八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の子とする霊」 2022年6月12日の礼拝

2022年06月27日 | 2022年度
申命記6章4~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
  今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。


ローマの信徒への手紙8章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


  聖書は、 聖霊はさまざまな働きをしていると教えていますが、ローマの信徒への手紙8章14節以下は、神の霊によって導かれて私たちは神の子とされていると教えています。
  私たちが神の子とされるというのは、本来あり得ないことです。なぜなら、私たちは神に対して罪人であり、義と認められる人はいないと言われていたからです。しかし、神の独り子である主イエスが私たちの罪の贖いとなって十字架にかかられ、神は私たちの罪を赦してくださいました。神は、さらに、聖霊によって私たちを子としてくださいました。ローマの信徒への手紙は、そのことを告げているのです。
  この手紙は、さらに、聖霊は「奴隷として再び恐れに陥れる」ものではないと語っています。私たちは、かつて罪人であり、罪の支配下にありました。それは罪の奴隷になっていたと言えます。その時は罪のゆえに、希望はなく、死だけが私たちが受ける報酬でした。しかし、今は罪の支配から解放されて罪に対して自由となったのです。
  ところで、ローマの信徒への手紙は、6章15節以下で、奴隷という言葉を使って私たちの救いについて教えていました。「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」(16節)とか、「義の奴隷」(19節)、「神の奴隷」(22節)などです。これは神の奴隷となって苛酷に扱われるという意味ではなく、罪の支配から自由になって神の支配のもとにあることを説明するために、このような言い方をしているのです。これは古代ローマ時代の習慣から説明されています。誰かの奴隷になっている人は自由を得るために、異教の神々の奴隷になることで人間からは自由になるというものでした。この習慣を用いて、私たちは神の奴隷になることで罪から自由になる、と説明しているのです。そして、神の奴隷になった私たちが苛酷に扱われることはありません。6章22~23節で「罪が支払う報酬は死だが、神の賜物は永遠の命」と言われている通りです。ですから、神の支配を受けている私たちは、罪から自由にされており、しかも、永遠の命を受けており、「神の子」とされているのです。
  かつて罪人であり神の敵であった私たち(5:8~10)が、今では神の子とされているのです。なんと光栄なことでしょうか。真の神の子は主イエスおひとりです。その意味では私たちは神に養子にされているという方が良いでしょう。それは形ばかりの身分ではありません。「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」なのです。私たちが受ける恵みの大きさ豊かさを思い、ただ感謝するしかありません。そして、主イエスは私たちには、祈る時は恐れることなく「父よ」と呼ぶようにと言って「主の祈り」を教えてくださいました。それまで、比喩として神を父と表現することはありましたが、祈る時に神を父と呼ぶことはありませんでした。神の独り子だけがそのように祈ることを教えることができ、実際にその祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。このように祈ることができるのも聖霊の働きであると、ローマの信徒への手紙(8:15)が教えているのです。



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「聖霊の降臨」 2022年6月5日の礼拝

2022年06月20日 | 2022年度
ヨシュア記1章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。
  一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」


使徒言行録2章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
  さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」



  使徒言行録は、ペンテコステに聖霊が降り、使徒たちがいろいろの他国の言葉で語り出し、周りにいた外国育ちの人たちは、自分の生まれ故郷の言葉でそれを聞いたと記しています。
  これと反対の事が、旧約聖書の創世記に出てきます。バベルの塔の物語です。人間は高い塔を造ろうとしましたが、神が彼らの言葉を乱したため、塔は完成せず、人々は地の果てへと散って行ったという話です。この高い塔というのはその頂上部分に神殿を造り、神が地上の神殿に下って来るのを待つのではなく、自分から自由に神に近づくためのものでした。こうすることによって、自由に自分の願いを要求できると考えたのです。すなわち、神に対して我が儘になり、神との関係は破れたのです。そこで神は人間の言葉を乱し、人間関係も破れ、人間は地の果てに散りました。
  しかし、神の独り子であるキリストが私たちのところにお出でになり、状況は大きく変わりました。神はすべての人々を救おうと、キリストを遣わしてくださったのです。キリストは罪の贖いとなるため十字架にかかられました。神の救いの業です。復活の後、キリストは天に昇られ、代わりに遣わされたのが聖霊でした。
  さて、聖霊が降り、使徒たちがいろいろ他国の言葉で話をし、外国からやって来ていた人々はそれぞれ自分の国の言葉で話されているかのように、その内容を理解することができました。バベルの塔の物語と正反対のことが起きたのです。しかし、重要なことはそのような不思議なことが起きたこと以上に、使徒たちが神の偉大な御業を語っていたことです。すなわち、キリストによる神の救いです。使徒たちが神の御業を語ることは、キリストが天に昇られる前に言っておられた「聖霊が降る時、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」ということが成就したことを意味しています。ここにキリスト教会の使命と存在意味があります。
  さて、今日の礼拝では旧約聖書のヨシュア記1章1~9節も読んでいただきました。エジプトを脱出し、40年の荒れ野での生活を経、いよいよ神が約束されていた土地に入ろうとする場面です。それまで、人々を指導してきたモーセが死に、ヨシュアが後継者として出発する場面でもあります。その冒頭に「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた」と記されています。
  ヨシュアはエジプト脱出以来何度も登場し、その働き、功績が大きかったことが記されています。しかし、モーセが「神の僕」と呼ばれるのに対し、ヨシュアは「モーセの従者」と呼ばれ、二人の決定的な違いが示されています。モーセの後継者となったヨシュアはもちろん、イスラエルの人々も不安だったに違いありません。神はそのヨシュアに対して「私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」と宣言されました。この時、ヨシュアは「モーセの従者」から「神の僕」に変えられたのです。この時のヨシュアと同じように、ペンテコステの出来事によって、主イエスの弟子たちは、「イエスの弟子」から「神の使徒」へと変えられました。「キリストの証人」としての新たな出発です。この時、教会が誕生したのです。



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「父の右に座すキリスト」 2022年5月29日の礼拝

2022年06月13日 | 2022年度
詩編110編1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

    【ダビデの詩。賛歌。】
 わが主に賜った主の御言葉。
 「わたしの右の座に就くがよい。
 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

 主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
 敵のただ中で支配せよ。
 あなたの民は進んであなたを迎える
 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。

 主は誓い、思い返されることはない。
 「わたしの言葉に従って
 あなたはとこしえの祭司
   メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
 主はあなたの右に立ち
 怒りの日に諸王を撃たれる。
 主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち
 広大な地をしかばねで覆われる。

 彼はその道にあって、大河から水を飲み
 頭を高く上げる。


ヨハネによる福音書17章1~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
  世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。



  福音書の中で、主イエスはたびたび「ダビデの子」と呼ばれました。これはダビデの子孫という意味ですが、それだけでなく、特別の意味を込めて使われました。キリスト(ヘブライ語ではメシア)はダビデの子孫から現れると信じられており、キリストを指す特別の言葉として「ダビデの子」と呼ばれたのです。
ある時、主イエスは人々に問いました。「どうして律法学者は『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。そして、詩編110編を引用し、「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。
  詩編110編には「ダビデの詩」という表題がついており、ダビデが作ったと考えられていました。そこから、詩編の冒頭に出てくる「わが主に賜った主の御言葉」は、「主なる神がわが主(メシア)に語った」と解釈されました。そこで、「ダビデはメシアを『わが主』と呼んでいる」となるわけです。ダビデがメシアを自分の主と呼んでいるなら、メシアを「ダビデの子」と表現するのはおかしくはないかと、主イエスは問いかけたのです。最初にも言いましたが、人々はたびたび主イエスを「ダビデの子」と呼びました。それは間違いではありませんが、キリスト(メシア)は人間以上の存在であることを伝えようとされたのです。主イエスの真意は、キリストは単なる人間ではなく、天的な存在でもあるということです。すなわち、神の独り子ということです。
  さて、主イエス・キリストは天に昇られ、全能の神の右に座されたというのが、私たちの信仰です。詩編110編はそれを予告したとキリスト教会では考えられてきました。キリストが全能の父なる神の右に座すというのは、単に位置関係を表しているだけではありません。神の権威・力を代行するということです。キリストが父なる神の権威を代行して何をするかということが重要です。そして、それがヨハネ福音書17章で語られているのです。
  17章は主イエスの祈りの場面です。主イエスの最後の祈りは、この後のゲツセマネでの祈りですが、その時の言葉はほとんど記されていません。はっきり記されているのはヨハネ福音書17章です。ここで主イエスは、「あなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」と言っておられます。この後の主イエスの十字架と復活、昇天、そして父なる神の右に座されるのは、このためということです。
  主イエスが父なる神の右に座すということでまず思い起こされることは、キリストが私たちのために執り成しをしてくださるということですが、それは、私たちに永遠の命を与えてくださるということと深く結びついているのです。主イエスの祈りは「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(17:16)と続きます。キリスト者は、この世で生活しながら、しかも神に属しているということです。そして、神の救いの御業を、世の多くの人々に伝える使命を与えられているのです。私たちに永遠の命が与えられるのは、他の人々も永遠の命を受けるようになるためなのです。



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「キリスト昇天の予告」 2022年5月22日の礼拝

2022年06月06日 | 2022年度
創世記18章23~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アブラハムは進み出て言った。
  「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
  主は言われた。
  「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
  アブラハムは答えた。
  「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
  主は言われた。
  「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
  アブラハムは重ねて言った。
  「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
  主は言われた。
  「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
  アブラハムは言った。
  「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
  主は言われた。
  「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
  アブラハムは言った。
  「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
  主は言われた。
  「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
  アブラハムは言った。
  「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
  主は言われた。
  「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
  主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。


ヨハネによる福音書16章12~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

  言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
  「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」



  教会の暦では、今年は5月26日(木)がキリストの昇天記念日になっています。私たちの教会では、今まで特にこの日を覚えて行事を行うことはしていませんでしたが、今年は礼拝の聖書の個所を「信徒の友」の「日毎の糧」を参考に選んでおり、そこに5月26日(木)がキリストの昇天日であること、その前の日曜日の礼拝はそれを覚えて聖書個所が選ばれているということもあり、今日の聖書個所はそれに従いました。しかし、「信徒の友」にその指摘がなかったとしても、キリストの昇天を覚えることは大切なことです。
  ヨハネ福音書14章から弟子たちへの最後の教えが記されています。16章12~24節は、特に最後の部分になり、弟子たちの前から去って行くと告げる場面です。主イエスは弟子たちの心が悲しみで満たされていると言い、また、このことは必要なことだとも言います。
  その理由の第一にあげられていることは、「あなたがたのために場所を用意しに行く。場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」ということです。主イエスが用意される場所というのは、神の都のことです。主イエスを信じる私たちは、神の都の住人とされており、その国籍を持つ者とされています。(フィリピ3:20) それゆえに、「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と言われるのです。
  第二に、聖霊が弟子たちに来るからだと言っています。この聖霊を「弁護者」、「真理の霊」と説明しています。
  「弁護者」という言葉はパラクレートスの訳で口語訳では「助け主」と訳されていました。もともとは「傍らに立つ」という意味で、ちょうど裁判で被告のそばで弁護をする弁護人のような存在だということです。そのような意味で助ける人「助け主」と訳されたのです。
  「真理の霊」はヨハネ福音書14章17節、15章26節にも出てきます。それまで隠されていた神の御計画を明らかにする働きをするという意味で「真理の霊」と呼ばれています。人に隠されている神の御計画は聖書ではミュステーリオン、ミステリーの語源で「神秘」と訳されています。この「神秘」が人に明らかにされることをアポカリュプシス「啓示」と言います。ヨハネ福音書はこの啓示の働きをするのが聖霊だと言い、主イエスはこのことを弟子たちに伝えているのです。16章4節で「時が来たときに、…思い出させる」と言われていますが、単に時間のことを言っているのではありません。その時に聖霊が働き、すべてを明らかにすると言っているのです。
  このように、キリストの昇天は、私たちのための神の恵みの御業なのです。


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