八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「汚れと清め」 2019年9月15日の礼拝

2020年03月17日 | 2019年度
申命記21章22~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。

マタイによる福音書23章25~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
  律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。



  旧約聖書には、汚れを避けることや汚れた場合の清めについての戒めが数多く記されています。聖書において汚れと清めは、単なる衛生上の問題ではありません。汚れは、人間の神に対する罪の現れです。罪とは神との正しい関係が壊れていることであり、汚れは、その罪のゆえに神の御前に出ることができない状態を表しています。そのことを最も良く表しているのが、「人は神の前に立つことはできない」とか「神を見る者は死ぬ」と言われていることです。神に仕える祭司たちでさえも、他の人々と同じように神に対する罪人とされ、汚れているとされていたのです。それゆえ、祭司たちが神の前に出る時、身を清めるよう命じられ、また神を直接見ることがないよう厳しく警告されていました。それは、顔と顔を合わせて神が選ばれたというモーセでさえも同じでした。(出エジプト33章) 
  さて、罪に対して罪の贖いが定められているように、汚れに対しては清めの定めがありました。罪の贖いは、神と罪人との壊れた関係を修復し、清めは、罪ゆえに神の御前に出ることができない状態を修復する事に目的があります。
  罪の贖いにしても清めにしても、そのための儀式に力があるわけではありません。神ご自身が罪を贖い、清めてくださるのです。主イエスが罪の赦しを宣言された時、「神以外に罪を赦すことができる方はいない」(マルコ2章7~10節)と非難されたことがありました。主イエスは神の独り子でしたので、罪を赦す力、権威をもっておられました。ですから、主イエスを非難した人々は間違っていたわけですが、彼らの言ったこと自体は間違ってはいません。罪の贖いや清めの儀式は、その儀式を行った人やその儀式そのものに罪の赦しや清めの力があるのではありません。罪が贖われたり、汚れが清められたことを私たちに示すという意味において、これらの儀式が重要なのです。とは言え、その儀式を執行する人間や儀式そのものには限界があり、神の独り子主イエスはその限界をはるかに超えて完全な罪の赦しと清めを与えてくださるのです。
  マルコ福音書1章40~44節に、主イエスが重い皮膚病を患っている人を清め、祭司に体を見せるよう指示したとあります。祭司は重い皮膚病に対して、その病に患っているか否か、また直ったかまだ病んでいるかの判定しかできません。ここに人間の限界があります。それに対して、主イエスは重い皮膚病を清め、ご自身に清める力があることを示されたのです。もちろん、主イエスはご自身の力を見せつけるために奇跡を行ったのではありません。しかし、福音書は、主イエスに罪を贖い、汚れを清める力があることを証言しているのです。
  マタイ23章25~28節の主イエスの厳しい言葉は、祭司たちに限界があるように、律法学者とファリサイ派の人々にも限界があることを指摘しているのです。彼らは、清めのための戒めを遵守し、人々にもそのように教えていましたが、彼らは、戒めを表面的に守るしかできません。それは、清めの力があるどころか、形式的に戒めを守っていることからくる誤った安心感を持っているにすぎないのです。
  マタイ15章において、手を洗うことについての律法学者とファリサイ派の人々の非難に対して、主イエスは汚れと清めについての本質を見誤っていると指摘されました。そして、23章で、彼らの内側は悪と汚れに満ちているとまで言われたのです。それは、律法学者とファリサイ派の人々の抱えている問題として語られていますが、実は全ての人間の問題なのです。
  真の罪の贖いと清めが必要なのです。主イエスは、十字架にかかられ、真の罪の贖いを成し遂げられました。それは、また、私たちを罪とその汚れから完全に清めてくださる御業でもありました。罪とその汚れから清められることを「聖化」と言います。主イエスの十字架にかかられた出来事は、全世界の人々が罪を贖われ、聖化されるための神の御業です。しかし、それは聖化の完成ではなく、聖化の完成へ向かっての出発です。旧約聖書に記されている出エジプトの出来事と同じです。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々は、神から遣わされたモーセによって、エジプトを脱出しました。しかし、それはエジプトを脱出した事で終了したのではありませんでした。脱出したイスラエルの人々は、長い年月を経て、神が与えると約束してくださった乳と蜜の流れる地に入ったのです。罪からの贖いを受け、汚れを清められたというのは、神の御国への出発なのです。主イエス・キリストの再臨、終末の時こそ、私たちが神のみ国に入り、聖化が完成するのです。さらに言えば、私たち個人個人についても、主イエス・キリストの名による洗礼を受けることは、この聖化への歩みの始まりです。それは神の御国へ向かっての歩みです。地上での私たちは完全ではありませんが、完成へ向かう途上にあるのです。それは私たちの努力と言うよりも、私たちを救ってくださった神の力と導きによるのです。それゆえ、聖化の道は、何よりも救い主である神を仰ぎ見る生活となります。この救い主である神を仰ぎ見ることなくして、聖化の歩みはあり得ないからです。
  使徒パウロは、「キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」(フィリピ3:21)、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。」(Ⅱコリント3:18)と告げています。これは神が私たちにしてくださった約束であり、永遠に変わることのない神の固い決意です。ここにこそ、私たちの救いの確かさがあるのです。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする