創世記2章21~24節(日本聖書協会「新共同訳」)
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
マタイによる福音書19章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイ福音書19章1節から第5の物語の部分になります。主イエスがガリラヤ地方を去り、エルサレムの町でユダヤの指導者たちと論争する場面までが描かれています。
1~2節には、ガリラヤを離れ、エルサレムへ出発する様子が記されています。3節以下には、いきなりファリサイ派の人々が現れ、議論を仕掛けてきます。彼らに悪意があることは、「イエスを試そうとした」という言葉に表されています。「試す」と訳されている言葉は「誘惑する」という意味もあり、実際この言葉は、マタイ4章1節と3節では悪魔が主イエスを誘惑したと訳されています。その他の箇所では、全て主イエスの敵対者たちが主イエスを試そうとした場面で出てきます。すなわち、罠に陥れるようと、悪意を持って近づいてきたということです。19章3節に登場するファリサイ派の人々も、同じように悪意を持って近づいてきたのです。
「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているか」。これが、彼らが仕掛けた罠でした。離縁に関しては、ファリサイ派の中でも容認する人々と消極的な人々があったようです。おそらく、彼らの間で決着がつかなかったのでしょう。そのような問題を、ナザレのイエスには答えることができないと考えたのです。
主イエスは創世記の言葉を引用しながら、結婚は神が結びあわせてくださった関係であることを指摘します。それに対してファリサイ派は、申命記を持ち出して、モーセは離縁状を渡して離縁するように命じたと反論しました。主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と答えられました。
離縁状は、本来女性の立場を守る目的で定められました。それまでは、男性は気に入らなくなると、理由を付けて離縁していました。それでは、彼女が両親の元に返っても立場がありません。そこで、離縁するのには、正当な理由があることを証明するものとして、離縁状を書くことを命じたのです。これによって、女性が濡れ衣をかぶせられることのないように配慮したのです。しかし、いつしか、離縁状を書けば離縁して良いと考える人々が増えてきたのです。ファリサイ派の質問はそのような状況を表しているのでしょう。
離縁は、人間の生活について、神が本来計画しておられたことではありません。人間の弱さ、罪深さの現れといって良いでしょう。
現代社会において、離婚は多く見られます。私たちの心が頑固なので、妻を離縁することを許されたとも言えます。しかしそれは、決して「推奨されている」ということではありません。あくまでも緊急避難的措置なのです。結婚について神の恵みを思い起こすべきでしょう。
今日の離縁の問題は、単純に離婚が許されるか否かの問題ではありません。また、結婚関係が続いているからそれでよいということでもないでしょう。いずれにしても、結婚した相手が、神によって特別に用意された相手であること、神によって結びあわされ、愛する対象とされていることを感謝しつつ、共に歩むことが重要です。主イエスの言葉を聞いて「妻を迎えない方がましです」と言い放つ弟子たちは、結婚が神の恵みであることを理解していないようです。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
マタイによる福音書19章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
マタイ福音書19章1節から第5の物語の部分になります。主イエスがガリラヤ地方を去り、エルサレムの町でユダヤの指導者たちと論争する場面までが描かれています。
1~2節には、ガリラヤを離れ、エルサレムへ出発する様子が記されています。3節以下には、いきなりファリサイ派の人々が現れ、議論を仕掛けてきます。彼らに悪意があることは、「イエスを試そうとした」という言葉に表されています。「試す」と訳されている言葉は「誘惑する」という意味もあり、実際この言葉は、マタイ4章1節と3節では悪魔が主イエスを誘惑したと訳されています。その他の箇所では、全て主イエスの敵対者たちが主イエスを試そうとした場面で出てきます。すなわち、罠に陥れるようと、悪意を持って近づいてきたということです。19章3節に登場するファリサイ派の人々も、同じように悪意を持って近づいてきたのです。
「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているか」。これが、彼らが仕掛けた罠でした。離縁に関しては、ファリサイ派の中でも容認する人々と消極的な人々があったようです。おそらく、彼らの間で決着がつかなかったのでしょう。そのような問題を、ナザレのイエスには答えることができないと考えたのです。
主イエスは創世記の言葉を引用しながら、結婚は神が結びあわせてくださった関係であることを指摘します。それに対してファリサイ派は、申命記を持ち出して、モーセは離縁状を渡して離縁するように命じたと反論しました。主イエスは「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」と答えられました。
離縁状は、本来女性の立場を守る目的で定められました。それまでは、男性は気に入らなくなると、理由を付けて離縁していました。それでは、彼女が両親の元に返っても立場がありません。そこで、離縁するのには、正当な理由があることを証明するものとして、離縁状を書くことを命じたのです。これによって、女性が濡れ衣をかぶせられることのないように配慮したのです。しかし、いつしか、離縁状を書けば離縁して良いと考える人々が増えてきたのです。ファリサイ派の質問はそのような状況を表しているのでしょう。
離縁は、人間の生活について、神が本来計画しておられたことではありません。人間の弱さ、罪深さの現れといって良いでしょう。
現代社会において、離婚は多く見られます。私たちの心が頑固なので、妻を離縁することを許されたとも言えます。しかしそれは、決して「推奨されている」ということではありません。あくまでも緊急避難的措置なのです。結婚について神の恵みを思い起こすべきでしょう。
今日の離縁の問題は、単純に離婚が許されるか否かの問題ではありません。また、結婚関係が続いているからそれでよいということでもないでしょう。いずれにしても、結婚した相手が、神によって特別に用意された相手であること、神によって結びあわされ、愛する対象とされていることを感謝しつつ、共に歩むことが重要です。主イエスの言葉を聞いて「妻を迎えない方がましです」と言い放つ弟子たちは、結婚が神の恵みであることを理解していないようです。