ゼファニヤ書3章17節(日本聖書協会「新共同訳」)
お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
マルコによる福音書10章13~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
教会の暦では6月14日は「子どもの日・花の日」です。そこで、いつものマタイ福音書の連続講解から離れ、説教題を「神の愛によって神を知る」としました。
神を知りたいと、多くの人が思っています。多くの宗教や占いが存在するのは、その現れでしょう。しかし、どれが本当の神かとなると、どの宗教も、自分たちこそ本当の神の教えを伝えていると主張し、決着はつきません。キリスト教の場合も、自分たちの信じる神こそ唯一無二の真の神と信じています。ただし、それを客観的に証明することは出来ません。それは、どの宗教も同じで、自分たちの神こそ真の神であると客観的に証明すること出来ません。それでは、宗教とか信仰というものが主観的なもので、自分にとって真理と考えているものが他の人々にとっては真理ではないのかという疑問が生じます。確かに、そういう問題はあります。そこで、私たちの視点を変えることが重要になります。それは、どの神が正しいかではなく、私たちが信じる神はどのような方かということです。この方を私たちの神と信じる根拠は何かということです。それは、他の宗教と比較することからではなく、私たちが信じるキリスト教はどのような方を神と信じているかということに目を向けるということです。そこで、さらに私たちの目は、聖書に向けられていく必要があります。私たちが神をどう考えるかではなく、聖書が私たち告げている神はどのような方かということです。
聖書は、神についていろいろのことを教えています。神は唯一であるとか、ただしい方であるとか、それ故に罪人(つみびと)である私たちに対して怒り、裁く方であるとかです。しかし、聖書が私たちに最も大切なこととして伝えているのは、神が私たちを愛してくださっているということです。
と言っても、聖書は愛という思想を語るのではありません。神が私たちを愛しておられる出来事を伝えています。それは、主イエス・キリストです。「神はわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4章10節)とある通りです。「罪を償ういけにえ」とは、キリストが十字架にかかられた出来事を指しています。
神の愛について語ろうとすれば、他にもいろいろあるでしょう。しかし、聖書は、キリストの十字架にこそ、神の愛が最もはっきりと現れているというのです。神は愛について教えるだけでなく、御子であるキリストを十字架におかけになり、私たちの罪の償いとしてくださいました。私たちが罪の償いをしたのではありません。しかし、あたかも私たちが罪の償いをしたかのように扱ってくださったのです。
神は正しい人間のための神であるだけではなく、罪人の神となり、彼らを罪と死から救い、義と命へと導いてくださる方なのです。キリストが語られた「迷える小羊」のたとえは、まさにそのことを教えています。
神はこれほどまでに、私たちを愛してくださっているのです。この神の愛を通して、私たちは神を知ることができるのです。そして、このようにして、神がどのような方であるかを知ることを、神は強く願っているのです。その意味で、聖書は、私たち語りかけられる愛の手紙です。この神の愛の言葉を繰り返し聞くことが礼拝であり、この神の愛を伝えることが私たちの伝道なのです。
お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
マルコによる福音書10章13~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
教会の暦では6月14日は「子どもの日・花の日」です。そこで、いつものマタイ福音書の連続講解から離れ、説教題を「神の愛によって神を知る」としました。
神を知りたいと、多くの人が思っています。多くの宗教や占いが存在するのは、その現れでしょう。しかし、どれが本当の神かとなると、どの宗教も、自分たちこそ本当の神の教えを伝えていると主張し、決着はつきません。キリスト教の場合も、自分たちの信じる神こそ唯一無二の真の神と信じています。ただし、それを客観的に証明することは出来ません。それは、どの宗教も同じで、自分たちの神こそ真の神であると客観的に証明すること出来ません。それでは、宗教とか信仰というものが主観的なもので、自分にとって真理と考えているものが他の人々にとっては真理ではないのかという疑問が生じます。確かに、そういう問題はあります。そこで、私たちの視点を変えることが重要になります。それは、どの神が正しいかではなく、私たちが信じる神はどのような方かということです。この方を私たちの神と信じる根拠は何かということです。それは、他の宗教と比較することからではなく、私たちが信じるキリスト教はどのような方を神と信じているかということに目を向けるということです。そこで、さらに私たちの目は、聖書に向けられていく必要があります。私たちが神をどう考えるかではなく、聖書が私たち告げている神はどのような方かということです。
聖書は、神についていろいろのことを教えています。神は唯一であるとか、ただしい方であるとか、それ故に罪人(つみびと)である私たちに対して怒り、裁く方であるとかです。しかし、聖書が私たちに最も大切なこととして伝えているのは、神が私たちを愛してくださっているということです。
と言っても、聖書は愛という思想を語るのではありません。神が私たちを愛しておられる出来事を伝えています。それは、主イエス・キリストです。「神はわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4章10節)とある通りです。「罪を償ういけにえ」とは、キリストが十字架にかかられた出来事を指しています。
神の愛について語ろうとすれば、他にもいろいろあるでしょう。しかし、聖書は、キリストの十字架にこそ、神の愛が最もはっきりと現れているというのです。神は愛について教えるだけでなく、御子であるキリストを十字架におかけになり、私たちの罪の償いとしてくださいました。私たちが罪の償いをしたのではありません。しかし、あたかも私たちが罪の償いをしたかのように扱ってくださったのです。
神は正しい人間のための神であるだけではなく、罪人の神となり、彼らを罪と死から救い、義と命へと導いてくださる方なのです。キリストが語られた「迷える小羊」のたとえは、まさにそのことを教えています。
神はこれほどまでに、私たちを愛してくださっているのです。この神の愛を通して、私たちは神を知ることができるのです。そして、このようにして、神がどのような方であるかを知ることを、神は強く願っているのです。その意味で、聖書は、私たち語りかけられる愛の手紙です。この神の愛の言葉を繰り返し聞くことが礼拝であり、この神の愛を伝えることが私たちの伝道なのです。