八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「闇に輝く光」 2021年12月24日 キャンドルサービス

2022年01月25日 | 2021年度
ルカによる福音書2章1~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」
  天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行った。



  主イエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが羊の番をしていました。彼らを覆っていた夜の闇は、罪が満ちている私たちの世界を象徴しています。
  「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。地中海世界を支配していたローマ帝国は、ユダヤの人々をも支配していました。税金を課せられ、賦役を課せられます。そして何より、神の民であるにもかかわらず異邦人に支配されているという現実に、自尊心までも傷つけられたのです。
  ヨセフとマリアは登録をするために、ベツレヘムの町にやってきました。マリアはすでに身重になっており、今にも赤ん坊が生まれそうな状態でした。ベツレヘムの町には、ヨセフとマリアのように登録をするために来た人々でいっぱいでした。どの宿屋もヨセフとマリアを受け入れることができませんでした。人々に悪意があったわけではありません。ただ、彼らの心には身重になった女性を思いやる心のゆとりがなかったのです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますが、人びとに身重の女性を思いやる心のゆとりのなさを示す象徴となっており、人びとを覆う闇を象徴しているとも言えます。
  さて、町の近くで野宿をしている羊飼いたちの前に、天使が現れました。「主の栄光が周りを照らした」とあります。現代とは違い、夜になると全くの闇となります。そのような状態の中、突然まばゆい光が周囲を照らし、天使が現れたのです。羊飼いたちの驚きはどれほどだったでしょう。そして、天使が告げたことは、羊飼いたちをさらに驚かせました。
  「救い主がお生まれになった」。
  ユダヤ人たちが長い間待ち焦がれていた救い主がお生まれになったというのです。
  羊飼いたちは自分たちに語られた言葉を胸に刻み、天使が去った後、ベツレヘムの町に向かいました。ようやく、彼らは飼い葉おけに寝かされている幼子を探し当て、自分たちの見たこと聞いたことを人々に話しました。
  生まればかりの幼子の様子について、聖書はまばゆい光に包まれていたとか、天使に勝る光が覆っていたというようなことは全く記されていません。その幼子を見ただけでは、これが救い主だとか、神の独り子であるとは誰も知ることはできなかったでしょう。光り輝く様子があったならば、この方こそ神の独り子であるとか救い主であると悟ったことでしょう。しかし、全くそのようなことはなかったのです。こうしてみると、神の独り子よりも天使の方がまばゆい光に包まれていたということになります。光り輝く天使と神の独り子とではどちらまばゆい光を放っているのかということを聖書が言いたいのではありません。天使たちは、語るメッセージがまことに神の御計画であることが羊飼いたちにわかるように、光に包まれて現れたのです。
  それではなぜ、生まれてきた神の独り子は光に包まれていないのでしょうか。ここには、神の独り子の栄光は人々の目には隠されているということを示しています。コリントの信徒への手紙二4章4節に「神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにした」とあります。誰にでもわかるような光ではなく、神が救おうとされている人にしか見えない光が神の独り子に与えられていたということです。救いにあずかっていない人にはその光が見えないと、使徒パウロは語っているのです。
  生まれたばかりの神の独り子が光り輝いていたとは記されていませんが、それはその周囲にいた人々が救われていないからとか、不信仰だったからということではありません。神の独り子が生まれた時、闇が地上を覆っていたからなのです。闇に閉ざされた世界にいる私たちは、やがて光り輝く神の都に入って行くことになります。
  新約聖書の一番最後に、ヨハネの黙示録があります。その黙示録の最後の方に神の都の様子が描かれています。
  「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。・・・そこには夜がないからである」(ヨハネ黙示録21章23~25節)。ここに出てきます「小羊」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストご自身が神の都を照らす光だというのです。夜がこの都を覆うことはないというのです。神の都に入る時まで、私たちは罪が満ちている地上の世界を旅しています。しかし、この闇の中で、私たちを照らす光があります。それが救い主イエス・キリストです。この光は、羊飼いたちの前に現れた天使たちのように、闇を切り裂くようにして輝いてはいません。しかし、私たちがこの光に導かれて歩むことができるように、私たちの歩むべき道の先頭に立ってその道筋を照らしてくださっているのです。
  かつて、神はエジプトを脱出させたイスラエルの民を、昼は雲の柱、夜は火の柱によって荒れ野の中を導かれました。行く手を阻む湖やその他の障害を取り除き、そこに新たな道を示されました。それと同じように、罪が満ち、闇が覆っているこの地上において、神はキリストという光によって導き、神の都への行く手を阻む全ての障害を取り除き、神の都に至る新たな道を示してくださっているのです。
  荒れ野の中で食べるものがなかった時、天からマナを与えて養ったように、私たちにキリストご自身が天からのパンとなって私たちを養ってくださるのです。水がない時に岩から水が流れ出し、彼らの渇きをいやされたように、キリストは私たちのために命の水となって、私たちの心の中に永遠の命の水を湧き出させてくださるのです。そういう神の守りと導きの中で、闇の中ではありますけれど、一歩一歩と神の都に近づいていきます。
  先ほど引用しましたコリントの信徒への手紙の続きに次のような言葉があります。
  「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。
  さらにパウロは次のように言葉を続けます。
  「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。これが私たちの人生だというのです。
  私たちは神に救われた。だから、悩みや苦しみはないとは、パウロは言いません。私たちを取り巻く世界には罪が満ち、闇が覆っています。しかし、どのような状況にあろうとも神は私たちを見捨てたりしません。また、あきらめることなく、神の都へと守り、導いてくださるのです。
  私たちを神の都へと導いてくださる主イエスの御降誕を、心から喜び、感謝しましょう。

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「救い主を喜びたたえる」 2021年12月19日の礼拝

2022年01月17日 | 2021年度
サムエル記上2章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ハンナは祈って言った。
 「主にあってわたしの心は喜び
 主にあってわたしは角を高く上げる。
 わたしは敵に対して口を大きく開き
 御救いを喜び祝う。
 聖なる方は主のみ。
 あなたと並ぶ者はだれもいない。
 岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。
 思い上がった言葉を口にしてはならない。
 主は何事も知っておられる神
 人の行いが正されずに済むであろうか。

 勇士の弓は折られるが
 よろめく者は力を帯びる。
 食べ飽きている者はパンのために雇われ
 飢えている者は再び飢えることがない。
 子のない女は七人の子を産み
 多くの子をもつ女は衰える。
 主は命を絶ち、また命を与え
 陰府に下し、また引き上げてくださる。
 主は貧しくし、また富ませ
 低くし、また高めてくださる。
 弱い者を塵の中から立ち上がらせ
 貧しい者を芥の中から高く上げ
 高貴な者と共に座に着かせ
 栄光の座を嗣業としてお与えになる。

 大地のもろもろの柱は主のもの
 主は世界をそれらの上に据えられた。
 主の慈しみに生きる者の足を主は守り
 主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。
 人は力によって勝つのではない。
 主は逆らう者を打ち砕き
 天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
 主は地の果てまで裁きを及ぼし
 王に力を与え
 油注がれた者の角を高く上げられる。」


ルカによる福音書1章39~56節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
   目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
   わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、
   わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
  マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。



  今日読んでいただいた聖書には三人の女性が登場します。旧約聖書のサムエル記上に登場するハンナと新約聖書のルカ福音書に登場するマリアとエリサベトです。この三人には神の恵みによって子供を授かったということ、そしてそれぞれの子どもは神のために大きな働きをする人物となったという共通点があります。
  最初のハンナは、マリアとエリサベトより千年以上前の女性です。ハンナと夫の間には子どもがなく、彼女の大きな悩みとなっていました。子どもを授けてくださいと神殿に行くたびに祈っていましたが、ついにその願いがかなえられ息子を得ました。その時に歌ったのが、サムエル記上2章1節以下の祈りです。ハンナの子どもはサムエルと言い、やがて神の民の指導者となりました。
  次はエリサベトです。エリサベトの夫はエルサレムの神殿で祭司を務めていましたが、二人には子供がなく、もはや子供を望める年齢ではなくなっていました。しかし、天使が夫ザカリアに現れ、子どもが与えられると告げ、エリサベトは身ごもりました。エリサベトが産んだ子どもは洗礼者ヨハネで、後から現れるイエス・キリストを証しする働きをしました。
  最後はマリアです。マリアの場合は、先の二人とはかなり状況が違います。ハンナとエリサベトは年齢の違いはあっても二人とも結婚をしていました。しかし、マリアの場合は婚約中であり、夫婦の関係がないにもかかわらず、いきなり天使が現れ、子どもを身ごもると告げられたのです。しかも、その生まれる子は神の子だというのです。天使の言葉にも驚かされましたが、その事情を知らない人々からは姦淫を疑われ、死刑に処せられる危険があり、マリアの心は大いに乱れたに違いありません。天使が告げたとおり、マリアは子どもを産みイエスと名付けられ、すべての人を救う救い主となりました。
  ハンナは子どもが生まれた後、神への感謝の祈りをささげましたが、それがサムエル記上2章1~10節です。神の恵みを受けた喜びを高らかに歌っており、多くの女性がこの祈りの言葉を口ずさみ、励まされたことでしょう。マリアもこの祈りを自分の祈りのように口ずさんだのではないでしょうか。
  マリアはエリサベトと会うために、百数十キロの旅をしました。何日もかかり、盗賊が襲うかもしれない危険な旅です。天使がマリアにエリサベトが身ごもったことを告げたのです。会って確かめるようにという意味だったと考え、その行き来についても神の守りがあると信頼し、出かけて行ったのです。
  エリサベトに会ったマリアは、天使の言葉が真実であり、神はすべての人を救うために、エリサベトと自分をその御計画の器として選んでくださり、それは確かに自分自身にとっても何にも勝る神の恵みであることを確信したのです。
  マリアは神への感謝の祈りをささげました。それは、多くの人々を励ます特別の祈りとして、最初の言葉マグニフィカート(私の魂は主をあがめる)という名前で呼ばれてきました。
  神の恵みを確信したマリアは、もはや人々からの疑いの目を恐れません。神の恵みを、自分の心と体でしっかりと受け止めたからです。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」とマリアは歌います。
  マリアと状況は違いますが、私たちも神の恵みを受け、イエス・キリストにより救われました。主イエス・キリストは私たちを救うために、この地上においでくださったのです。神の恵みを、自分の心と体でしっかりと受け止めましょう。そして、マリアと共に「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と高らかに祈りましょう。



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「神の使者ヨハネ」 2021年12月12日の礼拝

2022年01月10日 | 2021年度
イザヤ書40章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 慰めよ、わたしの民を慰めよと
 あなたたちの神は言われる。
 エルサレムの心に語りかけ
 彼女に呼びかけよ
 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
 罪のすべてに倍する報いを
   主の御手から受けた、と。

 呼びかける声がある。
 主のために、荒れ野に道を備え
 わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 主の栄光がこうして現れるのを
   肉なる者は共に見る。
   主の口がこう宣言される。

 呼びかけよ、と声は言う。
 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
 肉なる者は皆、草に等しい。
 永らえても、すべては野の花のようなもの。
 草は枯れ、花はしぼむ。
 主の風が吹きつけたのだ。
 この民は草に等しい。
 草は枯れ、花はしぼむが
 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 高い山に登れ
 良い知らせをシオンに伝える者よ。
 力を振るって声をあげよ
 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
 声をあげよ、恐れるな
 ユダの町々に告げよ。

 見よ、あなたたちの神
 見よ、主なる神。
 彼は力を帯びて来られ
 御腕をもって統治される。
 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
 主の働きの実りは御前を進む。
 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。


マルコによる福音書1章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  神の子イエス・キリストの福音の初め。
  預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


  イザヤ書40章以下は「第二イザヤ」と呼ばれています。1章から39章はアモツの子イザヤという預言者が残した言葉と考えられていますが、40章以下はイザヤ書の中にありますが、名前がわかりませんが、全くの別人であろうと考えられています。名前がわかりませんので、仮の呼び名として「第二イザヤ」と呼ばれています。その内容はアモツの子イザヤの場合、神への背きの故に国が滅びると厳しい警告がなされています。それに対し第二イザヤは既に国が滅び、バビロンへ捕らわれていった人々に故国への帰還の約束がなされ慰めが語られています。バビロン捕囚前に語ったアモツの子イザヤと捕囚中に語った第二イザヤは活躍した時代が違うことがはっきりしているので二人は別人と考えられるわけです。しかし、二人が残している言葉には非常に近い信仰や表現を見ることができるので、二人は先生と弟子の関係にあるのかも知れないとも推測されています。
  「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」という言葉で第二イザヤは始まります。
  「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた」と言葉は続きます。バビロン捕囚はまだ終わっていませんけれども、その捕囚が終わると告げるのです。そもそもバビロン捕囚は、神に罪を犯した結果起きたもので、その罪が赦される、それ故に捕囚の時は終わるというのです。これは単に未来を予想しているというのではありません。そのことは既に起こると確定しているというのです。
  「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
  どんなに美しいものであってもやがて衰え、どんなに力強くともやがては滅びる。しかし、神の御言葉は衰えることも滅びることなく、永遠に立ち続ける。そして、その御言葉の通りに全てが実現する。これが第二イザヤが告げていることです。
  第二イザヤの預言通り、やがてバビロンはペルシア帝国に滅ぼされ、ユダヤの人々はエルサレムに帰ってきました。神の御言葉が確かであることが、このようにして示されたのです。
  さて、第二イザヤは今の私たちにとり過去の人物であり、彼の言葉も過去の出来事について語られたものです。しかし、神を信じる人々は、これを単なる過去の言葉とは考えませんでした。マルコ福音書がイザヤ書40章3節の言葉を引用したのも、この言葉が過ぎ去った言葉ではなく、今起きており、またこれから起きる出来事を指し示すと考え、記しているのです。
  そのマルコ福音書がイザヤ書40章3節を引用したのは、洗礼者ヨハネについて語る場面です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」は少し言葉が違いますが、間違いなくイザヤ書40章3節の言葉です。マルコ福音書はこの言葉を洗礼者ヨハネを預言していると考え、引用しました。第二イザヤが告げる「神のために道を整えよ」という言葉は洗礼者ヨハネに向けられているとし、そして洗礼者ヨハネの後に登場し、整えられた道を歩むのはイエス・キリストだと考えているのです。この場合、整えられた道というのは、罪人がイエス・キリストを信じ受け入れるようになる状態を考えています。
  私たち自身はこの御言葉をどう聞くべきでしょうか。第二イザヤが語った相手はバビロン捕囚中の人々でした。自由になる希望がまだ見えない人々でした。囚われの状態から解放されると第二イザヤが語ったとおり、人々は解放され、故国へと旅立ち、エルサレムに到着しました。
  私たちにも第二イザヤは語っています。あなたの罪が赦され、故国へ帰る日が来ると。私たちの故国とはどこでしょう。それは神の都、神の国です。「わたしたちの本国は天にある。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っている」(フィリピ3:20)とある通りです。主イエスも「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2~3)と約束しておられます。
  私たちはこの世に生きていますが、罪が満ち、罪に支配されています。キリストに救われていますが、神が用意してくださっている神の都に到着した時こそその救いの完成となります。いわばバビロンに捕らえられている人々が故国帰還の約束を受けているのと同じように、私たちは罪の力に捕らえられているのです。しかし、神がユダヤの人々をエルサレムへと帰還させたように、私たちも神の都へと帰還するのです。 神は主イエス・キリストの前に洗礼者ヨハネを遣わされました。キリストを指し示し、キリストを証する者として先に遣わされたのです。このキリストは私たちを照らす光です。罪と苦しみの中という闇の中に輝く光です。闇夜を終わらせる曙の光です。その光を指し示す者として洗礼者ヨハネが遣わされたのです。その意味で、洗礼者ヨハネは曙を告げる明けの明星です。
  キリストは私たちを照らす光となって、闇夜から導き出してくださいました。ただ、光の神の都にはまだ到着しておりません。その旅の途中です。神の御言葉は確かであると最初に申し上げました。旅の途中ではありますが、私たちが神の都に到着し、神が私たちのために用意を調えてくださっていることも確かです。ですから、バビロンにいた時のユダヤの人々に与えられた希望の言葉のように、それは私たちに与えられている希望の言葉であり、その言葉通りに神に喜び迎えられることは確かなのです。 この世での私たちの生活は、ただ漫然と待ち続ける生活ではありません。この世では悩みや苦しみ、悲しみがあります。しかし、神が私たちと共にいてくださり、それらか助け出してもくださいます。こうして、神が共にいてくださること、助けてくださることを繰り返し経験していくことで、いっそう神を信頼する者へと訓練されるのです。ちょうどエジプトを脱出した人々が約束の地に入るまで、神に守られ養われて40年の荒れ野の生活をしたようにです。彼らの真ん中に臨在の幕屋があって神が共にいてくださることを彼らが確認しつつ生活したように、私たちにとってのも臨在の幕屋は必要です。そして主日ごとの礼拝こそ、神が共にいてくださること確認する臨在の幕屋なのです。

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