創世記 1章3~31節
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
創世記1章の天地創造の記述に繰り返されている「神は良しとされた」には、「美しい、目的にかなっている」という意味もあります。そして、創造に関して、神がとても満足しておられることが示されています。「良い、美しい」と言いましても、単に鑑賞し、評価しておられるのではありません。神は、御自身がお造りになったものに対して責任をもって関わっていく意志を表しているのです。それ故、「神は良しとされた」というのは、過去においてそうなさったというだけではなく、現在も良しとなるよう働いておられ、未来においてもそのように働き続けられるという神の決意なのです。
創世記37章から50章まではヨセフ物語になっています。兄たちによってエジプトへ売られたヨセフの言葉は、創世記全体に流れる主題とも言えます。すなわち、「あなたがたは私に悪をたくらんだが、神はそれを善に変えられた(口語訳では『良きに変えられた』)」です。繰り返し罪を犯す人間に対し、それを良きに変えるための働きを続けておられるのです。
ついに神は、人間の罪による呪いを祝福に変えるための行動に出られました。神の独り子である主イエス・キリストを地上へとお遣わしになったのです。人間はこのキリストを十字架につけ、排除しようとしました。しかし、神はその十字架の出来事をすべての人々を救う出来事へと変えられたのです。ヨセフの言葉で言うならば、「人間は悪をたくらんだが、神はそれを良きに変え、信じるすべての人を救うこととされたのです」。
今も、神は働いてくださっています。ハイデルベルク信仰問答という本には、「摂理とは、神の全能なる、今働く力である。すべては偶然ではなく、神が私たちの祝福となるように働いてくださっている。それ故、たとえ今、どのような苦況にあろうとも神はそれを我々の幸いのための用い、また幸いへと変えてくださる (以上は要約) 」と教えています。神を讃美しましょう。それが、神の御業に応えるのに最もふさわしいことなのです。
神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
神は言われた。
「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」
そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
創世記1章の天地創造の記述に繰り返されている「神は良しとされた」には、「美しい、目的にかなっている」という意味もあります。そして、創造に関して、神がとても満足しておられることが示されています。「良い、美しい」と言いましても、単に鑑賞し、評価しておられるのではありません。神は、御自身がお造りになったものに対して責任をもって関わっていく意志を表しているのです。それ故、「神は良しとされた」というのは、過去においてそうなさったというだけではなく、現在も良しとなるよう働いておられ、未来においてもそのように働き続けられるという神の決意なのです。
創世記37章から50章まではヨセフ物語になっています。兄たちによってエジプトへ売られたヨセフの言葉は、創世記全体に流れる主題とも言えます。すなわち、「あなたがたは私に悪をたくらんだが、神はそれを善に変えられた(口語訳では『良きに変えられた』)」です。繰り返し罪を犯す人間に対し、それを良きに変えるための働きを続けておられるのです。
ついに神は、人間の罪による呪いを祝福に変えるための行動に出られました。神の独り子である主イエス・キリストを地上へとお遣わしになったのです。人間はこのキリストを十字架につけ、排除しようとしました。しかし、神はその十字架の出来事をすべての人々を救う出来事へと変えられたのです。ヨセフの言葉で言うならば、「人間は悪をたくらんだが、神はそれを良きに変え、信じるすべての人を救うこととされたのです」。
今も、神は働いてくださっています。ハイデルベルク信仰問答という本には、「摂理とは、神の全能なる、今働く力である。すべては偶然ではなく、神が私たちの祝福となるように働いてくださっている。それ故、たとえ今、どのような苦況にあろうとも神はそれを我々の幸いのための用い、また幸いへと変えてくださる (以上は要約) 」と教えています。神を讃美しましょう。それが、神の御業に応えるのに最もふさわしいことなのです。