倒す、縛るという武術が必要と思う。逆手もまた正手とせねばならぬ。
 ゆえに武術の練習にしても常にそうした心を心として修練せねばならんのである。ほんとうをいえば、一人で剣術も柔術も心得て居らねば実際の役に立たんのである。
 昔の武士は剣術に優れて居るだけでなく、柔術も相当に心得て居た。私は若い頃素面素小手の稽古を受けたこともある。又、後進にその稽古をつけたこともあるが、実に真剣な態度の練習であった。だからその技術が実践に役立って来たのである。諸君の中で目録以上の人は、素面素小手で後進に教えてやって貰いたい。
 ガチャンガチャンのなれ合いげい古だけでは見せものの約束剣術になる。凶賊と戦うのには面とか胴とかに捉われた約束はない。諸君、『剣術使いになるな』『やわらとりになるな』とワタクシは力説しておく。その内に私も道場に出て諸君とたたかって見よう。今日はこれまで。」

 いっけん勇ましい訓示であり、警察関係史書では「警察武術の在り方を明確に示した名訓示」みたいに評していることが多いのですが、ワタクシが見るところ、
「警察官のくせに武術のひとつも身に着けていないヤツがおり、いたとしても、幕末以降に発達した『試合剣術』しか修めていないヤツが多く、実戦の役に立っていない。
 だから鎮台兵とのバトルで、彼らが『二度と乱暴しません』と思い知るほどの制圧ができないし、そのせいでいつまで経っても不良兵隊の狼藉が止まらない。こんなことが続くと、東京府民が『警察って役に立たねー』という目で見るようになる。組織としてこれを何とかしないとマズい…」
という、川路大警視の苦悩と焦燥感が見て取れます。
 その苦悩&焦燥感はかなり深刻だったのか、川路大警視はこの訓示直後の明治12年10月、ポックリ亡くなっています。
 
 ともあれ生前の川路大警視は自らの死の同年、警察官を鍛えるため、まずは剣術の方から「組織挙げての武道訓練」を開始します。
 真っ先に内務省警視局(当時)に師範として入ったのは梶川義正・上田馬之助・逸見宗助。次いで下江秀太郎、柿本清吉、得能関四郎、三橋鑑一郎などなど、幕末~明治初期にかけてその名を轟かせた大剣豪が集められ、巡査教習所道場などを中心に、バシバシ稽古をつけるようになります。
 しかし、警察官の人数に対して講師の数は完全に不足していたうえ、道場の不足などから警察官の剣術の腕は遅々として上がらず、また、柔術のほうについては全くのノータッチでした。

 警視庁が柔術の組織だった訓練に着手したのは、剣術から遅れること3年後の明治15(1882)年のこと。
 本章では登場の機会がありませんでしたが、主人公・中村半助の人生はここから大きく動き出します。

2 コメント

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Unknown ((゜_゜))
2023-03-08 17:03:22
素晴らしい論考。よくぞ調べられました。軍と警察の不仲の原因から警察武道の発達まで、日本の近代史と照らし合わせても矛盾の無い論証。
なるほど、古くは警察と軍隊、現在では警察と自衛隊との不仲説は、515、226以前からあったのですね〜(T_T)。続きを楽しみにしております。m(_ _)m
ありがとうございます! (周防平民珍山)
2023-03-10 20:37:39
 (゜_゜)さま、過分なお言葉、ありがとうございますm(__)m。
 「長い長い歴史」を書き終わったときには、「これでもう術科に関して調べることはしばらくないな」と思っていたのですが…(゜_゜)さまの「お台場での出版」という言葉でオダテブタになった(;^_^Aワタクシが始めたのがこの「中村半助伝」だったわけです。

 結論。ワタクシは警察術科に関する勉強も研究も、全く足りていませんでした_| ̄|○。
 「その2」から「その3」までにやたらと時間がかかったのは、国会図書館蔵書から、(ワタクシにとって)新たな史料がジャンジャン出てきて、それをどうまとめるかにかなり頭を痛めたためでございます。決して怠けていたわけではございません…いや、本当ですm(__)m。

 「長い長い歴史」同様、この「中村半助伝」もなんだか永くなりそうな予感ですが、お付き合いいただけますれば大変幸甚に存じますので、よろしくお願い申し上げますm(__)m。

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