八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「ユダヤ人の王イエス」 2024年3月24日の礼拝

2024年03月26日 | 2023年度
  「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」。これは歴史に残るはずのない言葉でした。それは単なる罪状書きに過ぎず、ユダヤ総督の戯れ言で終わるはずでした。
  ユダヤ総督も、ユダヤ人たちも、十字架にかけられたイエスがユダヤ人の王だとは思っていません。ユダヤ人たちは主イエスを殺す口実として、「イエスがユダヤ人の王と自称し、クーデターを起こそうとしている」と訴えたにすぎません。それを察しながらも主イエスを無罪放免にできなかったユダヤ総督は、ユダヤ人に対する嫌がらせに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたにすぎません。その意味でもこの罪状書きは、真実ではありませんでした。
  主イエスの罪状書きはどの福音書にも出てきますが、ヨハネは特に丁寧に説明しています。ほかの福音書は単に「ユダヤ人の王」としているのに対し、ヨハネでは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」となっています。しかも、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと説明しているのです。十字架刑は見せしめのために行うので、エルサレムの住民、ローマ帝国の人間、旅をする人々は誰でも理解できるように三つの言語で書かれたのです。わずかな違いですが、ヨハネはこの罪状書きに強い関心を持っていたということです。
  とは言え、たかが罪状書きです。死刑の執行が終われば、その罪状書きはどこかに捨てられます。主イエスの場合も同じだったはずです。
  ところが、主イエスを信じた人々にとっては単なる罪状書きではありませんでした。たとえ偶然とは言え、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれたことに、深い意味があると考えたのです。もちろん主イエスを信じた人々も、主イエスが地上のどこかの王になったとは思っていません。しかし、「ユダヤ人の王」という言葉に、その言葉以上の意味があると考えたのです。
  ユダヤ人というのはアブラハムから始まる民族で、神に選ばれ、神と契約を結んだ神の民です。創世記22章18節の「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」は、アブラハム、その息子イサク、その孫のヤコブに受け継がれていく、神の民に与えられた使命です。神の独り子イエスは、その使命を果たすためにユダヤ人として地上に現れ、すべての人を救うために十字架にかけられ、アブラハムへの神の約束の言葉が成就したのです。その意味で、主イエスはまことに「ユダヤ人の王」なのです。
  また、ヨハネ福音書では、「ユダヤ人」という言葉を主イエスに敵対する人々という意味を込めて使っているという特徴があります。そのユダヤ人の王と呼ばれることに大きな皮肉を感じます。しかし、ここにもヨハネ福音書の意図があるように思えます。確かにユダヤ人たちは主イエスに敵対してきました。しかし、主イエスは彼らを見捨てたり復讐を考えたでしょうか。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えた主イエスです。十字架にかかっているその時にも、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈っていたのではないでしょうか。ユダヤ人たちが敵対して来ようとも、彼らを愛する王であることをやめなかった、とヨハネは言いたいのです。
  これは、私たちと無関係ではありません。私たちは神に対する罪人であり、神の敵(ローマ5:8~10)でした。敵である私たちを愛し、私たちを救うために、神は御子を十字架におかけになったのです。こうして、主イエスは私たちの王となり、救い主となってくださったのです。
  「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の言葉は、信じる私たちにとって「ナザレのイエス、信じる全ての人々の救い主、王である」という言葉となって、光を放っているのです。

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「キリストが栄光を受ける時」 2024年3月17日の礼拝

2024年03月26日 | 2023年度
  マルコ福音書は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信
じなさい」(1:15)と言って、主イエスが伝道を開始されたと記しています。また、主イエスが生まれたことについて、ガラテヤ書は「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(4:4)と記しています。聖書には「時」という言葉がよく出てきており、「時」ということをとても重要に考えていることが分かります。今日の聖句の「人の子が栄光を受ける時」という言葉もそうです。
  ヨハネ福音書は、カナでの婚礼の時、主イエスが母マリアからぶどう酒が足りないと相談された時、主イエスが「わたしの時はまだ来ていない」(2:4)と言ったと記しています。また、主イエスが人々に捕らえられそうになった場面では、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」(7:30)とか、「だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」(8:20)と記しています。これらはヨハネ福音書独特の表現で、ほかの福音書には出てきません。
  聖書における「時」という言葉には「神があらかじめ定めた時」という意味があります。先ほどの「わたしの時」、「イエスの時」にも神が定めた時という意味があり、今日の「人の子が栄光を受ける時」という言葉も同じです。
  「主イエスが栄光を受ける」というのはどういう意味なのでしょうか。
  同じヨハネ福音書に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』」(17:1)という主イエスの祈りがあります。これは、いわゆる最後の晩餐の時に祈られた祈りで、主イエスが人々に捕らえられ、十字架にかかられる前の夜の祈りです。それを理解したうえで、主イエスの祈りを見直しますと、この祈りの中での「時が来ました」とは「十字架にかかるべき時が来た」という意味であることが分かります。そうすると、「わたしの時」、「イエスの時」という言葉は「主イエスが十字架にかかるべき時」という意味であり、「主イエスが受ける栄光」とは、神の計画に従って十字架にかかることであることが分かります。
  聖書は、十字架の出来事は、「神が定めた出来事」であり、「神が定めた時」に起こったと語っているのです。
  主イエスを十字架にかけることが神の御計画というなら、その目的は何でしょうか。それは、私たちを罪から救うことです。そのために、神は長い年月をかけて準備してこられたのです。
  すべての人を救う神の壮大な御計画です。神は全力を注いで、すべての人を救うために働いてこられたのです。そのために、人間の歴史に働きかけ、十字架の出来事、この一点に、神は全力を注がれたのです。長い歴史、長い時間をかけてきた神の計画の成就の時が十字架の時なのです。ヨハネ福音書が告げている「神の栄光」の「時」ということです。

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「香油を注がれたキリスト」 2024年3月10日の礼拝

2024年03月25日 | 2023年度
サムエル記上9章27~10章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

  町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。
  サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。


ヨハネによる福音書12章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」



  サムエル記上9章は、祭司であり士師であるサムエルがサウルに香油を注ぎ、イスラエルの民の王にしたという出来事が記されています。王や祭司、預言者はその職に就くとき、香油を注がれました。このことから「油注がれた者」という言葉が生じました。これがメシア(油注がれた者)です。後に、王や祭司や預言者以外にも神から特別に遣わされた人という意味でもメシアと呼ぶようになりました。このメシアという言葉は旧約の言葉ヘブライ語ですが、これを新約の言葉ギリシア語に翻訳してキリストという言葉が生まれました。
  私たちがイエス・キリストと言う時、それは「油注がれた人イエス」という意味ですが、神から特別の使命を与えられて遣わされた人という意味です。しかし、メシアという言葉は、人々の間で、政治的・軍事的な指導者という期待をもって使われるようにもなっていました。主イエスの時代にはまさにそういう期待が満ちていたのです。
  ヨハネ福音書12章は主イエスがマリアという女性から香油を注がれた出来事が記されています。香油が注がれるということでは、旧約聖書のサウルの場合と似ています。しかし、サウルの場合は頭に香油が注がれたのに対し、主イエスの場合は足に注がれたという違いがあります。それに、サウルに香油を注いだのは神から遣わされた祭司サムエルでしたが、主イエスに香油を注いだのは、特別に神から遣わされたわけではない、ごく普通の女性でした。ですから、この女性が香油を主イエスに注いだというのは特に主イエスをメシアに任職させるということではありません。
  ここで注目したいのは、主イエスの「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」という言葉です。マリアがはたしてそのような動機で香油を注いだのかどうかはわかりません。しかし、主イエスはそのように説明したということです。それはマリアの心の内を人々に知らせようとしたのではなく、マリアの動機とは別に、主イエスはご自分がやがて殺されることを人々に知らせたということです。人々にはそのことはまだ明らかにされてはいませんが、主イエスは十字架への道を歩んでおり、それゆえ、十字架による死、墓に葬られることを暗に示されたのです。マリアという女性が主イエスの葬りの備えをしたと言うよりも、神の御計画として十字架の出来事があり、その準備を神が続けてこられたのです。
  マリアは知らずして、神の御計画に参与したにすぎませんが、しかし、彼女の行為がきっかけで神の御計画を人々に知らせることとなったのです。そして、この出来事は、メシアという言葉に新しい意味を与えることにもなりました。それは、政治的軍事的メシアではなく、すべての人々のために罪の贖いをするために、十字架への道を歩むメシアということです。


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「受難の予告」 2024年3月3日の礼拝

2024年03月23日 | 2023年度
ヨシュア記24章14~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
  民は答えた。
  「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
  ヨシュアはしかし、民に言った。
  「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
  民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と言うと、ヨシュアは民に言った。
  「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」
  彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
  民はヨシュアに答えた。
  「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」


ヨハネによる福音書6章60~71節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
  このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。




  「受難の予告」という説教の題にしました。ふつう、受難の予告というと、フィリポ・カイサリアで、ペトロが主イエスにキリスト告白をした時のことを指します。しかし、今日のヨハネ福音書はそういう場面ではありません。このことについては、後で触れることにします。
  ヨハネ6章1節以下に、いわゆる「五千人の給食」と呼ばれる奇跡が記されています。その時の群衆がずっと主イエスに付いてきました。ヨハネ福音書のこの部分では群衆と弟子たちとは明確に区別はされていません。60節で「弟子たちの多くが離れ去った」とあり、残った弟子たちが十二人であることが記され、十二人の弟子たちについてはここで初めてこのヨハネ福音書で言及されています。
  多くの弟子たちが離れたのは、主イエスが語られた言葉が原因でした。
  群衆が主イエスに付いてきたのが「奇跡によって与えられたパンを食べたからだ」と言い、「それは朽ちる食べ物で、永遠の命にいたる食べ物を求めなさい」と、主イエスは告げました。そしてさらに、「わたしが命のパンである」(6:35)、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:51)と続けました。これを聞いた弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(6:60)と言って去ったのです。
  ヨハネ福音書は「『あなたがたのうちには信じない者たちもいる』。イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、ご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」(6:64)、さらに「『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』・・・このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(6:70、71)と、記しています。これが、ヨハネ福音書が記す主イエスの受難の予告です。
  ヨハネ福音書でイスカリオテのユダの名前が出てくるのはこの箇所が最初で、その後、一人の女性が香油を主イエスに注いだ場面に出てくるほか、最後の晩餐の時、主イエスを兵士たちと下役たちに引き渡すため、晩餐の席を離れた場面に出てきます。ユダは、主イエスの受難の象徴なのです。
  この受難の予告では、直接人々に苦しめられ、十字架につけられるとは出てきませんが、間接的に主イエスの十字架の受難を語っています。
  「わたしが命のパン」、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のこと」というのは、今の時代に私たちが受ける聖餐式のパンを指しています。聖餐式のパンとぶどう酒は十字架にかけられたキリストの体と血を象徴しています。(Ⅰコリント11:23~26) ヨハネ福音書もそのことを意識して、主イエスの言葉をここに記しているのです。
  このことを主イエスのもとから去っていった多くの弟子たちには理解できませんでした。それは無理のないことです。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(6:65)と主イエスが言われた通り、父なる神によらなければだれもそれを悟ることはできず、信じることはできないのです。残った十二人の弟子たちも、この時は主イエスのもとに踏みとどまりましたが、主イエスが捕らえられた時には主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。
  しかし、ほかの福音書と同様に、ヨハネ福音書も主イエスの受難で終わってはいません。主イエスが復活し、弟子たちに現れ、あらためて彼らを弟子として召し、世界各地へと宣教のため派遣するのです。主イエスが受難の予告をするのは、私たちを悲しませるためではなく、主イエスによる救いが神の御計画通りに成就することを私たち示し、希望を与えるためなのです。


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「キリストへの信仰」 2024年2月25日の礼拝

2024年03月21日 | 2023年度
列王記下6章8~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。
  神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。


ヨハネによる福音書9章35~41節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
  イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」



  ヨハネ福音書9章は、生まれつき目の見えない人が主イエスによって見えるようになったという奇跡から始まります。この福音書に記されている主イエスの第六のしるしです。しかし、今日の35~41節は、その奇跡そのものが扱われているのではなく、その後日談ということになります。
  その奇跡が行われたのが安息日であったということで、目を癒された人がファリサイ派の人々の所へ連れていかれ、癒したのは誰かと質問されました。目が見えるようになったこの人のことを喜ぶ人は誰一人いません。奇跡が本当に起こったのか、そもそも本当に生まれつき目が見えなかったのかと疑い、ついに、癒された人に癒したのはいったい誰かと詰問したのです。しかし、ファリサイ派の人々が満足するように答えることができなかったので、その人は外に追い出されました。そこへ、主イエスが現れ、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねたのです。
  目を癒された人は「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と尋ねます。自分を癒してくれた人を知りたいと思ったからです。これは、私たちにとっても「私たちが信ずべき救い主は誰か」という意味で、重要な問いです。
  主イエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と答え、癒された人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。ひざまずいたというのは、礼拝の所作を表現する言葉です。そしてそれと共に「主よ、信じます」と答えたことは信仰告白をしたと言うことです。
  この時、主イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言いました。この言葉を理解するために、3章16~18節にある主イエスの言葉は重要です。そこには、「神は世を愛された」、「独り子を信じる者が永遠の命を得るためである」、「御子を信じる者は裁かれず、信じない者は既に裁かれている」とあります。こうしてみると、主イエスは見えない者を見えるようにし、見えると思っている人はその人自身の罪によって見えていないことを悟らせるという意味であることが分かります。そのことは、9章41節で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」という主イエスの言葉で明らかです。
  見えていないことに気づかない、それでも見えていると言い張る、そして救い主であるイエス・キリストを受け入れようとしない、ここに、罪の恐ろしさがあるのです。
  生まれつき目が見えなかった人が見えるようになったことは、私たちの救いを象徴しています。私たちは生まれつき罪に染まっており、自分ではその罪から逃れることはできませんでした。救いを求めていた私たちが救い主を捜すより先に、救い主が私たちを捜し出してくださいました。私たちを罪から救い、救い主を信じたいと願う私たちに、ご自身を示し、「主よ、信じます」と告白させてくださったのです。主イエスがこの世に来てくださったのは、見えない者が見えるようになり、罪ある者が罪赦されるためだったのです。「神の業がこの人に現れるために」(9:3)とあるように、神の業が私たちに現れたのです。


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