集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第13回・広商の手から水が漏った原因を探る)

2016-12-16 19:55:39 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 大正14年度山陽大会準決勝で、新鋭の柳井中学が前年度全国優勝校であった広島商業を倒した一戦は、山陽球界を震駭させる革命的な一戦でした。
 この試合から数年が経過した昭和4年3月、柳井の絶対エース清水光長の中学卒業に際し、鈴木監督は大阪朝日新聞に「印象に最も残る一戦」として、このような惜別の手記を寄せています。
「今までの試合で一番印象に残っているのはなんといっても観音原頭(原頭…野原、転じて決戦場の古語)ではじめて山陽の覇権を握ったときです。広商との準決勝当日、頼みに思ふ清水が激しい腹痛で、とても出られないといふのをいろいろ手当てして葛湯を一杯飲ませ、頭には氷をのせて出かけたものです。はじめ杉田屋が立って1回に7点取られる悲境に今は清水も死を決してプレートに立ち今倒れるか倒れるかと心配するうちに、到頭15対9の大乱戦で勝ったのですが、あのときのことは永久に忘れられないほど感銘の深いものです」

 この記事が書かれた時点で、鈴木監督率いる柳井は甲子園出場4回、明治神宮大会出場1回を記録し、山陽地区を代表する強豪として認知されていた時期。それまで全国の強豪と試合し、印象深い試合も当然たくさんあったと思いますが、あえてこの一戦を挙げたあたり、いかにこの一戦に清水が命がけで投げ抜き、鈴木監督がそれに感動したかということが、深く理解されます。

 さてその印象の一戦、どうにも理解できないのは、前年度優勝校の広島商業の崩れっぷりです。
 なぜ前年度優勝校にして、伝説の石本監督の猛練習を潜り抜けた強豪が、こんなにもひどい試合をしてしまったのか…少し考察したいと思います。
 
 まず、前回の試合内容は、大正14年8月8日付大阪朝日新聞広島版に拠りましたが、どうもこの記事は野球を知らない記者が書いたと見え、アウトカウントがメチャクチャだったり、「そのバッターまで打順が回らんだろう!」というところまで打順が回ったりという誤記載があっちこっちに見受けられる、極めて雑な記事です。
 しかし、なんとか試合を形にしないと話にならん…その不正確な報道内容をもとにスコアブックをつけ、その試合状況をじっと眺めますと、なんとなく広商不覚の原因が見えてまいりました。

 まず広商の敗因その1として、前年度優勝メンバーが3人しか残っていないことが挙げられます。
 優勝メンバーと、この山陽大会メンバーを比較しますと、優勝時のメンバーはエース浜井武雄のほか、ショートの中島利雄、センター梶上初一しかおりません。ほかの6人はごっそり入れ替わっています。それ以外の6人が優勝に至るまでの落とし穴や怖さを知らず、初回の大量得点に油断し切ってしまったのでは…という可能性も、ゼロではありません。
 対する柳井中学は創部4年目であり、前年度から比べても、卒業による人員の入れ替えが全くなかった。この点、チーム事情が大きく異なります。

 次に、当時の広商は「大技も小技も使える」と紹介しましたが、柳井中学との1戦に関しては、その「大技が使える」ところが逆に仇なったという点が挙げられます。
 初回にオッチャンのタマを連打し、7点を挙げた広商。その攻撃の中に小技は一切なく、長打攻勢でした。広商の「大技」が、見事炸裂したといっていいでしょう。
 しかし早い段階で「大技」が炸裂しすぎたためか、広商は投手が清水に代わって以降、「大技」が全くふるっていません。
 清水のウイニングショットは「アウドロ」と呼ばれた、外角に落ちるカーブ。今のようにやれフォークだ、スプリットだ、ツーシームだと、落ちる変化球に種類がなかった当時、軟投派の投手がよく投げていた球種です。
 絶妙のコントロールとアウドロで押す清水の前に、広商は短打やバントといった攻撃を一切せず、なぜか長打を狙い続け、散発6安打に終わりました。
 初回の大技炸裂に気をよくした広商ナインが、それが通用すると思い続け、「そのうち点が取れる」と油断したというところも、敗因としては見逃せません。

 柳井中学は「大技も小技も使える」どころか、逆に「小技しかない」チーム。
 そのため柳井の攻撃は、1番加島と4番のオッチャンを除き、すべて徹底した右打ちの短打と、バントに収斂されました。
 「走者が出るとバント戦法を多用し手堅い作戦で着実に得点していった。最初は7点の差があるのにバント、バント。柳井の戦法は理解できぬほどの消極戦法であった」(広島商業七十年史より)
 しかしその「消極戦法」には、鈴木監督の「弱者の必勝法」が隠されていました。

 当時の野球のグラブを見たことがある方、いらっしゃいますでしょうか。
 今のように、人間工学に基づいた、片手でヒョイと捕れるようなすばらしい形状をした、あんなものではありません。
 ひとことで言えば、巨大な皮の手袋。右利きであれば右手をグラブに添え、両手でしっかり捕球しなければ、たちまちグラブからタマが漏れ出るような形状をしています。
 筆者がガキの時分には「タマは両手で捕れ!!!」というおっさん指導者がたくさんいましたが、これは、当時の捕球術の名残と言えましょう。
 こうしたグラブが一般的であった当時、ゴロの捌きは今以上に難しかったこと、想像に難くありません。その証拠に、当時の試合記録を紐解きますと、エラーの数が今より段違いに多い。
 タマが転がらず、長打が出にくい木製バットと取りにくいグラブを使っての野球ですから、ちょっとスピードを抑えたゴロを転がせば、全てセーフになります。こうした「短打と走塁で相手を崩す」ということを、当時の日本で自家薬籠中のものとしていたのは早稲田大学野球部だけであり、ワセダで鍛えた鈴木監督はそれを知悉していました。

 げんにこの試合、広商は「匍失(ゴロエラーのこと)」を、いい加減な記載の大阪朝日新聞の記事で読み取れるなかでも、8個も記録。石本監督の猛ノックで鍛え上げた、前年度優勝校とは思えないエラーの数です。
 またそのエラーが、柳井に大量得点を許した2回と8回に集中しているというのも見逃せません。連続エラーというのは、たいてい浮足立っているときにしか、起こりえないものです。

 「普段着の野球」というより「これ以外ない」という戦法を徹底して守った柳井中学は、山陽路の一方の横綱を撃破したのです。
 甲子園まであと一つ。その相手は、山陽路もう一方の横綱・広陵中学です。

【第13回・参考文献】
・「柳井高等学校野球部史」柳井高等学校野球部史編集委員会
・「地域別高校野球シリーズVOL.4 中国の高校野球」ベースボールマガジン社

コメントを投稿