八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「主イエスの母と愛する弟子」 2016年2月28日の礼拝

2017年03月03日 | 2015年度
イザヤ書42章5~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

わたしは主、これがわたしの名。
わたしは栄光をほかの神に渡さず
わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
見よ、初めのことは成就した。
新しいことをわたしは告げよう。
それが芽生えてくる前に
わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。


ヨハネによる福音書19章25~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


  「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母です。」が、主イエスが十字架の上で語られた第3の言葉です。摂理と孝心の言葉と説明されています。
  ヨハネ福音書は、これらの二つの言葉を母マリアと愛する弟子にそれぞれ語られたと告げています。二つの言葉ではありますが、主イエスの十字架上の七つの言葉と言ったときには、この二つの言葉を一つに数えます。

  主イエスが自分の母親に対して「婦人よ」と呼びかけるのは、冷たいように感じられます。主イエスが自分の母親に対して同じ言葉で呼んでいるところがもう一箇所あります。ヨハネ福音書2章にある「カナの婚礼」と呼ばれている出来事の中です。
  カナで行われていた婚礼の最中、その場にいた主イエスと母マリアとのやりとりの中でその言葉がでてきます。
  「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2章3~5節)
  この後、主イエスが水がめの中の水をぶどう酒に変える奇跡を行ったことが記されています。ヨハネ福音書は、これを「最初のしるし」と呼んでいます。
  この時、主イエスは母親に対して「婦人よ」と呼びかけるだけでなく、「わたしとどんなかかわりがあるのです」とも言っておられます。これもとても冷たく感じられる言葉です。隣人愛を説かれた主イエスとは思えないような言葉です。しかし、主イエスは、ここで神の独り子として語っておられるのです。それに続く「わたしの時はまだ来ていません。」という言葉がそれを示しています。「まだその時ではない。」の「時」とは、主イエスが十字架にかかられる時ということです。ヨハネ福音書には同じ意味で「時」が使われているところとして、7章8節、30節、8章20節、12章23節、27節、13章1節、16章4節、17章1節などがあります。特に12章23節で、主イエスが「人の子が栄光を受ける時が来た」と語り、27節では「わたしはまさにこの時のために来たのだ」とおっしゃっておられます。主イエスの十字架は、全ての人のための罪の贖いという意味があります。主イエスはここに、神の栄光が現れ、主イエスご自身はこのことのために地上に来られたと宣言しておられるのです。
  主イエスの十字架には、さらにもう一つの意味があることを、今日の聖書は指摘しています。それは、新しい神の家族の創造ということです。
  「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母です。」は、主イエスが自分の死後、母親を弟子に託す言葉のように見えます。人間的情愛として捕らえられやすい言葉ですが、むしろ、そのような人間的情愛を超えたことがここに起きているのです。すなわち、主イエスは、新しい家族の関係が創られたと宣言しておられるのです。それは、血筋による家族ではなく、神に結ばれて家族とされているということです。
  マルコ福音書に次のような出来事が記されています。
  「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31~35節)
  使徒パウロも次のように教えています。
  「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(Ⅱコリント5章16~17節)
  私たちは、キリストに結ばれて神の家族とされているのです。主イエスは、私たち一人ひとりの顔を見て、「ここにこそ、私の母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃっておられます。ここに私たちキリスト者の幸いがあります。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「今日、主イエスと一緒に楽... | トップ | 「神に見捨てられた神の御子... »

2015年度」カテゴリの最新記事