善光寺の裏の、昔、地滑りで傷ついたその小山に、
小さな神社があります。
老人ホームで亡くなった方たちの供養塔の
すぐ脇が参道の入り口になっていて、並木道が整備されています。
しばらく行くと、里山の林の中に、緩い石段が延々と続いている。
駒形嶽駒弓神社”という名前ですが、
わたしはただ、駒弓神社、とだけ呼んでいます。
神仏分離以前には“善光寺奥の院”、また“水内大社奥社”とされていて、
そこから“馬に乗った如来さま”が現れるとの伝承も
あったそうです。
その栄華の面影は、今はありません。
***
ご祭神は“彦神別命(ひこがみわけのみこと)”
信濃の国を八つに分けて御子たちに治めさせたという諏訪の神さま。
(上高井歴史研究会『上高井歴史』大正四年刊)
彦神別さまは、その一番の年長者。ご長男にあたります。
(鈴木善作『信濃郷土史第一巻』)
ですが、本居宣長は、“言霊学”によって、
これを諏訪の神さまと同神だとしました。
“彦神”、というのは、
タケミナカタ・ヤサカトメの諏訪二柱のうちの男性の神を表し、
“別”というのは、その男神を分けて祭ったことを表わすのだと。
明治政府と県神社庁はその説をとり、
ヒコガミワケさまという独自の存在は、いないことになりました。
ですが、そう考えると、
他の“ご子息”とされる神々はどうなのだろう、
なぜ善光寺平の神だけが、タケミナカタさまと同神なのだろう、とか。
(いずれ書きますが)
非常に仏教への崇敬が深いこの神さまの個性を
諏訪の神さまと同神扱いする事で、殺してしまっていいのだろうか、とか。
いろいろな疑問を感じてしまうんです。
それでわたしは、本居宣長の説は無視して、
ヒゴガミワケさまとして、善光寺如来さま・諏訪の神さまとともに、崇敬しています。
***
善光寺からその裏山にかけては、古墳の多い地域です。
かつては善光寺の境内にもあったと言いますし、
裏山にかけての一帯が、
平安時代ぐらいまで積石塚古墳でいっぱいだった、という話も聞きます。
旧長野地区を眼下に一望する地附山の山頂。
そこに、一きわ大きな“地附山古墳”という前方後円墳があります。
前方後円墳としてはワリと小さめですが、
この地域の開拓の首長のものではないか、と推測されています。
地図で俯瞰すると、駒弓神社の本殿の延長線上
…つまり、神社を拝むと、自動的に拝んだ先が古墳になっている、
という位置になるのです。
地滑りの時、この前方後円墳の下にあった
いくつかの円墳が、崩落しました。
その後の対策工事の際に壊さざるを得なかったものを合わせて、
10~20m規模の五基の円墳が失われたそうです。
工事を始めるときに、あわせて崩落した円墳の調査を行ったところ、
(長野市教育委員会『地附山古墳群』)
副葬品として、当時の朝鮮半島のものと同じ様式の馬具が、
出土したそうです。
長野には“牧”のつく地名が多く、古代には馬の産地だったと言われています。
その首長の墓に馬具が副葬されるのは当たり前かもしれませんが、
“馬に乗った如来さま”の伝説と合わせると、
なんだか興味をひかれてしまいます。
***
地滑り前の地附山は、レジャースポットだったこともあったそうです。
でも、それは、ちょっと違う。と。
先日も、
“先祖は死んで自然に帰り、自然神と一つになる”という信仰について書きましたが。
だとすると、古墳の山だった地附山一帯は、
たぶん太古には“他界”だったのだろうな、と思います。
駒形嶽駒弓神社は、かたい岩盤の上に建てられていて、
あの地滑りの時にもびくともしませんでした。
そして、頂上の前方後円墳もまた、
崩落に影響を受けることはありませんでした。
崩れたのは、その二つの間の一帯のみ。
地附山古墳は今も変わらず、
公園の上から長野を見守り続けているのです。
小さな神社があります。
老人ホームで亡くなった方たちの供養塔の
すぐ脇が参道の入り口になっていて、並木道が整備されています。
しばらく行くと、里山の林の中に、緩い石段が延々と続いている。
駒形嶽駒弓神社”という名前ですが、
わたしはただ、駒弓神社、とだけ呼んでいます。
神仏分離以前には“善光寺奥の院”、また“水内大社奥社”とされていて、
そこから“馬に乗った如来さま”が現れるとの伝承も
あったそうです。
その栄華の面影は、今はありません。
***
ご祭神は“彦神別命(ひこがみわけのみこと)”
信濃の国を八つに分けて御子たちに治めさせたという諏訪の神さま。
(上高井歴史研究会『上高井歴史』大正四年刊)
彦神別さまは、その一番の年長者。ご長男にあたります。
(鈴木善作『信濃郷土史第一巻』)
ですが、本居宣長は、“言霊学”によって、
これを諏訪の神さまと同神だとしました。
“彦神”、というのは、
タケミナカタ・ヤサカトメの諏訪二柱のうちの男性の神を表し、
“別”というのは、その男神を分けて祭ったことを表わすのだと。
明治政府と県神社庁はその説をとり、
ヒコガミワケさまという独自の存在は、いないことになりました。
ですが、そう考えると、
他の“ご子息”とされる神々はどうなのだろう、
なぜ善光寺平の神だけが、タケミナカタさまと同神なのだろう、とか。
(いずれ書きますが)
非常に仏教への崇敬が深いこの神さまの個性を
諏訪の神さまと同神扱いする事で、殺してしまっていいのだろうか、とか。
いろいろな疑問を感じてしまうんです。
それでわたしは、本居宣長の説は無視して、
ヒゴガミワケさまとして、善光寺如来さま・諏訪の神さまとともに、崇敬しています。
***
善光寺からその裏山にかけては、古墳の多い地域です。
かつては善光寺の境内にもあったと言いますし、
裏山にかけての一帯が、
平安時代ぐらいまで積石塚古墳でいっぱいだった、という話も聞きます。
旧長野地区を眼下に一望する地附山の山頂。
そこに、一きわ大きな“地附山古墳”という前方後円墳があります。
前方後円墳としてはワリと小さめですが、
この地域の開拓の首長のものではないか、と推測されています。
地図で俯瞰すると、駒弓神社の本殿の延長線上
…つまり、神社を拝むと、自動的に拝んだ先が古墳になっている、
という位置になるのです。
地滑りの時、この前方後円墳の下にあった
いくつかの円墳が、崩落しました。
その後の対策工事の際に壊さざるを得なかったものを合わせて、
10~20m規模の五基の円墳が失われたそうです。
工事を始めるときに、あわせて崩落した円墳の調査を行ったところ、
(長野市教育委員会『地附山古墳群』)
副葬品として、当時の朝鮮半島のものと同じ様式の馬具が、
出土したそうです。
長野には“牧”のつく地名が多く、古代には馬の産地だったと言われています。
その首長の墓に馬具が副葬されるのは当たり前かもしれませんが、
“馬に乗った如来さま”の伝説と合わせると、
なんだか興味をひかれてしまいます。
***
地滑り前の地附山は、レジャースポットだったこともあったそうです。
でも、それは、ちょっと違う。と。
先日も、
“先祖は死んで自然に帰り、自然神と一つになる”という信仰について書きましたが。
だとすると、古墳の山だった地附山一帯は、
たぶん太古には“他界”だったのだろうな、と思います。
駒形嶽駒弓神社は、かたい岩盤の上に建てられていて、
あの地滑りの時にもびくともしませんでした。
そして、頂上の前方後円墳もまた、
崩落に影響を受けることはありませんでした。
崩れたのは、その二つの間の一帯のみ。
地附山古墳は今も変わらず、
公園の上から長野を見守り続けているのです。