八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「結婚と離縁」 2018年9月30日の礼拝

2018年10月29日 | 2018年度
創世記2章21~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
 「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
  こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

マタイによる福音書19章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
  ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

  マタイ福音書19章1節から第5の物語の部分になります。主イエスがガリラヤ地方を去り、エルサレムの町でユダヤの指導者たちと論争する場面までが描かれています。
  1~2節には、ガリラヤを離れ、エルサレムへ出発する様子が記されています。3節以下には、いきなりファリサイ派の人々が現れ、議論を仕掛けてきます。彼らに悪意があることは、「イエスを試そうとした」という言葉に表されています。「試す」と訳されている言葉は「誘惑する」という意味もあり、実際この言葉は、マタイ4章1節と3節では悪魔が主イエスを誘惑したと訳されています。その他の箇所では、全て主イエスの敵対者たちが主イエスを試そうとした場面で出てきます。すなわち、罠に陥れるようと、悪意を持って近づいてきたということです。19章3節に登場するファリサイ派の人々も、同じように悪意を持って近づいてきたのです。
  「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているか」。これが、彼らが仕掛けた罠でした。離縁に関しては、ファリサイ派の中でも容認する人々と消極的な人々があったようです。おそらく、彼らの間で決着がつかなかったのでしょう。そのような問題を、ナザレのイエスには答えることができないと考えたのです。
  主イエスは創世記の言葉を引用しながら、結婚は神が結びあわせてくださった関係であることを指摘します。それに対してファリサイ派は、申命記を持ち出して、モーセは離縁状を渡して離縁するように命じたと反論しました。主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と答えられました。
  離縁状は、本来女性の立場を守る目的で定められました。それまでは、男性は気に入らなくなると、理由を付けて離縁していました。それでは、彼女が両親の元に返っても立場がありません。そこで、離縁するのには、正当な理由があることを証明するものとして、離縁状を書くことを命じたのです。これによって、女性が濡れ衣をかぶせられることのないように配慮したのです。しかし、いつしか、離縁状を書けば離縁して良いと考える人々が増えてきたのです。ファリサイ派の質問はそのような状況を表しているのでしょう。
  離縁は、人間の生活について、神が本来計画しておられたことではありません。人間の弱さ、罪深さの現れといって良いでしょう。
  現代社会において、離婚は多く見られます。私たちの心が頑固なので、妻を離縁することを許されたとも言えます。しかしそれは、決して「推奨されている」ということではありません。あくまでも緊急避難的措置なのです。結婚について神の恵みを思い起こすべきでしょう。
  今日の離縁の問題は、単純に離婚が許されるか否かの問題ではありません。また、結婚関係が続いているからそれでよいということでもないでしょう。いずれにしても、結婚した相手が、神によって特別に用意された相手であること、神によって結びあわされ、愛する対象とされていることを感謝しつつ、共に歩むことが重要です。主イエスの言葉を聞いて「妻を迎えない方がましです」と言い放つ弟子たちは、結婚が神の恵みであることを理解していないようです。


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「神の憐れみと赦しを忘れない」 2018年9月23日の礼拝

2018年10月15日 | 2018年度
エゼキエル書18章21~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

マタイによる福音書18章21~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

  マタイ福音書18章15~20節で、兄弟姉妹に対する忠告について語られました。続く21~35節では、悔い改めた兄弟姉妹を赦すことについて語られています。ただ赦すことについてではなく、何回まで赦すべきかという事が焦点になっています。それは、主イエスへのペトロの質問から始まりました。
  「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
  ペトロは、何回まで兄弟を赦すべきかということについて、自分の問題として質問しています。基本的にとか原則的にという質問ではなく、「私はどうすればよいのでしょう」と尋ねているのです。この言葉を聞く私たちも、「そうだ、私もどうすればよいのだろうか」と、我が身を振り返らずにいられません。
  もう一つ注目しておきたいのは、何人を赦すかではなく、何回赦すかということです。同じ人が何回も繰り返し罪を犯した時、どこまで相手を赦すかということです。私たち自身、同じ過ちを繰り返すことがあります。ですから、相手が二度三度過ちを犯した時、失敗を繰り返すことは自分もあるので、赦そうと考えるでしょう。しかし、あまりにもそれが度重なると、堪忍袋の緒が切れてしまいます。ペトロもそのような思いで尋ねているのです。
  「七回まででしょうか」の「七」という数字には、赦す回数について根拠があるわけではありません。「七」が、旧約以来、特別な数字と考えられてきたので、そこまで赦せば充分ではないかという気持ちでしょう。しかし、主イエスの答えは違いました。
  「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
  この言葉に、ペトロや他の弟子たちは驚いたに違いありません。「現実ではない。我々にはとうてい無理だ。無茶言わないでください」。そういう思いでいっぱいになったのではないでしょうか。私たちも例外ではないでしょう。
  そのことを察して、主イエスはたとえを語られます。王から一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来が、百デナリオンを貸している仲間を赦さず投獄したという話です。このたとえでは、赦す回数ではなく、借金の帳消しという形で、赦すということが教えられています。
  ここで注目すべき事は、王から借金を赦してもらった家来は、返済期間を延ばしてもらったのではなく、借金を完全に帳消しにされ、もはや返済義務がなくなったということです。一万タラントンの借金の帳消しとはおよそ考えられないことで、これも現実離れした話です。
  一デナリオンは、労働者一日分の給金とされています。一タラントンは一デナリオンの六千倍もの金額です。これだけでも、一万タラントンがどれだけ莫大な金額か分かろうというものです。
  家来が仲間に貸したのは百デナリオンでした。約三ヶ月分の給金と考えると、決して安くはありません。しかし、それよりはるかに莫大な借金を帳消しにしてもらったことを忘れ、「仲間」を赦さない家来を、借金を帳消しにした王は、見過ごさないということが、このたとえの結論です。
  兄弟の罪を赦せるか赦せないかを考える時、私たち自身が神から罪を赦されていること、しかももっと重大で無数の罪を赦されていることに目を向けよと指摘されているのです。それでも、私たちが兄弟を赦すことは難しいことです。自分の寛容さに頼るのではなく、神に赦されていることに常に目をとめ、兄弟を赦す心を与えてくださいと祈るしかありません。


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「教会に委ねられている責任」 2018年9月16日の礼拝

2018年10月01日 | 2018年度
詩編32編1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 いかに幸いなことでしょう
 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
 いかに幸いなことでしょう
 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 わたしは黙し続けて
 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
 御手は昼も夜もわたしの上に重く
 わたしの力は
   夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
 わたしは罪をあなたに示し
 咎を隠しませんでした。
 わたしは言いました
 「主にわたしの背きを告白しよう」と。
 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
   赦してくださいました。〔セラ

 あなたの慈しみに生きる人は皆
 あなたをあなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
 大水が溢れ流れるときにも
 その人に及ぶことは決してありません。
 あなたはわたしの隠れが。
 苦難から守ってくださる方。
 救いの喜びをもって
   わたしを囲んでくださる方。〔セラ

 わたしはあなたを目覚めさせ
 行くべき道を教えよう。
 あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
 分別のない馬やらばのようにふるまうな。
 それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。
 そのようなものをあなたに近づけるな。

 神に逆らう者は悩みが多く
 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
 すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。


マタイによる福音書18章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
  はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

  18章20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」は、キリスト教会とは何かということを考える時、しばしば引用される言葉です。「教会はキリストの体」、「キリストは教会の頭」という言葉と並んで重要だと言えます。
  四つの福音書で、教会という言葉はマタイだけにあり、しかも3回しか出てきません。最初はペトロが主イエスを神の子と告白した時で、「ここに私の教会を建てる」と主イエスがおっしゃいました。他の2回は今日の箇所です。どちらにも「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という言葉があり、教会の権威について語られているところは似ています。しかし、ここでの教会の権威というのは、信仰を持っている人々が罪を犯した場合、その人に忠告し、悔い改めさせる責任があるという意味です。相手を罰することを目的とした権威ではありません。ヨハネ福音書20章23節に、今日の聖書の言葉と似た言葉があります。復活された主イエスが弟子たちに教えられた言葉です。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。この言葉は、教会の権威とは、罪を赦す権威であることを示しています。
  さて、教会に様々な問題があったことは、新約聖書にある手紙を見るとよく分かります。そこには「偽使徒」、「偽の兄弟」、「偽預言者」、「偽教師」という言葉があり、当時の教会が直面していた問題の一端を見ることができます。
  マタイ福音書は、具体的な問題について語っていません。ただ、相手を忠告する時の基本的な姿勢のみが記されています。まず相手と二人だけで話をし、それでだめなら他に一人か二人を連れて行き忠告しなさいと勧めています。それでもだめなら教会に申し出、教会が忠告するという手順が示されています。
  このような忠告の手順は、相手に圧力をかけるためのものではありません。忠告が個人的意見や判断ではないことを明らかにするのが目的です。教会が共通に持っている信仰に基づいて忠告するということなのです。
  忠告の目的が悔い改めに導くことにあることは、15節の「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」の言葉で明らかですし、21節以下で兄弟を赦すことについてのたとえが語られていることも、そのことを示しています。
  18章1~14節で、誰に対しても軽んじてはいけないと教えられ、21節以下では悔い改めた人間を何回でも赦しなさいと教えられます。その間に挟まれているのが、今日の15~20節です。相手が神に立ち帰るように祈りつつ忠告することが、教会の責任なのです。

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