八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「救いを成し遂げられたイエス」 2021年3月28日の礼拝

2021年06月05日 | 2020年度
イザヤ書55章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
   主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
   あなたたちの思いを、高く超えている。
 雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
   むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。


ヨハネによる福音書19章28~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。


  洗礼者ヨハネが主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。「世の罪を取り除く」。これこそ主イエスが地上に来られた目的でした。世の罪を取り除くために、主イエスは十字架におかかりになりました。十字架にかかることこそ、旧約聖書の時代から行われてきた罪の赦しを得るための犠牲であり、しかも、それまで献げられてきた動物よりもはるかに勝る完全な献げ物となったのです。十字架にかかる時が近づいた時、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)、「私はまさしくこの時のために来たのだ」(ヨハネ12:27)と告げられました。
  主イエスが十字架の上で息を引き取る時、「成し遂げられた」と言われたのは、世の罪を取り除くという目的を完全に果たしたという宣言でした。
  「世の罪を取り除く」というのは、「世の中の」という意味もありますが、何よりも「私たち人間すべての罪を取り除く」という意味があります。もっと極端に言えば、この私から罪を取り除くということです。それは、完全な罪の赦しを受けているということです。それが神の御心であり、御子イエス・キリストを遣わしてくださった御計画なのです。
  私たちから罪を取り除くということは、私たちに永遠の命をお与えくださるということです。死は罪と結びついており、それゆえ、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と言われます。それならば、罪を赦された私たちは、永遠の命を受けることにもなるはずです。事実、「神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命です」(ローマ6:23)と言われています。
  ヨハネ福音書は、キリストを信じることが永遠の命を受けることになると繰り返し語っています。罪の赦しと永遠の命が切り離すことができないからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。
  十字架のキリストは罪の赦しを完成させ、永遠の命を与え、救いを完成したのです。ですから、私たちの救いについて、これ以上他に何かを必要とすることはありません。ただ、私たちをこの救いから目をそらさせようとするものを退け、ひたすら救い主を仰ぎ続けることが大切なのです。そして、ここにも神の働きがあることをしっかりと心に留めておくべきです。神が救いを与えてくださり、この救いから離れることのないように、神が守ってくださるのです。


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「神に至る道イエス」 2021年3月21日の礼拝

2021年05月31日 | 2020年度
エレミヤ書6章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主はこう言われる。
 「さまざまな道に立って、眺めよ。
 昔からの道に問いかけてみよ
 どれが、幸いに至る道か、と。
 その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」
 しかし、彼らは言った。
 「そこを歩むことをしない」と。
 わたしは、「あなたたちのために見張りを立て
 耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。
 しかし、彼らは言った。
 「耳を澄まして待つことはしない」と。


ヨハネによる福音書14章1~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


  ヨハネによる福音書には、「私はまことのぶどうの木」とか「私はよい羊飼い」というように、「私は~である」という主イエスの言葉が多く出てきます。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。
  主イエスが十字架にかけられる前の夜、弟子たちとの最後の食事をしておられる時のことでした。ご自身が天に帰られる時が来たことを告げ、それは弟子たちのために、場所を用意し、迎えるためだというのです。そして、そこに至る道という意味で「私は道である」とおっしゃったのです。
  目的地に行こうとするとき、地図や方位磁石、また道路に出ている標識などに頼ります。現代ではカーナビなども使われますが、それでも回り道をさせられることがあります。まして、地図や方位磁石だけでは、目的地にたどり着くことすらむつかしい時があります。そして、神の国に至る道はさらにむつかしいのです。主イエスは、かつて「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13~14)と告げられました。その言葉の通り、私たちには神に至る道を見つけることは極めて困難です。否、不可能なのです。
  何故、神に至る道を見つけることが困難なのでしょうか。それは、この道は神の力、導きによらなければ発見できないからです。私たちの知恵や常識ではその道が神の国に至るとは思えず、その道を歩むことが愚かに見えるからです。
  主イエス・キリストは十字架にかかられましたが、人間の常識では、それは敗北でしかありません。その十字架にかかられた主イエスを、神の子であるとか救い主と信じることはあまりにも愚かなことです。それは使徒パウロが告げた「滅んでいく者にとっては愚かなもの」(Ⅰコリント1:18)ということです。まさに、「狭き門」、「細い道」です。しかし、この十字架にかかられた主イエスこそ、私たちを罪から救う神の知恵、力であり、命に至る道なのです。ですから、主イエスは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃったのです。
  キリストを信じる私たちは、すでに神の国に至る道を歩んでいますが、神の国へ向かう道が「細い道」と言われているということに注意していく必要があります。私たちはまだ神の国に入ったわけではありません。その途上なのです。試練も多くあります。しかし、それは神の国へ向かうことを妨げるものではなく、神をより一層信頼させるための訓練なのです。神の国に向かう旅において必要なことは、神が共にいてくださることであり、その確信です。
  このような神の国に向かう旅は、旧約聖書のエジプト脱出から荒れ野を経て、乳と蜜の流れる地カナン(パレスチナ)へと向かう旅を思い起こさせます。これと同じように、主イエスに救われた私たちも神の約束してくださった神の国を目指して旅をしています。モーセの時代には、神が共にいてくださることの目に見えるしるしとして、彼らの真ん中に礼拝のためのテント「会見の天幕」が設置されていました。今の私たちも生活の中心は、神を礼拝することです。私たちは地上においては旅人、神の国を目指す旅人なのです。


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「神の子イエスの栄光の時」 2021年3月14日の礼拝

2021年05月29日 | 2020年度
詩編96編1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

 新しい歌を主に向かって歌え。
 全地よ、主に向かって歌え。
 主に向かって歌い、御名をたたえよ。
 日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
 国々に主の栄光を語り伝えよ
 諸国の民にその驚くべき御業を。


ヨハネによる福音書12章20~36節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
  「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
  イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。



  過越しの祭りが近づいています。この祭りをエルサレムで祝おうと、外国で生活しているユダヤ人たちが多く集まってきました。その中には、ユダヤ人でない人もいたようです。今日登場する何人かのギリシア人というのもそういう人々だったようです。
  ギリシア人とありますが、本当のギリシア人なのかどうかは分かりません。ただ彼らは主イエスに会おうとし、弟子たちはそれを取り次ぎ、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」とだけで、彼らに会ったかどうかは何も触れられていません。このギリシア人は、主イエスの「栄光を受ける時が来た」という言葉をひきだし、舞台から消えてしまいます。ヨハネ福音書が私たちに伝えようとしていることは、まさにこの主イエスの栄光の「時」ということです。
  ヨハネ福音書は、これまで、この「時」ということを意識的に語ってきました。カナの婚礼(ヨハネ2:4)、主イエスが殺されそうになった場面で、「私の時はまだ来ていない」、「イエスの時がまだ来ていなかった」と記しています。そして、12章に入り、「時が来た」と記すのです。
  この言葉のすぐ後に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」という言葉が続き、主イエスの死について語られていることがわかります。主イエスの栄光の時とは、主イエスの死の時ということなのです。それは、天から響く「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という神の声がそのことを示しています。天からの声は、主イエスのそばにいた群衆のためだと説明されています。全ては神のご計画通りに進んでいることが明らかにされたのです。さらには、この後、主イエスが捕らえられることも神のご計画であることを告げておられるのです。私たちの目からは最悪と見えることでも、全ては神の御手の中にあるのです。
  この後、「時が来た」(ヨハネ13:1、17:1)という言葉が繰り返され、主イエスの十字架の時が迫っていることを告げます。
  主イエスが十字架にかかられる時が、なぜ「栄光を受ける時」と呼ばれているのでしょうか。ふつうであれば、十字架は敗北と屈辱のしるしであり、それを栄光と考えることはありません。しかし、主イエスの十字架は人々を罪から救う神の御計画であるゆえに、「栄光」と言われるのです。しかも、それは神がご自身の栄光と位置づけておられるのです。
  この福音書の初めの方で、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示し「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったと記しています。その神の御計画、御業が入念に準備され、神の御定めになった「時」に、それは起こったと、この福音書は告げるのです。その時は、いつでもよかったというのではないということです。この神の時は、私たちに対しても定められています。私たちの救いは何時でも良かったのではなく、神が定めたその時に救われるのです。



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「永遠の神であるイエス」 2021年3月7日の礼拝

2021年05月24日 | 2020年度
出エジプト記3章11~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
  神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
  モーセは神に尋ねた。
  「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
  神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
  「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名。
  さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。


ヨハネによる福音書8章21~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。


  ヨハネ福音書は主イエス・キリストが神の独り子であり、その方が地上に来られ、救い主としての働かれる様子を記しています。そして、物語を進めていく中で、主イエスが神の独り子であることを、登場する人々に明らかにされていく様子を描いています。今日の聖書の個所では、主イエスご自身の言葉によって、ご自分が神であることを示されたと記されています。それが「わたしはある」という言葉です。新共同訳聖書では、この「わたしはある」を二重のカギ括弧でくくって、特別な言葉であることがわかるようにしています。
  「わたしはある」は、出エジプト記3章14節で神の名前として出てきています。モーセに神が現れ、ご自分の名前を告げる場面です。
  聖書の中で、神の名前は「主」という言葉が多く出てきます。「主」は、十戒の第三の戒めである「神のみ名をみだりに唱えてはならない」とあることから、聖書に神の名前が出てきたとき、「主」と発音し、神の名前を呼ばないようにしてきた習慣によります。神の名前は、もともとは「ヤーウェ」と発音すると考えられています。この言葉は、「存在する」という言葉「ハーヤー」が語源で、その変化した形と考えられているからです。そうしますと、「ヤーウェ」と「わたしはある」とが深い関係があることにも納得がいきます。
  神は、モーセに「わたしはある」という名前を明かされましたが、主イエスはこの名前をご自身の名前として人々に明かされました。特に8章後半ではアブラハムのことが話題となり、その中で「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と宣言されました。すなわち、神の名前を口にしただけではなく、ご自身を神と宣言したのです。神の名前を口にするだけでも冒涜とみなされ、危険なことでしたが、ご自身を神と宣言したのですから、死罪に値します。ですから、ユダヤ人たちは主イエスを石で撃ち殺そうとしたのです。(8章59節) 
  さて、主イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8章24節)、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(8章28節)とおっしゃいました。すなわち、主イエスが永遠の神であると信じることが罪から救われ、永遠の命に入るということ、そして、主イエスが永遠の神であり、私たちを罪から救うことは、主イエスが十字架にかけられたことによるのであり、そのときに初めて主イエスが神であることを知ることになるとおっしゃっているのです。
  かつて、洗礼者ヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と証ししました。主イエスの十字架を告げていたわけですが、ヨハネ福音書は、十字架にかかられた主イエスは単なる犠牲ではなく、小羊のように罪の贖いとなられた永遠の神であると告げています。その神が私たちに永遠の命を与えてくださるのです。そして、ここに、罪人である私たちに対する神の愛があるのです。



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「カナの婚礼での奇跡」 2021年2月28日の礼拝

2021年05月10日 | 2020年度
詩編124編1c~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 イスラエルよ、言え。
 「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら
 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
   敵意の炎に呑み込まれていたであろう。
 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを越えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう
   驕り高ぶる大水が。」

 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
   わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは
   天地を造られた主の御名にある。


ヨハネによる福音書2章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


  ヨハネ福音書の特徴に、「7」という数字を意識していることが挙げられます。「7」という数字が記されているわけではありません。たとえば、洗礼者ヨハネが登場し、「翌日」という言葉が繰り返され、数えてみると7日間という日数が意識されていることがわかります。そして、その直後に主イエスが最初の奇跡を行うのですが、ヨハネ福音書は、それを「最初のしるし」と呼び、その後、主イエスがなされた奇跡を七つ上げています。そのすべてを「しるし」と呼んでいるわけではありませんが、「7」という数字を意識していることは分かります。
  「7」という数字は、旧約聖書の中でも完全数として扱われ、代表的なものとしては、7日間を周期とする一週間です。旧約聖書の初めに天地創造の出来事が記されており、7日間で全てのものが完成したとあります。「7」は、神の業を象徴する数字として用いられ、ヨハネ福音書は、この「7」という数字によって神の業を意識させ、主イエスの地上の生涯が神の業であることを明らかにしようとしているのです。
  さて、聖書のカナの婚礼の物語に戻りましょう。カナは、主イエスが育ったナザレから20キロほど離れたところにあり、主イエスの母マリアがその婚礼に出かけ、主イエスと弟子たちも招かれていました。その婚礼の最中に、母マリアが主イエスのところに来て、「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。この状況に対してどうしてほしいのかは言っていません。ただ困っていることだけを伝えているのです。この状況について、母マリアは主イエスにすべてをゆだねているのです。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです」という主イエスの言葉は冷たく感じられます。母マリアの言外の願いを拒否しているようにも見えます。しかし、結果的に主イエスは婚礼のために上等のぶどう酒を用意する奇跡を行います。
  この奇跡には、婚礼のためのぶどう酒を用意するということ以外に別の意味があることをこの福音書は語ります。それは、母マリアに対する言葉の中に、「私の時はまだ来ていません」という言葉があり、この福音書を読む私たちに、主イエスの時を意識させるということです。その主イエスの「時」とは十字架につけられる「時」です。主イエスの十字架によって、神はすべての人を罪から救うこととされたのです。主イエスの地上の生涯は、十字架へ向かっての歩みでした。
  主イエスは奇跡を行う際、召使たちに水がめを用意させ、水を一杯に満たさせました。この水がめは、家に入るときや食事の前に手を洗うためのものです。すなわち清めのための水ですが、それをぶどう酒に変えたのです。このぶどう酒は十字架において流される主イエスの血を象徴するものです。もちろん、この時周囲にいた人々はそのことを知りません。この福音書を読み進めていく中で、そのことを悟るように配慮されているのです。それ故、この奇跡を、ヨハネ福音書は「しるし」と呼びます。神の独り子としての栄光をあらわす「しるし」であり、神の業が示されていると告げているのです。




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