八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「ぶどう園の主人と農夫のたとえ」 2019年6月2日の礼拝

2019年09月23日 | 2019年度
出エジプト記34章6~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」

マタイによる福音書21章33~46節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』
  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。


  主イエスが譬えを語られました。ぶどう園の主人が、そのぶどう園を農夫たちに貸したという話です。
  収穫の時が来て、ぶどう園の主人は収穫を受け取るために僕たちを遣わします。ところが、農夫たちは、収穫物を差し出すどころか、受け取りに来た僕たちを痛めつけ、また他の僕を殺してしまうという非道な行為を繰り返したのです。この農夫たちの非道な行為も、私たちには考えられないようなことですが、僕たちがそのような目にあわされたにもかかわらず、その後も主人が僕たちを何度も送り続けた事も常識的には考えられないことです。
  このようなあり得ない話ですが、旧約聖書の知識があると、主イエスの譬えは、イスラエルの人々と彼らに預言者を遣わされた神との関係を表したものであることに気がつきます。
  旧約聖書の列王記上・下には、罪を犯し続けるイスラエルに対して神が何度も預言者を遣わされたことが記されており、多くの預言者が迫害され、殺された出来事が記されています。
  しかし、主イエスの譬えには、主人の僕たち以外に主人の息子が登場し、彼もまた農夫たちに殺されています。これは旧約聖書の記述には合いません。新約聖書に親しむ私たちは、ここに登場する主人の息子が主イエスご自身を指していることにすぐ気がつきます。しかし、この譬えを聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々は、そのことを理解していません。
  主イエスは、その祭司長たちやファリサイ派の人々に尋ねます。「ぶどう園の人は、この農夫たちをどうするだろうか」と。彼らは答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに貸すに違いない」と。彼らの答えは、ごく常識的であり、誰でも同じように答えるのではないでしょうか。当然、神も同じように罪人たちを厳しく罰するはず。これが主イエスの譬えから導き出される答えです。
  しかし、主イエスは祭司長たちや長老たちの言葉に対して、その通りだとは答えていません。旧約の時代、多くの預言者たちが迫害されました。その罪を厳しく咎めましたが、その後も預言者を送り出し続けられたのです。神は、忍耐し続け、イスラエルが悔い改めることをまっておられましたが、ついに神はイスラエルの人々を罰し、人々をパレスチナから追い出されました。それがバビロン捕囚です。
  神は、イスラエルが滅ぶことを望まず、彼らを再びパレスチナへ帰らせました。何世紀も経ち、神の独り子が使われました。主イエスが譬えで語られたように、イスラエルは主イエスを十字架にかけて殺します。主イエスが引用された「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」は、詩編の言葉で、主イエスが宗教の専門家から捨てられるが、それが建物の土台のような重要な存在になると告げ、ご自身を指しておられるのです。
  ローマ書3章26節にあるように、「神は人間の罪を忍耐してこられたが、今この時に義を示され、イエスを信じる者を義となさるのである」ためであったのです。神の忍耐と救い主を送ってくださったを感謝しましょう。


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「信じる者になりなさい」 2019年5月26日の礼拝

2019年09月16日 | 2019年度
エゼキエル書18章30~32節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マタイによる福音書21章28~32節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


  主イエスが語られた譬えは、父親が息子たちにぶどう園に言って働くように言い、ひとりが「いや」だと言ったが考え直してぶどう園で働いたが、もう一人は「行く」と言いながら、結局行かなかったという単純な話です。「どちらが父親の望みどおりにしたか」という問いに対して、当然人々は、「兄の方です」と答えました。そして、主イエスは人々に、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」と告げられました。
  この教えは、悔い改めの重要性を強調していますが、ここで注目すべき事は、洗礼者ヨハネについて言及されていることです。洗礼者ヨハネは悔い改めのバプテスマ(洗礼)を説いていましたので、彼の名前が出てくるのは当然と言えば当然なのですが、他にも大きな理由があります。
  第一は、主イエスがこの譬えを語られる直前、主イエスの言動を咎めたユダヤの宗教的指導者たちが「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と、主イエスに問われ、「分かりません」と回答を拒否したことです。一般の人々はヨハネを預言者と思っていましたが、それを認めない指導者たちは、民衆を恐れて自分たちの意見を述べようとしませんでした。
  第二は、ヨハネが示した「義の道」です。彼が宣べ伝えたのは「悔い改めのバプテスマ」ですから、義の道は悔い改めのことだと言えます。しかし、ヨハネが宣べ伝えたのは、それだけではありませんでした。彼は、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と、人々に告げ、主イエス・キリストを指し示していたのです。すなわち、「義の道」とは主イエスのことなのです。
  使徒パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)と告げています。「律法を実行することによっては」と言われていますが、私たちの悔い改めの業は律法を実行することと結びついての事だったのではないでしょうか。罪の贖いのため動物を献げることも、悔い改めの洗礼を受けることも、それを繰り返さなければなりません。しかも、それらを繰り返すことによって、それらの業の不完全さが明らかになり、同時に、私たちに罪を自覚させてきたのです。
  使徒パウロは、先ほどの言葉に続けて次のように告げています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」(ローマ3:21~22)
  祭司たちや律法学者たちは罪人と見なす人々を排除しようとしましたが、主イエスは罪人と見なされる人々の食卓に加わり、彼らを義の道に導きました。その義の道は、全ての人々の罪の贖いとなるために歩まれる十字架への道です。主イエスが十字架の上で流された血こそ、無数の動物たちが流してきた血に勝る完全な贖いであり、人々を救う力があるのです。主イエスにより頼む人々こそが神の国に入ると、主イエスは宣言し、今の私たちをも招いておられるのです。


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「主イエスの権威」  2019年5月19日の礼拝

2019年09月10日 | 2019年度
エレミヤ書33章6~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。

マタイによる福音書21章23~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」


  主イエスが、神殿の境内で人々に教えておられました。そこは、前日、主イエスが両替人の台や鳩を売る人々の腰掛けを倒し、売り買いをしていた人々を追い出した場所でした。彼らは、礼拝をする人々のために献げ物の動物を売り、献金用のお金に両替をするための商人たちでした。そして大祭司から、その商売をする許可を受けていたのです。ですから、主イエスがなさったことは、大祭司に刃向かう行為と見なされたのです。祭司長たちや民の長老たちがやってきたのは、それを咎めるためでした。
  「何の権威でそれをしているのか。誰がそのような権威を与えたのか」。彼らの問いは、前日の神殿での行為だけでなく、今人々に教えている行為をも咎めているのです。本来人々に教えることは、正式に教える資格が必要でした。主イエスが誰から教わり、どこでその資格を得たのかは全く知られていませんでした。故郷のナザレの人々もそのことを不思議に思ったほどです。(マタイ13:53以下) とは言え、それを探ることが、祭司長たちや長老たちの目的ではありません。むしろ、大祭司やその他の宗教的指導者に逆らうなと、釘を刺すために来たのです。
  その彼らに、主イエスは尋ねました。「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」。
  洗礼者ヨハネとは、主イエスの先駆けとして福音書に位置づけられている人物です。祭司長たちや長老たちは、ヨハネの権威を認めていませんでしたので、彼の行っていた洗礼についても、「彼が勝手にやっていた」という意味で、「人からのものだった」と答えれば良かったのです。しかし、彼らは、民衆の目を意識し、「分からない」と答えてしまいました。民衆がヨハネを預言者だと思っており、民衆の反感を買うのを恐れたのです。
  そこで、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と、主イエスは答えられました。
  祭司長たちや長老たちに、主イエスはご自身の権威について答えられませんでしたが、マタイ福音書は、最初から主イエスの権威を明らかにしてきました。主イエスの誕生の時、神の独り子であることが天使から告げられたこと、また、東から来た占星術の学者たちを通して、主イエスがユダヤの王であることを示したのです。さらに、悪魔の誘惑、ヨハネから洗礼を受けた時に天から響いてきた声、また、伝道されてからの主イエスの教えや奇跡。そのすべてが、主イエスが神の独り子であることを示し、その権威を明らかにしていました。
  しかし、この福音書は、主イエスの権威を証明することだけを目的にしているのではありません。むしろ、その権威によって、主イエスが全ての人々の救いのために働いておられることを示すことが目的なのです。
  ヘロデ大王は、自分の地位を守ろうとして、多くの幼子たちを殺害しました。祭司長たち宗教指導者は自分たちの権威を守ろうとし、神の目ではなく、民衆の目を恐れました。自己保身を目的とした権威に何の意味があるのでしょう。ヘロデ大王やユダヤの宗教指導者たちがこの福音書に登場する意味は、神の権威とは何か、またそれを何のために、どのように用いるかということ明らかにするための反面教師であるというところにあります。そのようにして、神の真の権威、またその目的とは何かを明らかにしようとしているのです。
  主イエスは十字架にかかり、全ての人を救う罪の贖いをすることにより、救い主としての権威を行使されました。主イエス・キリストだけが全ての人々を救おうとする神の御心に従って神の権威を用いておられるのです。
  この福音書は、救い主としての権威を行使される主イエスを私たちに伝えようとして、記され、今も私たちに語りかけています。主イエスのこの権威こそ、そしてこの権威だけが、私たちを救いうる。この主イエスの権威の下に、身を寄せるようにと、この福音書は呼びかけているのです。


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「神の愛は、確かな救い」 2019年5月5日の礼拝

2019年09月02日 | 2019年度
詩編23編1c~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく
   わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。


ローマの信徒への手紙8章35~39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 「わたしたちは、あなたのために
   一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


  「キリストによって示された神の愛から引き離されない」。これが、「なぜ、私たちは救われるのか」という問いに対する、聖書の答えであり、根拠です。
  私たちの救いは、私たち自身の力や義しさによるのではなく、神の力によるものです。神が私たちを救うために働いてくださったのです。聖書は、そこに神の愛が現れていると告げます。神が私たちを愛してくださっているのです。ここにこそ、私たちの救いの根拠があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とある通りです。私たちの救いが、私たちを愛してくださる神の愛の故であり、両者は切り離すことの出来ない関係にあると告げています。
  私たちを愛する神の愛は、状況によって変化したり無くなったりすることはありません。「どんなものも、私たちを神の愛から引き離すことは出来ない」というのは、第三者が私たちを神の愛から引き離すことができないという意味があるばかりでなく、神の私たちを愛する愛は、決して変わることがないということをも意味しているのです。その意味で、この神の愛は、感情の揺れ動くままに変化する愛ということではありません。むしろ、何があっても変化することのない永遠の愛です。それは、「なんとしてでも私たちを救う」、「どこまでも私たちを愛する」という神の固い決意、強い意志があります。それが示されたのが、十字架にかかられた主キリストです。
  神の愛をどこにでも感じることは出来るでしょう。しかし、聖書は「キリスト・イエスによって示された神の愛」(ローマ8:39)、「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と告げます。私たちの救いのために十字架にかかってくださったイエス・キリストこそ、私たちに対する神の愛を証明し、またなんとしてでも私たちを救う神の固い決意、意志を示しているのです。
  神がこのように固い決意をもって私たちを救ってくださるのであれば、私たちが救われるのは確実です。たとえ、私たちの信仰が揺らごうとも、私たちを救うという神の決意は変わることはありません。なぜなら、「私たちがまだ弱かったころ、不信心であり、罪人であったとき、また神の敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われているのはなおさらです」(ローマ5:6~10)とあるからです。
  神は決して私たちを見捨てることなく、いつも私たちと共にいてくださり、私たちを愛し、必ず救ってくださるのです。それを繰り返し確認する時として、神は私たちを礼拝に招いておられるのです。


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