八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「善にさとく、悪には疎く」 2022年4月3日の礼拝

2022年04月28日 | 2022年度
エレミヤ書4章19~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしのはらわたよ、はらわたよ。
 わたしはもだえる。
 心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
 わたしは黙していられない。
 わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。
 「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。
 大地はすべて荒らし尽くされる。
 瞬く間にわたしの天幕が
 一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
 いつまで、わたしは旗を見
 角笛の響きを聞かねばならないのか。
 まことに、わたしの民は無知だ。
 わたしを知ろうとせず
 愚かな子らで、分別がない。
 悪を行うことにさとく
 善を行うことを知らない。


ローマの信徒への手紙16章1~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
  キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
  兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
  わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
  神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


  ローマの信徒への手紙16章は、この手紙の最後の部分です。そして、礼拝でのローマ書の連続講解も、今回で最後となります。
  16章は、ほとんど挨拶で占められています。最初に紹介されているのは、ケンクレアイという町のフェベという女性で、彼女がローマの教会にパウロの手紙を届けたようです。3~16節はローマの教会の人々への挨拶で、21~23節は差出人側の人々の名前が紹介されています。注目を引くのが「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」という言葉です。パウロは目があまりよくなく、パウロが語ったことをテルティオが筆記していたようです。差出人側の名前を紹介する部分となり、パウロに促されて、この手紙の代筆をしたのが自分であると書いたのでしょう。
  パウロの手紙で、これほど多くの人々の名前をあげて挨拶するのは他に例がありません。他の手紙は、パウロがよく知っている教会に宛てたのに対し、ローマの教会は一度も訪ねたことがなかったので、できるだけ多くの人の名前をあげ、お互いの交流を深めたいと考えたのでしょう。
  17~20節は挨拶の途中になりますが、ここで「不和やつまずきをもたらす人々を警戒し、彼らから遠ざかるように」と最後の警告をしています。「不和」と訳されている言葉は口語訳では「分裂」と訳されていました。ですから単に気が合わないということではなく、人々をつまずかせ、教会を分裂させるもしれない危険を警戒せよということです。
  パウロは多くの教会と関わりを持っていましたので、教会における危険についてもよく知っていました。中でも、教会の中における対立を極めて危険だと考えていたに違いありません。
  コリントの教会にあてた手紙では、実際起こっていた対立を鎮めようとしています。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていたというのです。自分が尊敬する人を高く評価するあまり、互いに派閥をつくるようになっていました。パウロは、そのようなコリントの教会をいさめます。「パウロにしてもアポロにしてもあなたがたを信仰に導くために神に仕えているにすぎない。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。(Ⅰコリント3:5~6)と告げるのです。
  ローマの教会ではコリントのような状況はなかったかもしれません。しかし、いつでもそのような危険が生じることをパウロは知っていたのです。だからこそ、教会を分裂させるようなことがあってはならないと警告しているのです。
  「善にさとく、悪には疎くあるように」(19節)は、単に善い行いをするということではありません。神の御心は、すべての人が救われることです。この神の御心に忠実であるようにということです。それは、19節の「従順」、26節の「信仰による従順」と同じことです。すべての人を救うという神の御計画は、世々にわたって隠されていましたが、今やすべての人々に知らされるようにと明らかにされるのです。それは聖書を通してであり、その救いを宣べ伝える教会を通してです。その意味で、教会は神から遣わされた使徒なのです。




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「善い行いにつぃて」 2022年3月27日の礼拝

2022年04月25日 | 2021年度
ヨエル書2章12~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は言われる。
 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ
 断食し、泣き悲しんで。
 衣を裂くのではなく
 お前たちの心を引き裂け。」

 あなたたちの神、主に立ち帰れ。
 主は恵みに満ち、憐れみ深く
 忍耐強く、慈しみに富み
 くだした災いを悔いられるからだ。


ペトロの手紙 一 2章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
 「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
  しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
 「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。



  善い行いをすることは、すべての人にとって大切なことです。これを否定する宗教はほとんどないでしょう。ただ善い行いとは何かということになりますと、様々な考え方があります。真っ先に考えられるのは、神の御心にかなう行動、生き方ということです。
  キリスト教は、当然善い行いをすることを勧め、逆に悪い行いをすることを禁じています。悪い行いをする人は神に罰せられ、善い行いをする人は救われるのです。そこで、救われるために善い行いをしなければならないということになるのです。しかし、すべての人は罪の下にあり、神の御心にかなう善い行いをすることがとても難しく、誰ひとり救われることはありません。しかし、神はイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の贖いとして十字架におかけになりました。完全に神の御心にかなう善い行いができないにもかかわらず、このキリストの犠牲によって私たちは救われたのです。
  それでは、救われた私たちはもはや善い行いをしなくてもよくなったのでしょうか。そうではありません。やはり善い行いをしなければなりません。何故なのでしょうか。ここで、カトリックとプロテスタントの違いが生じます。
  カトリックでは、キリストの救いは洗礼を受けるまでの罪が赦され、洗礼後に犯した罪は赦されないと考えました。そのため、古代ローマの時代、死ぬ直前まで洗礼を受けない人もありました。中世になると、洗礼後に犯した罪の赦しを受けるため、告解(懺悔)によって赦しを受けたり、諸聖人が積み重ねた徳を分けてもらうため、贖宥状を買うことなどが行われました。そして、神からの救いを受けるために善い行いをしなければならないと主張したのです。
  贖宥状というカトリックの主張は聖書にはありません。そして、一番の問題は、キリストの救いを不完全としていることです。
  しかし、聖書は、キリストの救いが完全であり、それだけで充分だと教えています。すなわち、洗礼以後犯した罪に対しても、キリストの救いは有効だということです。
  プロテスタントはこの聖書の教えに基づいてキリストを信じる信仰によってのみ救われると主張します。しかし、カトリックはこれに反対します。なぜなら、信じるだけで救われるという教えは善い行いをする意欲をなくさせ、自堕落な生活をさせてしまうからだというのです。
  プロテスタントも、善い行いをすることを強調します。しかし、それは救われるためではなく、救われたことへの感謝として善い行いをするのです。
  たとえば、尊敬する人から何かをプレゼントされたとします。そうしたら、受け取ったそのプレゼントを、毎日眺め、手に取り、また誰かに見せて自慢したりして大切にするのではないでしょうか。そうすることによって、感謝の気持ちを持ち続けるようになります。キリストによる救いは、まさに神からのプレゼントで、かけがえのない宝です。キリストによるこの救いを感謝するならば、この救いを与えてくださった神の御心に応えるように感謝の生活をするのではないでしょうか。それが善い行いです。ここで大切なことは、感謝の心を忘れないことです。そのために、プレゼントされた救いをいつもしっかり意識することです。
  私たちの善い行いは完全ではないでしょう。それでも神は善い行いをしようとする私たちを見て喜んでくださっています。聖書は「混じりけのない霊の乳を慕い求めよ」と教えています。神の御言葉による養いを受けよ、ということです。これによって、自分の救いについての確信がいよいよ進み、信仰生活が豊かになり、神の約束を絶えることなく受けるのです。



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「ローマ訪問の計画」 2022年3月20日の礼拝

2022年04月18日 | 2021年度
創世記12章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
  アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
  アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。


ローマの信徒への手紙15章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。



  異邦人に福音を宣べ伝える使命があるとローマ書の冒頭で語ったパウロは、15章15節以下で再びその使命について語りました。15章22~33節では、ローマを訪問したいとの希望を語ります。それは個人的な希望ではなく、自分に与えられている使命、すなわち異邦人に福音を宣べ伝える使命を遂行するためでした。
  ローマにも異邦人は多くおりましたが、ローマを福音宣教の最終目的地に考えていたわけではありません。ローマよりさらに西にあるイスパニア(今のスペイン)にまで足を延ばし、福音を伝えようとしているのです。パウロはこのことを説明するために、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えた」(15:19)と語りました。イリリコン州というのは、今のギリシアの西側の地域で、イオニア海を挟んでイタリア半島の向かい側になります。パウロの言葉は、自分の働きだけを語ろうとしているのではありません。エルサレムからはじまり、今のトルコ、ギリシアへと福音が宣べ伝えられたのです。福音が東から始まり、西へと伝えらえていった流れを想像してください。そして、さらに西にあるローマを経て、さらに西にあるイスパニアへと伝えられようとしているのです。イスパニアは当時知られていた最西端の地です。このような壮大な福音宣教の流れを想像し、使徒言行録にある主イエスの「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1;8)という言葉を思い起こすべきでしょう。またパウロ自身も「わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」(13:47)と宣言しました。
  このように、パウロは地の果てなるイスパニアにまで福音を宣べ伝えようとし、それを神から与えられた使命であると自覚していたのです。そのためにまずローマへ行き、そこからローマの教会の人々から送り出されてイスパニアへ向かおうと計画していたのです。
  この手紙を書いたとき、パウロはまだギリシアのコリントにいたようです。そこから船でローマに行くことも可能だったでしょうが、各地から集まった献金をエルサレムに届ける途中であったので、いったんはエルサレムに行かなければならず、そののち、ローマに行くことにしました。
  しかし、パウロの思うようにはいかず、エルサレムで捕らえられ、数年地中海沿岸のカイサリアに留置されました。しかし、ローマで福音を宣べ伝える神の御計画は続いているとパウロは確信していました。ローマ皇帝に上訴することによって、ローマ行きを果たします。ついにパウロはローマに到着し、軟禁されはしましたが、ある程度自由に行動することができ、福音を宣べ伝えました。
  パウロはイスパニアにまで行くことはできず、ローマで殉教しましたが、「地の果てまで、キリストの証人となる」という神の御計画のために、パウロは熱心に働きました。しかし、パウロの熱心以上に、神の熱心こそ私たちは見なければならないことです。神の熱心とは単なる情熱ということではありません。何としてでもすべての人々を救う神の固い決意であり、またそのために忍耐して働き続ける御業です。この神の熱心によって、私たちは救われたのです。



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「異邦人の救いのために」 2022年3月13日の礼拝

2022年04月11日 | 2021年度
エレミヤ書4章1~2節(日本聖書協会「新共同訳」)

 「立ち帰れ、イスラエルよ」と
 主は言われる。
 「わたしのもとに立ち帰れ。
 呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。
 そうすれば、再び迷い出ることはない。」
 もし、あなたが真実と公平と正義をもって
 「主は生きておられる」と誓うなら
 諸国の民は、あなたを通して祝福を受け
 あなたを誇りとする。


ローマの信徒への手紙15章14~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
 「彼のことを告げられていなかった人々が見、
 聞かなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。



  ローマの信徒への手紙の冒頭にある挨拶で、パウロは「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされた」(1:5)と語り、自分に与えられた使命を明らかにしています。そして、15章16節で再び自分に与えられた異邦人に福音を宣べ伝える使命を語ります。この使命については、ガラテヤ書2章7節で「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任され、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されている」と記しています。そして、ペトロの使命も自分の使命も、神に与えられたものだと強調しています。
  パウロは、この異邦人への福音宣教の務めを「祭司の役」と表現しました。パウロは実際に祭司だったことはありません。比喩としてこの言葉を使っています。祭司は神に仕え、供え物を神に献げます。それと同じように、異邦人を「聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物」とするためだというのです。すなわち、異邦人への福音宣教を祭司の役だと言っているのです。
  すべての人を救うことは、神の御計画であり、そのために、ユダヤ人が選ばれたのです。ユダヤ人の最初の祖先であるアブラハムに、神は「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と告げ、すべての人を救う決意を明らかにしました。エレミヤ書4章2節の「諸国の民は、あなたを通して祝福を受ける」も全ての人を救う器としてユダヤ人が選ばれたことを現わしています。このように、神が全ての人を救うために選んだのがユダヤ人だったのです。ですから、このユダヤ人から主イエスが現れ、救いの業を完成されました。そして、この救いをすべての人々に伝える使命をユダヤ人に与えました。しかし、すべてのユダヤ人がこれを神から与えられた使命と考えたわけではありませんでした。イエス・キリストを信じたユダヤ人の集まりから教会が誕生し、福音が宣べ伝えられ、異邦人の中からもこの救いを信じる者が現れました。ユダヤ人が神の民と呼ばれたように、教会は信仰による神の民となったのです。
  出エジプト記19章6節で、神はユダヤ人たちに「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と宣言され、アブラハムに与えた使命を「祭司」という言葉で表現しました。
  パウロはこの祭司という言葉を用い、異邦人に福音を宣べ伝える使命を神から与えられていると告げるのです。しかし、この使命はパウロだけに与えられたのではありません。キリスト教会全体に与えられている使命なのです。キリスト教会は、まだキリストの救いにあずかっていない人々に遣わされている使徒であり、祭司なのです。
  パウロは「異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれた」と言いました。パウロは自分の働きを自慢しているのではありません。むしろ、キリストが自分を用いて働いてくださったと言っているのです。私たちもキリストに用いられ、祭司の役を務めます。それであるなら、まず私たちの信仰の目と耳は神に向けられていなければなりません。礼拝と祈りを大切にしましょう。



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「神の真実を現すキリスト」 2022年3月6日の礼拝

2022年04月07日 | 2021年度
イザヤ書56章3~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
 追い散らされたイスラエルを集める方
   主なる神は言われる
 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


ローマの信徒への手紙15章7~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
 「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、
 あなたの名をほめ歌おう」
と書いてあるとおりです。また、
 「異邦人よ、主の民と共に喜べ」
と言われ、更に、
 「すべての異邦人よ、主をたたえよ。
 すべての民は主を賛美せよ」
と言われています。また、イザヤはこう言っています。
 「エッサイの根から芽が現れ、
 異邦人を治めるために立ち上がる。
 異邦人は彼に望みをかける。」
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。



  今日の聖句は「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」から始まります。まず、神に目を向けなければならないということです。神が私たちにしてくださったこと、どれほど大きな恵みを与えてくださったか、その事を繰り返し思い起こすことによって、私たちもその恵みを生かしあうのです。その恵みを、ますます神の恵みとして、私たちが喜び合うという事を教えているのです。そして、それが、「相手を受け入れなさい」ということです。
  私たちキリスト者は、どういう問題についても、まずしなければならないのは、私たちの心を神に向け、神が私たちにしてくださったこと、神の恵みに目を留めることなのです。全ての問題は、そこから解決していかなければなりません。
  「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださった」を少し言い方を換えると、「キリストが、あなた方を受け入れてくださったのは、神の栄光のためである」ということです。そうしますと、私たちが相手を受け入れるというのは、神の栄光のためであるという事になります。単に同じ信仰をもっているからというのではないという事です。
  8節で「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられた」と言われています。ある人は、この8節の言葉を、「これはクリスマスの出来事を語っている」と言いました。すなわち、神の独り子が私たち人間の所に来てくださった。私たちの罪の贖いのために、十字架にかかってくださったという出来事を最も短い言葉で言い表したと言うのです。
  ここで「神の真実」と言われているのは、神が旧約の時代に、当時のイスラエルの人々に対して行った契約・約束を守り、どこまでも誠実に行動してくださることを意味しています。
  神はユダヤ人の最初の先祖アブラハムを選び、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と約束されました。この約束を実現するために遣わされたのがイエス・キリストです。ユダヤ人も異邦人もイエス・キリストによって救われることとなりました。このように神は約束を誠実に守り、成就なさいました。ここに神の真実があるのです。
  神の独り子イエス・キリストは十字架にかかり、信じるすべての人のための救いとなり、神の真実を現し、父なる神の栄光を現したのです。それならば、救われた私たちが神の栄光を現すというのは、このキリストの救いを証することであるはずです。このキリストによって共に救われた私たちが互いに相手を受け入れることが神の御心にかなうことなのです。


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