エレミヤ書4章19~22節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。
わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。
「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。
大地はすべて荒らし尽くされる。
瞬く間にわたしの天幕が
一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
いつまで、わたしは旗を見
角笛の響きを聞かねばならないのか。
まことに、わたしの民は無知だ。
わたしを知ろうとせず
愚かな子らで、分別がない。
悪を行うことにさとく
善を行うことを知らない。
ローマの信徒への手紙16章1~27節(日本聖書協会「新共同訳」)
ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙16章は、この手紙の最後の部分です。そして、礼拝でのローマ書の連続講解も、今回で最後となります。
16章は、ほとんど挨拶で占められています。最初に紹介されているのは、ケンクレアイという町のフェベという女性で、彼女がローマの教会にパウロの手紙を届けたようです。3~16節はローマの教会の人々への挨拶で、21~23節は差出人側の人々の名前が紹介されています。注目を引くのが「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」という言葉です。パウロは目があまりよくなく、パウロが語ったことをテルティオが筆記していたようです。差出人側の名前を紹介する部分となり、パウロに促されて、この手紙の代筆をしたのが自分であると書いたのでしょう。
パウロの手紙で、これほど多くの人々の名前をあげて挨拶するのは他に例がありません。他の手紙は、パウロがよく知っている教会に宛てたのに対し、ローマの教会は一度も訪ねたことがなかったので、できるだけ多くの人の名前をあげ、お互いの交流を深めたいと考えたのでしょう。
17~20節は挨拶の途中になりますが、ここで「不和やつまずきをもたらす人々を警戒し、彼らから遠ざかるように」と最後の警告をしています。「不和」と訳されている言葉は口語訳では「分裂」と訳されていました。ですから単に気が合わないということではなく、人々をつまずかせ、教会を分裂させるもしれない危険を警戒せよということです。
パウロは多くの教会と関わりを持っていましたので、教会における危険についてもよく知っていました。中でも、教会の中における対立を極めて危険だと考えていたに違いありません。
コリントの教会にあてた手紙では、実際起こっていた対立を鎮めようとしています。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていたというのです。自分が尊敬する人を高く評価するあまり、互いに派閥をつくるようになっていました。パウロは、そのようなコリントの教会をいさめます。「パウロにしてもアポロにしてもあなたがたを信仰に導くために神に仕えているにすぎない。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。(Ⅰコリント3:5~6)と告げるのです。
ローマの教会ではコリントのような状況はなかったかもしれません。しかし、いつでもそのような危険が生じることをパウロは知っていたのです。だからこそ、教会を分裂させるようなことがあってはならないと警告しているのです。
「善にさとく、悪には疎くあるように」(19節)は、単に善い行いをするということではありません。神の御心は、すべての人が救われることです。この神の御心に忠実であるようにということです。それは、19節の「従順」、26節の「信仰による従順」と同じことです。すべての人を救うという神の御計画は、世々にわたって隠されていましたが、今やすべての人々に知らされるようにと明らかにされるのです。それは聖書を通してであり、その救いを宣べ伝える教会を通してです。その意味で、教会は神から遣わされた使徒なのです。
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。
わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。
「破壊に次ぐ破壊」と人々は叫ぶ。
大地はすべて荒らし尽くされる。
瞬く間にわたしの天幕が
一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。
いつまで、わたしは旗を見
角笛の響きを聞かねばならないのか。
まことに、わたしの民は無知だ。
わたしを知ろうとせず
愚かな子らで、分別がない。
悪を行うことにさとく
善を行うことを知らない。
ローマの信徒への手紙16章1~27節(日本聖書協会「新共同訳」)
ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙16章は、この手紙の最後の部分です。そして、礼拝でのローマ書の連続講解も、今回で最後となります。
16章は、ほとんど挨拶で占められています。最初に紹介されているのは、ケンクレアイという町のフェベという女性で、彼女がローマの教会にパウロの手紙を届けたようです。3~16節はローマの教会の人々への挨拶で、21~23節は差出人側の人々の名前が紹介されています。注目を引くのが「この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします」という言葉です。パウロは目があまりよくなく、パウロが語ったことをテルティオが筆記していたようです。差出人側の名前を紹介する部分となり、パウロに促されて、この手紙の代筆をしたのが自分であると書いたのでしょう。
パウロの手紙で、これほど多くの人々の名前をあげて挨拶するのは他に例がありません。他の手紙は、パウロがよく知っている教会に宛てたのに対し、ローマの教会は一度も訪ねたことがなかったので、できるだけ多くの人の名前をあげ、お互いの交流を深めたいと考えたのでしょう。
17~20節は挨拶の途中になりますが、ここで「不和やつまずきをもたらす人々を警戒し、彼らから遠ざかるように」と最後の警告をしています。「不和」と訳されている言葉は口語訳では「分裂」と訳されていました。ですから単に気が合わないということではなく、人々をつまずかせ、教会を分裂させるもしれない危険を警戒せよということです。
パウロは多くの教会と関わりを持っていましたので、教会における危険についてもよく知っていました。中でも、教会の中における対立を極めて危険だと考えていたに違いありません。
コリントの教会にあてた手紙では、実際起こっていた対立を鎮めようとしています。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていたというのです。自分が尊敬する人を高く評価するあまり、互いに派閥をつくるようになっていました。パウロは、そのようなコリントの教会をいさめます。「パウロにしてもアポロにしてもあなたがたを信仰に導くために神に仕えているにすぎない。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。(Ⅰコリント3:5~6)と告げるのです。
ローマの教会ではコリントのような状況はなかったかもしれません。しかし、いつでもそのような危険が生じることをパウロは知っていたのです。だからこそ、教会を分裂させるようなことがあってはならないと警告しているのです。
「善にさとく、悪には疎くあるように」(19節)は、単に善い行いをするということではありません。神の御心は、すべての人が救われることです。この神の御心に忠実であるようにということです。それは、19節の「従順」、26節の「信仰による従順」と同じことです。すべての人を救うという神の御計画は、世々にわたって隠されていましたが、今やすべての人々に知らされるようにと明らかにされるのです。それは聖書を通してであり、その救いを宣べ伝える教会を通してです。その意味で、教会は神から遣わされた使徒なのです。