イザヤ書55章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
ヨハネによる福音書19章28~30節(日本聖書協会「新共同訳」)
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
洗礼者ヨハネが主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。「世の罪を取り除く」。これこそ主イエスが地上に来られた目的でした。世の罪を取り除くために、主イエスは十字架におかかりになりました。十字架にかかることこそ、旧約聖書の時代から行われてきた罪の赦しを得るための犠牲であり、しかも、それまで献げられてきた動物よりもはるかに勝る完全な献げ物となったのです。十字架にかかる時が近づいた時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)、「私はまさしくこの時のために来たのだ」(ヨハネ12:27)と告げられました。
主イエスが十字架の上で息を引き取る時、「成し遂げられた」と言われたのは、世の罪を取り除くという目的を完全に果たしたという宣言でした。
「世の罪を取り除く」というのは、「世の中の」という意味もありますが、何よりも「私たち人間すべての罪を取り除く」という意味があります。もっと極端に言えば、この私から罪を取り除くということです。それは、完全な罪の赦しを受けているということです。それが神の御心であり、御子イエス・キリストを遣わしてくださった御計画なのです。
私たちから罪を取り除くということは、私たちに永遠の命をお与えくださるということです。死は罪と結びついており、それゆえ、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と言われます。それならば、罪を赦された私たちは、永遠の命を受けることにもなるはずです。事実、「神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命です」(ローマ6:23)と言われています。
ヨハネ福音書は、キリストを信じることが永遠の命を受けることになると繰り返し語っています。罪の赦しと永遠の命が切り離すことができないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。
十字架のキリストは罪の赦しを完成させ、永遠の命を与え、救いを完成したのです。ですから、私たちの救いについて、これ以上他に何かを必要とすることはありません。ただ、私たちをこの救いから目をそらさせようとするものを退け、ひたすら救い主を仰ぎ続けることが大切なのです。そして、ここにも神の働きがあることをしっかりと心に留めておくべきです。神が救いを与えてくださり、この救いから離れることのないように、神が守ってくださるのです。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
ヨハネによる福音書19章28~30節(日本聖書協会「新共同訳」)
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
洗礼者ヨハネが主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。「世の罪を取り除く」。これこそ主イエスが地上に来られた目的でした。世の罪を取り除くために、主イエスは十字架におかかりになりました。十字架にかかることこそ、旧約聖書の時代から行われてきた罪の赦しを得るための犠牲であり、しかも、それまで献げられてきた動物よりもはるかに勝る完全な献げ物となったのです。十字架にかかる時が近づいた時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)、「私はまさしくこの時のために来たのだ」(ヨハネ12:27)と告げられました。
主イエスが十字架の上で息を引き取る時、「成し遂げられた」と言われたのは、世の罪を取り除くという目的を完全に果たしたという宣言でした。
「世の罪を取り除く」というのは、「世の中の」という意味もありますが、何よりも「私たち人間すべての罪を取り除く」という意味があります。もっと極端に言えば、この私から罪を取り除くということです。それは、完全な罪の赦しを受けているということです。それが神の御心であり、御子イエス・キリストを遣わしてくださった御計画なのです。
私たちから罪を取り除くということは、私たちに永遠の命をお与えくださるということです。死は罪と結びついており、それゆえ、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と言われます。それならば、罪を赦された私たちは、永遠の命を受けることにもなるはずです。事実、「神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命です」(ローマ6:23)と言われています。
ヨハネ福音書は、キリストを信じることが永遠の命を受けることになると繰り返し語っています。罪の赦しと永遠の命が切り離すことができないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。
十字架のキリストは罪の赦しを完成させ、永遠の命を与え、救いを完成したのです。ですから、私たちの救いについて、これ以上他に何かを必要とすることはありません。ただ、私たちをこの救いから目をそらさせようとするものを退け、ひたすら救い主を仰ぎ続けることが大切なのです。そして、ここにも神の働きがあることをしっかりと心に留めておくべきです。神が救いを与えてくださり、この救いから離れることのないように、神が守ってくださるのです。