八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の愛によって神を知る」 2020年6月14日の礼拝

2020年06月22日 | 2020年度
ゼファニヤ書3章17節(日本聖書協会「新共同訳」)

 お前の主なる神はお前のただ中におられ
 勇士であって勝利を与えられる。
 主はお前のゆえに喜び楽しみ
 愛によってお前を新たにし
 お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」


マルコによる福音書10章13~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


  教会の暦では6月14日は「子どもの日・花の日」です。そこで、いつものマタイ福音書の連続講解から離れ、説教題を「神の愛によって神を知る」としました。
  神を知りたいと、多くの人が思っています。多くの宗教や占いが存在するのは、その現れでしょう。しかし、どれが本当の神かとなると、どの宗教も、自分たちこそ本当の神の教えを伝えていると主張し、決着はつきません。キリスト教の場合も、自分たちの信じる神こそ唯一無二の真の神と信じています。ただし、それを客観的に証明することは出来ません。それは、どの宗教も同じで、自分たちの神こそ真の神であると客観的に証明すること出来ません。それでは、宗教とか信仰というものが主観的なもので、自分にとって真理と考えているものが他の人々にとっては真理ではないのかという疑問が生じます。確かに、そういう問題はあります。そこで、私たちの視点を変えることが重要になります。それは、どの神が正しいかではなく、私たちが信じる神はどのような方かということです。この方を私たちの神と信じる根拠は何かということです。それは、他の宗教と比較することからではなく、私たちが信じるキリスト教はどのような方を神と信じているかということに目を向けるということです。そこで、さらに私たちの目は、聖書に向けられていく必要があります。私たちが神をどう考えるかではなく、聖書が私たち告げている神はどのような方かということです。
  聖書は、神についていろいろのことを教えています。神は唯一であるとか、ただしい方であるとか、それ故に罪人(つみびと)である私たちに対して怒り、裁く方であるとかです。しかし、聖書が私たちに最も大切なこととして伝えているのは、神が私たちを愛してくださっているということです。
  と言っても、聖書は愛という思想を語るのではありません。神が私たちを愛しておられる出来事を伝えています。それは、主イエス・キリストです。「神はわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4章10節)とある通りです。「罪を償ういけにえ」とは、キリストが十字架にかかられた出来事を指しています。
  神の愛について語ろうとすれば、他にもいろいろあるでしょう。しかし、聖書は、キリストの十字架にこそ、神の愛が最もはっきりと現れているというのです。神は愛について教えるだけでなく、御子であるキリストを十字架におかけになり、私たちの罪の償いとしてくださいました。私たちが罪の償いをしたのではありません。しかし、あたかも私たちが罪の償いをしたかのように扱ってくださったのです。
  神は正しい人間のための神であるだけではなく、罪人の神となり、彼らを罪と死から救い、義と命へと導いてくださる方なのです。キリストが語られた「迷える小羊」のたとえは、まさにそのことを教えています。
  神はこれほどまでに、私たちを愛してくださっているのです。この神の愛を通して、私たちは神を知ることができるのです。そして、このようにして、神がどのような方であるかを知ることを、神は強く願っているのです。その意味で、聖書は、私たち語りかけられる愛の手紙です。この神の愛の言葉を繰り返し聞くことが礼拝であり、この神の愛を伝えることが私たちの伝道なのです。


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「弟子たちのつまずきを予告」 2020年6月7日の礼拝

2020年06月20日 | 2020年度
ゼカリヤ書13章7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ
 わたしの同僚であった男に立ち向かえと
 万軍の主は言われる。
 羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。
 わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。


マタイによる福音書26章31~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
 『わたしは羊飼いを打つ。
 すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。



  過越の食事を終えた主イエスは、弟子たちと共にオリーブ山の中腹にあるゲッセマネというところへ向かいました。その場所は主イエスがたびたび祈っておられた場所で、このときも祈るために出かけられたのです。
  この時、主イエスが突然「今夜、あなたがたは私につまずく」と言い出されました。食事の時にも、「あなたがたの中にわたしを裏切る者がいる」と言い出され、弟子たちはとまどいを隠せませんでした。あの時からあまり時間が経っていない内に、また「あなたがたは私につまずく」と言われたのです。彼らは主イエスの真意を理解することが出来ず、自分たちが信用されていないのだろうかと辛く悲しい気持ちに陥ったことでしょう。
  この時、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と断言し、自分の決意の固さを主イエスに示そうとしました。そのペトロに主イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。しかしペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、さらに決意の固さを示したのです。もちろん、他の弟子たちも口々に自分たちの忠実さを強調しました。
  弟子たちの言葉を聞き、主イエスは何を思われたでしょうか。主イエスは弟子たちの気持ちを良く理解されていました。しかし、彼らの弱さをも知っておられたのです。弟子たちの気持ちがどうであろうとも、これから起こることに弟子たちは絶えられないという現実を知っておられたのです。
  主イエスが語られたのは、弟子たちを失望させるためではありません。ましてや、ご自分が弟子たちを信用していないことを告げているのではありません。
  これから起こる神の御計画を告げておられるのです。そして、その御計画の前に、弟子たちは為す術もなくつまずくとおっしゃっておられるのです。
  そのことを、ゲッセマネで捕らえられる直前に、弟子たちに語られたのは、彼らに心の備えをさせると共に、弟子たちのために主イエスがずっと祈っておられることを伝えるためでした。ルカ福音書には、主イエスはこの時、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と、ペトロに語られたと記されています。この言葉に込められている主イエスの思いは、この時だけではなく、彼らを弟子として選ばれた時からずっと心に抱き続けて来られた思いであったに違いありません。かつて、主イエスは夜通し祈って彼らを弟子に選ばれました。その時からずっと、彼らのために祈り続けてこられたのです。まもなく、役人たちに捕らえられます。その弟子たちのために、ご自分が祈り続けておられること、また、何よりも全ての人を救うという神の御計画が確実に進んでおられることを彼らに悟らせたかったのです。
  弟子たちとは、これが今生の別れではありません。主イエスは、この時、復活をも予告されます。それが神の御計画であると宣言されているのです。そして、復活の主は、永遠に私たちと共にいてくださるのです。


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「聖霊による一致」 2020年5月31日の礼拝

2020年06月18日 | 2020年度
申命記6章4~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

エフェソの信徒への手紙4章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。


  エフェソの信徒への手紙は、これまで神の救いについて語ってきました。4章からは、その救いを伝える教会について語っていきます。
  と言いましても、教会という組織についてではありません。神に救われ、神の民となったキリスト者の生活についてと言った方がよいかも知れません。そこで、古い生き方を捨てるとか、新しい生き方、光の子として生きるというように話が進められていき、さらに、夫婦、親子、奴隷と主人の関係についての教えに進んでいきます。
  4章1~16節は、キリスト者の生活についての教えの冒頭部分になります。ここで強調されているのは、霊による一致です。すなわち、聖霊の働きによってキリスト者が一つとされているということです。
  これは単に人間社会の理想を語っているのではありません。信仰の事柄として、神と私たち、そして、私たち相互が現実にどのような関係にあるかを告げているのです。そこで、神と私たちとの関係を確認するところから話が始められていきます。それが1~6節です。

  まず、キリスト者は、神から招かれた存在であることが確認されます。「神から招かれた」は、神に召されたという意味です。キリスト者の生活のあり方というのは、神に召された事実とその自覚から始まります。キリスト者の生活の土台と言って良いでしょう。
  神に招かれるということは、神から呼びかけられるということ、少し古くさい言い方ですと、お声がかかるということです。召されると言っても良いでしょう。召された人はそれに応える責任があります。そこで、「招きにふさわしく歩みなさい」と教えられます。キリスト者は召してくださった神を仰ぎ、神の御心に適うように生活するということです。
  2節で次の四つのことがあげられています。第一に高ぶらないこと、第二に柔和であること、第三に寛容な心を持つこと、第四に愛をもって互いに忍耐することです。
  これらは、隣人に対するあり方を教えていますが、それは、自分を良く見せることが目的ではありません。むしろ、神の目を意識するということがその根底にあります。そこで、まず、神が私たちにどのように向き合ってくださっているかを見ることが大切です。
  「高ぶらない」ということは、自らを低くすることです。使徒パウロは次のように教えています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
  主イエスも、「仕えられる者ではなく、仕える者となりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と教えておられます。
  また、神の寛容については、マタイ福音書18章にある「仲間を赦さない家来」のたとえを思い起こすべきでしょう。神の私たちに対して身を低くし、ご自分の命までささげてくださいました。
  忍耐については神の忍耐を思い起こしましょう。「神は一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:9) 
  そして、主イエスは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と教えています。この隣人への愛は、旧約聖書のレビ記からの引用ですが、「兄弟を憎むな。復讐するな。恨みを抱くな。」の戒めに続いて「隣人を愛しなさい」と教えられています。また、ローマの信徒への手紙12章9~21節も同じように教えています。
  最初にも言いましたように、これらの教えは人間社会の理想が語られているのではありません。全ての人間の救い主は主イエスおひとりであり、私たちはその主イエスに結ばれているのです。その主イエスは私たちの救いのために十字架にかかられ、復活なさいました。それによって、罪と死から救われたのです。ですから、私たちの生活は、贖罪と復活の信仰の下でのみ理解されます。それはまた、神の赦しによって成り立つ生活と言うべきでしょう。
  救い主キリストに結ばれて、私たちは神の家族、一つの家族とされています。霊による一致は、そのことを示しています。私たち一人ひとりは、性格、働きの違いはあってもキリストに結ばれて一つなのです。この一致は、私たちの努力目標ではなく、神の恵みです。聖霊の働きにより、そのように成長させられていくのです。

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「新しい契約」 2020年5月24日の礼拝

2020年06月16日 | 2020年度
出エジプト記24章6~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

マタイによる福音書26章26~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


  過越の食事が始まりました。この食事は単に食べ物を食べるだけではなく、今から約3000年以上前に起きたエジプト脱出を記念することが目的です。そのため、儀式的な要素が強く、パンとぶどう酒だけではなく、ハロシェスと呼ばれる練り物や苦菜、神殿にささげた羊の肉などが用意されました。しかし、そのほとんどが省略され、パンとぶどう酒だけがピックアップされ、主イエスの言葉が強調されています。しかも、この主イエスの言葉は、過越の食事の時に語られる儀式的な言葉ではありません。いつもの過越の食事では語られない言葉なのです。そして、主イエスのこの言葉こそ、福音書が大切に伝えていることなのです。それは、今のキリスト教会が聖餐式の度ごとに唱え、受け継がれてきたことにも現れています。
  この時の主イエスの言葉の重要な点は、まず第一に、パンを裂き、弟子たちに配る時に「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒を配る時に、「これは私の血である」と言われたことです。これにより、パンとぶどう酒が主イエスの体を象徴しています。しかも、十字架でくぎを刺されたキリストの体と流された血潮を表しているのです。
  第二に、「契約の血」という言葉が出てきます。この言葉で連想するのは、出エジプト記24章8節です。
  エジプトを脱出したイスラエルの人々がシナイ山に到着し、十戒を受け、契約を結びます。その時、モーセが告げた言葉が「これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」です。これにより、イスラエルの人々は神の民となったのです。
「契約の血」というのは、「互いに交わした約束は決して破らない。もし破ったなら命をもって償う」ということを表しています。
  出エジプト記24章では、動物の血を、半分を祭壇に、残りの半分をイスラエルの民に振りかけました。イスラエルの民は、命にかけてこの契約を守ると誓い、祭壇に振りかけられた血は、神もまた、命にかけてその約束を守ると示されたのです。
  神が約束を破り、命がなくなるということはあり得ないことですが、絶対に約束を破ることはないという固い決意を示されたのです。
  ところで、神がイスラエルの民と契約を結ばれたのは、彼らがエジプトを脱出した後のことで、過越というエジプト脱出のきっかけとなった出来事に直接関係しているわけではありません。その意味では、主イエスが過越の食事の最中に、出エジプト記24章を思い起こさせる契約という言葉を言い出されたのは、不思議に思えるかも知れません。
  しかし、主イエスはあえて過越というエジプト脱出の出来事と神とイスラエルとの契約ということとを結びあわせようとされています。なぜなら、主イエスは、単に過去を振り返るためではなく、これから主イエスの身に起こることを象徴的に示そうとしているからです。すなわち十字架の死ということです。
  主イエスの十字架の死は、私たちに差し出された神との契約です。主イエスがパンを裂き、「これはわたしの体である」と言われたのは、十字架にかけられるご自身の体を指し、ぶどう酒を「私の血、契約の血」とおっしゃったのも、十字架の上で流されるご自身の血を指しており、出エジプト記24章における契約を思い起こさせようとされたのです。それは単に契約を繰り返すというだけではなく、全く新しい契約を意味していました。
  いわゆる最後の晩餐の時の主イエスの言葉は、第一コリント11章25節やルカ福音書では、「わたしの血による新しい契約」という言葉になっています。エレミヤ書31章31節以下で、エレミヤは「イスラエルの人々が神との契約を破ったので、神は新しい契約を立てる」と告げています。出エジプト記24章における神との契約は破られた。もはや人間の側からは、その契約を回復することは出来ない。そこで、神は全く新しい契約を立てると告げているのです。そして、主イエスの十字架こそ、その新しい契約なのです。
  過越の食事の時の主イエスの言葉は、聖餐式という形で受け継がれています。これは、主イエスによる新しい契約を指し示し、契約そのものではありません。主イエス・キリストの名による洗礼が契約そのものです。
  使徒パウロはローマの信徒への手紙6章で、洗礼を主イエスに結ばれるための洗礼、その死にあずかる洗礼と語っています。そして、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とも言っています。それは罪と死の支配から自由にされることになるということです。これは新しいエジプト脱出であり、新しい過越がなされたのです。その意味で、聖餐式は罪と死からの自由を記念する新しい過越の食事なのです。

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「過越の食事」 2020年5月17日の礼拝

2020年06月15日 | 2020年度
出エジプト記12章24~27節

  あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。

マタイによる福音書26章17~25節

  除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」


  マタイ福音書26章17節の「除酵祭」は過越の祭りの事です。詳しい説明は省略しますが、厳密に言いますともともと別の祭りでした。ただ、同じ日に行われる事から一つの祭りのようにして守られてきました。
  この祭りは、出エジプト記12章に記されているように、エジプト脱出の記念として毎年行われてきました。今でも多くのユダヤ人は、一生のうちで一度はエルサレムで過越の祭りを祝いたいと願っています。
  エジプト脱出の記念といいましても、彼らがクーデターを起こしたというのではありません。エジプトのファラオは彼らの脱出を全力で阻止しようとしましたが、神が大いなる力を発揮され、エジプト中に疫病が発生しました。疫病はユダヤ人の住まいを通り過ぎ、彼らには災いが起こりませんでした。ついにファラオは折れて、ユダヤ人の出国を認めたのです。このようなことから、エジプト脱出を記念する祭りを過越の祭りと呼ぶようになり、急いで脱出したため、小麦粉に酵母を入れることができなかったので、祭りには酵母の入っていないパンを食し、除酵祭とも呼ぶようになったのです。
  とにかく、この祭りは、彼らを救い出してくださった神に感謝し、この出来事を記憶することを目的としているのです。そして、主イエスと弟子たちも、この祭りのためにエルサレムへ来たのでした。
  20節に「夕方になると」とあります。現代では、新しい一日は真夜中に始まりますが、当時のユダヤでは日が沈んだ時から新しい一日が始まります。ですから、20節の「夕方になる」は、この時から金曜日が始まったことを示しています。
主イエスと弟子たちの過越の食事の描写はほとんどありません。単に食事をしたとあるだけです。過越の食事は、極めて儀式の要素が強く、語られる言葉、食事の内容、その順序も決まっていましたので、あえて書く必要がなかったからなのでしょう。
  和気あいあいと食事が進んでいた時、突然主イエスが「あなたがたの中に裏切り者がいる」と言い出されました。驚いた弟子たちは次々と「まさか、わたしを疑ってはいないでしょうね」と尋ねました。イスカリオテのユダも、たまらず同じように主イエスに尋ねると、主イエスは「それはあなたが言ったことだ」と答えられました。他の弟子たちには、この言葉の意味がはっきりしなかったかも知れませんが、ユダには、主イエスが何か感づいているらしいことが分かったようです。主イエスはそれ以上その話題には触れませんでしたが、その後の時間は、ユダにとって気まずく何とも落ち着かないことだったでしょう。
  17~25節は、過越の祭りが始まっており、過越の食事が行われている場面が描かれています。マタイ福音書はその様子を描写するというよりは、主イエスの十字架の時が、今まさに目の前にやってきていることを強調しています。マタイ福音書26章は、主イエスの殺害を目論むユダヤの宗教的指導者とイスカリオテのユダの密約、その間、主イエスに注がれた香油を葬りの備えとの主イエスの宣言がありました。それに続く今日の聖句は、弟子の裏切りとご自身の死の予告です。一歩一歩、十字架に近づいていく時の流れを感じさせます。
  主イエスはご自身に迫る危険を察知しておられたと言うより、確実な死が迫っていることを知っておられたのです。もしこの時、死を避けようとするなら、まだ避けることは出来ました。引き返すことが出来たのです。しかし、主イエスはこの時も引き返そうとはなさいません。イスカリオテのユダの裏切りを匂わせたのは、ご自身の死を避けるためではなく、むしろユダに「引き返すならば、今が最後のチャンスだ」と警告するためだったのです。たとえ、ユダの裏切りがなかったとしても、主イエスの十字架の死は変えられることはなかったでしょう。それが全ての人々を救うための神のご計画だからです。きっと、ユダの裏切りではない別の方法がとられていたことでしょう。
  主イエスは、この過越の食事から一日も経たないうちに、十字架で命を落とされます。これらの出来事は、かつてのエジプト脱出とは別の、新しい脱出のドラマを目の前に描き出します。私たちを罪と滅びから脱出させ、神の都と永遠の命へと導く旅の始まりです。主イエスの十字架と復活は、新しい過越の出来事となったのです。

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