八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の救いの歴史」 2022年7月10日の礼拝

2022年07月25日 | 2022年度
詩編33編4~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主の御言葉は正しく
 御業はすべて真実。
 主は恵みの業と裁きを愛し
 地は主の慈しみに満ちている。
 御言葉によって天は造られ
 主の口の息吹によって天の万象は造られた。
 主は大海の水をせき止め
 深淵の水を倉に納められた。

 全地は主を畏れ
 世界に住むものは皆、主におののく。
 主が仰せになると、そのように成り
 主が命じられると、そのように立つ。
 主は国々の計らいを砕き
 諸国の民の企てを挫かれる。
 主の企てはとこしえに立ち
 御心の計らいは代々に続く。


使徒言行録13章26~39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、
 『あなたはわたしの子、
 わたしは今日あなたを産んだ』
と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、
 『わたしは、ダビデに約束した
 聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』
と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、
 『あなたは、あなたの聖なる者を
   朽ち果てるままにしてはおかれない』
と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。


  パウロとバルナバがシリアのアンティオキアの教会からキプロス島を経て、ピシディア(今のトルコ南部)のアンティオキアにやってきました。安息日にユダヤ人の会堂に入り、福音を宣べ伝えました。使徒言行録の前半でペトロの説教がいくつか記されており、後半ではパウロの説教がいくつか記されています。
  13章16節以下は、使徒言行録に記されているパウロの最初の説教です。内容はペトロの説教と似ています。主イエスの十字架の死と復活、そして罪の赦しが語られました。特徴的なのは、主イエスの出来事を語る前に、旧約聖書の話を簡潔に語っていることです。モーセとイスラエルの四十年にわたる荒野での生活、ダビデの物語、そして旧約聖書ではありませんが、洗礼者ヨハネについてです。これらのことを語ったのは、神が旧約の時代からすべての人を救うための計画を進めていたことを明らかにするためでした。その計画は、イエス・キリストによって成就しました。だから、パウロは主イエスの十字架と復活の出来事を丁寧に話したのです。
  主イエスの十字架と復活についても、旧約聖書の言葉を三つ引用して説明しています。主イエスの十字架と復活による救いが旧約聖書の時代からの神の計画であり、そのことをあらかじめ告げられていたと強調しているのです。
  もう一つ重要なことがあります。13章31節で、主イエスは復活の後、弟子たちに幾日にもわたって姿を現され、その弟子たちは民に対してイエスの証人となって証している、と語っていることです。
  「イエスの証人」という言葉は、使徒言行録の前半において何度も出た重要なキーワードです。1章8節は特に大切な言葉です。「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」です。その重要性は主イエスが語られたということもありますが、「神の救いの歴史はこれからも続いていく」という主イエスの宣言でもあるからです。
  使徒言行録は、この主イエスの言葉通りに福音が宣べ伝えられていることを、使徒たちや教会の働きを通して語っています。それと共に、神の歴史は今も動いており、福音を伝えられた人々は、神の救いの歴史の中に生きていると告げているのです。
  ピシディアのアンティオキアの人々に語ったパウロは、「あなたがたも神の救いの歴史の中に生きている」と告げ、神の計画である以上、あなたがたがイエス・キリストによって救われることは確実なことだと告げているのです。さらに、この神の救いを拒むことのないようにと警告します。13章46節で「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」と言っています。もともと神の救いはまずユダヤ人に与えられるはずでした。しかし、それを拒み、主イエスを十字架につけたのです。神の救いという恵みを、自分の手で地に投げ捨てたのです。このようなことを再び起こしてはならない、神の救いという恵みを拒んではならない、と警告するのです。
  私たちも今目の前に差し出されている神の救いという恵みをしっかりと受け止め、神の救いの歴史に生きていることを自覚しましょう。



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「派遣される使徒たち」 2022年7月3日の礼拝

2022年07月18日 | 2022年度
アモス書7章10~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。
  アモスはこう言っています。
 『ヤロブアムは剣で殺される。
 イスラエルは、必ず捕らえられて
 その土地から連れ去られる。』」
  アマツヤはアモスに言った。
  「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
  主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。


使徒言行録13章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
  聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。



  使徒言行録13章はこの書の流れの大きな転換点で、それまでたびたび登場していたペトロに代わり、パウロを中心に話が進んでいきます。それは、1章8節の「エルサレムばかりでなく・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの言葉の通りに、世界各地に神の救いが宣べ伝えられて行く出来事で、その始まりが13章1節以下ということです。
  舞台はエルサレムから離れ、アンティオキアに移っています。エルサレムで迫害されたキリスト者たちが各地に散っていきましたが、そのうちの一つがアンティオキアでした。そして、ここから世界各地に福音が伝えられていくのです。こうしてみると、エルサレムでの迫害は、福音が世界各地に伝えられるためにあらかじめ神が御計画されていたと考えることができます。
  さて、事の始まりは、アンティオキアの教会で行われていた礼拝です。神を礼拝している時に、パウロとバルナバを伝道に送り出すようにとの聖霊のお告げがありました。そこで、教会は二人を宣教に遣わしました。
  ここで、三つのことに注目すべきです。第一は、聖霊が教会にパウロとバルナバを宣教に遣わすようと告げたということです。使徒言行録は聖霊の働きを数多く記しています。世界各地への宣教も聖霊の働きによると語っているのです。第二は、教会が礼拝をしていた時に、聖霊から宣教に派遣せよとのお告げがあったことです。具体的にどういう形でお告げがあったかは分かりませんが、大切なことは礼拝と宣教活動との関係です。両者の関係が切り離せないことを、告げているのです。第三は、パウロの宣教活動は、教会の業として行われたということです。私たちは、使徒言行録に記されているパウロの働きの偉大さに目を奪われ、宣教活動がパウロ個人の熱心さと働きによると思いがちです。しかし、使徒言行録は、もちろんパウロの働きを大きく評価をしていますが、その働きがいかに偉大であろうとも宣教活動は個人的な働きではなく教会の業だと告げています。ですから、アンティオキアの教会から送り出されたパウロとバルナバは、宣教活動を終え、アンティオキアの教会に帰り、その成果を報告(14:27)しています。二回目、三回目の宣教旅行も同じです。
  さて、今日の礼拝では、旧約聖書からはアモス書7章10~15節を読んでいただきました。アモスが自分について語っている場面です。彼は自分が預言者でもその弟子でもなく、家畜を飼い、イチジク桑を栽培する者だと言い、もともと預言することを本職としていないというのです。しかし、ある日突然神に召し出されて預言者として働くことになりました。預言者アモスは神の選びの不思議さを語ります。このアモス以上に神の不思議な選びによって立てられたのがパウロです。
  使徒言行録の中で、パウロはキリストを信じる人々を迫害する人物として登場しました。迫害のためダマスコに向かっていたパウロは、突然の光によって目が見えなくなり、その光の中で主イエスに召され、キリストを信じる人へと変えられました。その後、彼はアンティオキアの教会に行き、そこで福音宣教のために派遣されることになったのです。迫害する者から福音を宣べ伝える者になったのです。180度の方向転換です。信心深い人なら他にもいましたが、神はあえてパウロを選んだのです。本当に神の選びの不思議さを思わずにはいられません。
  しかし、このような神の不思議な選びを経験するのはパウロだけではありません。私たちも神から選ばれて、今、教会に集められています。それを自分の意志、自分で選んだと思うでしょう。しかし、私たちの思いをはるかに超える御計画により、神は私たちを選び、この教会へと導いてくださったのです。




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「イエスの名によって」 2022年6月26日の礼拝

2022年07月11日 | 2022年度
サムエル記上16章14~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

使徒言行録16章16~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。


  使徒言行録という表題は、主イエスの弟子たち語ったこと行ったことの記録という意味です。弟子たちが「使徒」と呼ばれているのは、十字架にかかられる以前、主イエスが彼らを各地に派遣したため、「遣わされた人」という意味でこのように呼ばれるようになりました。使徒言行録は、十字架の死の後に復活された主イエスが、弟子たちに会って話をされている場面から始まります。そして、使徒たちの活動の様子が記されていきます。表題は「使徒言行録」ですが、聖霊についての記述が多ことから、この書の内容は「聖霊の働き」だとも言われてきました。
  私たちの信仰は「三位一体の神」を信じる信仰です。すなわち、「父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊が、それぞれ固有の位格(人格)でありながら一人の神であると信じる」というものです。この中で聖霊が一番理解しにくいかもしれません。ヨハネ福音書3章で、主イエスが律法学者のニコデモに聖霊について話をする場面があります。聖書の元の言葉では「霊」と「風」は同じ言葉だからでしょう。聖霊の働きを風に例えています。確かに、私たちは風を直接見ることはできません。しかし、枝の葉の動きや煙のたなびく様子を見て、風がどこから吹いており、その強さがどの程度かを知ることができます。聖霊も直接見ることはできませんが、その働きを見ることで聖霊の働きを知ることができます。使徒言行録は、使徒たちを通して働く聖霊の働きを記しているのです。
  さて、今日の使徒言行録16章16節以下は、フィリピという町での出来事です。パウロが、その町で占いの霊に取りつかれていた女性から霊を追い払いました。その女性は奴隷であり、占いをすることで主人に利益を得させていましたので、怒った奴隷の主人に訴えられたパウロとシラスが、翌日まで牢に入れられたという話です。二人の釈放の様子については別の機会に譲ることにします。
  今回の話の重要なことの一つは、占いの霊に取りつかれていた女性は、人間からだけではなく、霊からも束縛されていたということです。パウロが霊を追い払ったことにより、占いの霊からこの女性を自由にしました。しかし、この奇跡はパウロの力によるのではありません。パウロと共にいる聖霊の働きによるのです。
  パウロは、「イエス・キリストの名によって命じる」と言って占いの霊を追い出しました。「イエスの名による」というのは、イエス・キリストの力によるということで、霊を追い出したのはキリストご自身なのです。キリストは復活の後、天に昇り、父なる神の右に座しておられますので、キリストがここに直接現れたというのではありません。父なる神とキリストから遣わされる聖霊がパウロと共にいてくださり、占いの霊を追い出したのです。父なる神と子なるキリストと聖霊とが一体となって働いておられるということです。
  パウロが唱えた「イエスの名によって」は、悪霊を追い出す技術とか呪文というのではありません。使徒言行録19章13~16節にユダヤ人の悪霊払い師たちが「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と唱えたところ、悪霊からひどい目に合わされたという出来事が記されています。悪霊払い師たちは「イエスの名による」という言葉が悪霊を追い払う技術、呪文であり、自分たちもその言葉を利用し、悪霊を自由に扱えると考えたのです。しかし、「イエスの名による」というのはそのような呪文ではないことを、悪霊払い師に反撃した悪霊たちが証明しました。先にも言いましたように、「イエスの名による」は主イエスご自身が聖霊と一体となって働いておられことを示しているのです。
  聖霊の働きについて、私たちがぜひ心に刻んでおくべきことがあります。それは、神を信じることもまた、聖霊の働きによるということです。コリントの信徒への手紙一12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」とあるとおりです。信仰は、単なる知識によるのではなく、聖霊が働かなくては、真の信仰に至らないということです。
  最後に祈りのことに触れておきます。祈りの時、私たちは「イエス・キリストのみ名によって」と言って祈りを閉じます。聖霊と主イエス・キリストが私たちの祈りをとりなしてくださるからです。この執り成しがないならば、私たちの祈りはむなしいものとなってしまうのです。



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「使徒たちの祈り」 2022年6月19日の礼拝

2022年07月04日 | 2022年度
歴代誌下15章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。彼はアサの前に進み出て言った。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」
  アサはこの言葉と預言者オデドの預言を聞いて、勇気を得、ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき偶像を除き去り、主の前廊の前にある主の祭壇を新しくした。


使徒言行録4章23~31節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。
 『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、
 諸国の民はむなしいことを企てるのか。
 地上の王たちはこぞって立ち上がり、
 指導者たちは団結して、
 主とそのメシアに逆らう。』
事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。



  ペンテコステからしばらく後のことです。ペトロとヨハネが足の不自由な人をいやしたことがきっかけで牢に入れられ、取り調べを受けました。その後、釈放されたペトロとヨハネは、仲間の所に戻ってきて、逮捕されたいきさつと顛末を報告しました。その報告を聞いた人々は神に祈ります。彼らは、もちろんペトロとヨハネが守られたことを感謝していたことでしょう。しかし、ここに記されている祈りには、ペトロとヨハネが守られたことを感謝する言葉がありません。そのことをないがしろにしたのではありません。それ以上に神が真の主権者であることと、その栄光をたたえたのです。ユダヤの指導者たちが行ったことは、ペトロとヨハネ個人に行ったのではなく、神に逆らう行為だったからです。
  この祈りでは、まずユダヤの指導者たちの行ったことは神に逆らう行為であり、しかも神があらかじめ告げておられたことを述べています。神に逆らう行為とは、イエス・キリストを異邦人の手によって処刑させたことです。人間の目から見ると突然のことであり、思いがけないことのように思えることです。しかし、これは神の御計画によりあらかじめ定められていたことだと述べるのです。主イエスを処刑した異邦人やそれをたくらみ手引きしたユダヤ人に対する恨みや憎しみは語られていません。神の御計画であることを真剣に受け止め、人間を救おうとする神の御心に従おうとしているのです。
  最後に、「今こそ彼らの脅しに目を留めてください」と祈っています。彼らの脅しとは、ペトロとヨハネに対するユダヤの指導者たちの態度のことです。それを目に留めてくださいと祈っているのは、復讐のためではありません。むしろ、そのような脅しを受けたこと、そしてそれはこれからも受けるに違いないが、これまで以上に「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈るのです。
  ここには、神の救いの御言葉を語る人々を妨げようとする力が働いていることを知り、しかし神が必ず、御計画通りにすべての人々を救ってくださること、そのために自分たちが用いられること、そしてついに神の御計画が成就する確信に満たされています。
確かに神の御計画に逆らう人々がおり、今もその力が働いています。しかしなお、すべての人々を救う神の御計画は着実に前進していくのです。
  祈り終えた人々は聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出しました。ペンテコステの時と同様の出来事が起こったのです。これは使徒たちに対する神の応答でした。単に不思議な出来事が起こったと語っているのではなく、神が共にいてくださるしるしです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)との主イエスの言葉のしるしとして聖霊が下ったのです。この聖霊によって、今の私たちの教会も立ち、前進していくのです。



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