八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「今日、主イエスと一緒に楽園に」 2016年2月21日の礼拝

2016年10月18日 | 2015年度
詩編23編1c~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく
   わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。


ルカによる福音書23章39~43節(日本聖書協会「新共同訳」)

  十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

  受難節の間、主イエスの十字架上の七つの言葉を取り上げています。今日の主イエスの言葉は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」です。これは神の権威によって語られた言葉といわれます。
  今日のルカ福音書23章39~43節は、他の福音書にはでてきません。マルコやマタイは、二人の強盗がののしったとだけ記しているのに対し、ルカでは、強盗のうちひとりが主イエスを罵り、もうひとりはそれをたしなめ、主イエスに「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願い出ています。ここにルカ福音書の特徴があります。

  主イエスをののしる犯罪人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫んでいます。彼は、何故、このようにののしるのでしょうか。主イエスに特別の憎しみでもあるのでしょうか。
  この犯罪人が主イエスをののしる前には、ユダヤ最高議会の議員たちが主イエスをあざ笑い、ローマの兵士たちも主イエスを侮辱したとあります。ユダヤの議員たちやローマの兵士たちがあざ笑ったり、侮辱しているのは、主イエスを訴え、不法な裁判によって死刑を執行する側ですから、そういうことはあるだろうと納得できます。
  しかし、犯罪人が主イエスをののしる理由は何でしょうか。彼は以前から主イエスを知っており、迷惑を被ったとでも言うのでしょうか。ひょっとすると、人々が主イエスをののしる言葉から、メシアとか多くの人々を助けたという評判を思い出したのかも知れません。それで、「本当にメシアであるなら、自分自身と我々を救ってみろ。」とののしったのかも知れません。
  そうだとすると、サタンの誘惑を想い起こす必要があります。と言うのは、この罵りの言葉には、福音書の初めの方に記されているサタンの誘惑の響きが感じられるからです。
  伝道を開始される主イエスに対して、サタンが「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4章3節、6節)と唆そうとしました。
  このサタンの誘惑の目的は、主イエスを唆して、奇跡を起こさせることでした。「奇跡を行うことによって神の子であることを証明し、人々を引きつけたらどうだ」ということです。
  いつの時代でも、どの世界でも飢えた人間が多くいます。「その人々に無限に食料を与えよ」ということです。奇跡を起こし、人々を驚かすことによって、人々は尊敬し、敬うようになるという誘惑です。
  このようなサタンの誘惑に対して、主イエスはそれらの方法をとらず、ただ神の御心に従う決意を示されたのです。その神の御心は、その場面では明らかにされませんでしたが、全ての人々を罪から救うために十字架にかかり、また死からよみがえられることでした。神の子が地上における使命は、十字架と復活にあったのです。サタンの誘惑には、その十字架と復活から離れさせる目的があったのです。
  そして、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」という犯罪人の言葉には、あのサタンの言葉と同じ響きがあるのです。
  サタンの誘惑にしろ、犯罪人の罵りにしろ、メシアが奇跡を起こすこと、また新しい王国を建設し、メシアが王となる事は、当時のユダヤ人たちが抱いていた期待を現しています。それは、弟子たちも例外ではありません。
  エルサレムの町に向かっている主イエスに、二人の弟子たちが願い事をしたことがあります。
  「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。』」(マルコ10章35~40節)
  主イエスが十字架にかけられる数日前の出来事です。主イエスは「エルサレムで殺され、三日目によみがえる」と、3回も繰り返し予告しておられました。それにもかかわらず、この二人の弟子たちは主イエスが王になり、自分たちがその側近として高い身分に尽きたいと願っていたのです。このようなことは、二人の弟子だけでなく、他の弟子たちも同じでした。彼らは、たびたび「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」と議論しあっていましたし、特にルカ福音書は、主イエスが捕らえられる直前にもそのような議論をしていたことを記しています。
  「『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(ルカ22章21~24節)
  いわゆる最後の晩餐の時のことです。しかも主イエスが弟子たちの中にご自分を裏切るものいるとおっしゃったときのことです。弟子たちの間で、いったい誰が裏切るのかという議論が始まり、それがいつしか「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論にすり替わっていったというのです。
  先ほどのゼベダイのヤコブとヨハネの出来事の直後に、主イエスが次のように語られました。
  「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10章44~45節)
  他の弟子たちは、ヤコブとヨハネの兄弟のことで憤慨していました。それは、二人の兄弟が厚かましかったというだけではなく、他の弟子たちも、口に出してはいませんでしたが、同様の期待を持っていたからでしょう。そのような弟子たちに、主イエスは先ほどのように語られたのです。その中で語られている「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉に、主イエスが十字架に向かって歩んでおられることが示されています。
  弟子たちは、特別に優れていたわけではありませんでしたが、特別に物分かりが悪いというのでもありません。ごく普通の人間です。信仰深いと言えなかったかも知れませんが、特別不信仰であったのでもありません。聖書は弟子たちの弱さを語っていますが、それは彼らが特別に弱かったと告げているのではありません。弟子たちの姿を通して、全ての人間の弱さを語っているのです。主イエスの最も身近にいた弟子たちです。その最も身近にいた弟子たちでさえも、神の独り子の真の使命に気づくことが出来なかったと告げているのです。

  十字架上の犯罪人の話に戻りましょう。
  「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と叫ぶ犯罪人は、自分の死の間際において、主イエスが奇跡を起こすという最後の希望を持っていたのかも知れません。あるいはその希望が失われる事からくる怒りから、このようにののしったのかも知れません。
  さきほど、この犯罪人の言葉に、サタンの誘惑の響きがあるといいましたが、また同時に、人間の誤ったメシア理解があるとも言えます。そして、それは犯罪人やユダヤ人たちだけの誤りではありません。いつの時代でもどの人々も持ちやすい誤った期待なのです。すなわち、十字架と復活よりも、食べ物や奇跡、また自分にとって都合の良いことが起こることなどの期待です。
  使徒パウロは、コリントの教会に次のように語っています。
  「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1章18~25節)
  人間が求めるしるし(すなわち奇跡)や知恵ではなく、十字架と復活のキリストを宣べ伝えていると断言しています。十字架と復活のキリストによって、全ての人々を救うことこそが神の御計画だからです。
  そして、同じ手紙の中で次のようにも語っています。
  「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリント15章1~5節)
  ここでも、キリストの十字架と復活を最も大切なこととして伝え、これこそが福音であると告げています。

  さて、もうひとりの犯罪人に目を向けてみましょう。
  もうひとりの犯罪人は、先に主イエスをののしった犯罪人をたしなめた後、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と訴えました。
  「あなたの御国においでになるとき」というのは、地上のどこかの国ではなく、神の国のことで、神の独り子が神の御もとに帰られたならということです。この犯罪人は、主イエスに神の権威を認めているのです。
  「わたしを思い出してください」。神に名前を覚えられることは、名前だけではなく、存在そのものを覚えてください。私を忘れないでくださいということです。旧約以来、神に名を覚えられるとか、命の書に名前が記されるというのは、何にも優る祝福であり、救いでした。
  この犯罪人は、死を間近にして、主イエスに全ての希望を託したのです。何故、この犯罪人は、このように言うことが出来たのでしょうか。
  ペトロが、主イエスを正しく告白したときの出来事を想い起こしましょう。
  「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」(マタイ16章16~17節)
  ペトロの告白が人間の知恵や経験によるものではなく、神の働きによるというのです。
  使徒パウロも次のように語っています。
  「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Ⅰコリント12章3節)
  犯罪人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」ということができたのは、神の働きがあったからだと見るべきではないでしょうか。
  主イエスは、彼に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えられました。
  「楽園」と訳されている言葉は、パラデイソスという言葉で、口語訳ではパラダイスと訳されていました。
  楽園というのは、旧約聖書ではエデンの園がそのように考えられています。エデンは「楽しみ」という意味だからです。
  しかしこのエデンの園は、怠け者の世界ではありません。神は、エデンの園において、労働するように命じておられます。
  私たちが労働に対して辛く苦しいというイメージを持つのは、その働きがしばしばむなしくなるという経験をしてきたからであろうと思います。その働きに見合う満足が得られないために、辛く苦しく思えるのです。
  しかし、私たちが働く以上に収穫があり、良い結果があるならば、その働きの大変さにもかかわらず、満足感や充実感があります。エデンの園は、そういう満足感、充実感に満ちた世界なのです。
  主イエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されました。そのうちということではなく、「今」ということです。どのような状況であっても、主イエスが共におられることは、神の支配のもとにあるということです。それは言いかえるならば、神の国にあるということです。十字架で苦しんでいる時でも、主イエスを「神の独り子、私の救い主」と信じ、告白する人は、神の恵みから離されることはないのです。





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