八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

愛の香り(説教:松谷曄介)

2009年06月08日 | 2007年度~2012年度
聖書の御言葉 
「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが使者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの愛に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ福音書12章1~3節)」

 良い香りには、人の心を癒す効果があります。香りは目に見えませんが、たどっていけば、必ずその香りの源があります。さて、聖書には「香り」がいくつも出てきます。古い時代には、神様への犠牲の献げものは「なだめの香りの献げもの」と呼ばれることもありました。また「雅歌」という書物が旧約聖書にありますが、そこでは、神様と私たちの間の関係を男女の恋愛にたとえ、その熱烈な、また麗しい情景をナルドやアロエなど良い香りとして表現します。そこには心で感じることができる愛の香りがあるのです。

 ヨハネによる福音書には、ラザロ、マルタ、マリアが登場します。このラザロが死に瀕する病にかかり、マルタとマリアは主イエスに助けを求めますが、主イエスが到着したときには、既にラザロは亡くなっており、マルタとマリアは深い悲しみの中にありました。妹マリアは、主イエスの言葉を熱心に聞く信仰の持ち主でしたが、このときばかりは、泣き叫びながら主の遅すぎた到着を責め立てるほどでした。姉のマルタは、主イエスが墓石を動かしなさいと言った時に、「墓穴はもうにおいますから」と言って、諦めており、希望を失っていました。死の力は、ラザロの体だけでなく、あれほど熱心であったマリアを変えてしまい、マルタにも希望を失わせていました。マルタとマリアも死の香り・暗闇の香りの中にいたのです
 そのような中にあって、主イエスは、「私は復活(甦り)であり、命である」と言われます。そして、墓石をとりのけた後、死の香りで満ちていた暗闇の墓穴にむかって、「ラザロよ出てきなさい」と力強く語りかけます。それは「暗闇の中に光あれ」という命の言葉です。ラザロは闇の中から光へと生まれ変わり、新しい命に復活しました。 

 復活の命を生きる人たちの姿を、この兄姉たちの中に見ることができます。暗闇に捕えられ、死の力・罪の力の中に横たわっていたラザロは主イエスと共に食事の席にいます。希望をなくしていたマルタは、何事もなかったかのように、いや以前にもまして喜んで奉仕をしています。そして、泣き崩れ、立ち上がれないでいたマリアが、主の足にナルドの香油を塗っています。
 ナルドの香油は、一年間の給料に相当する高価なものでしたから、おそらくマリアだけのものではなく、家族の共有財産だったでしょう。マリアは代表して主イエスに香油を献げ、感謝と献身の思いを表わしているのです。そしてマルタもラザロもそれぞれの仕方で、主イエスに「献身」しているのです。そこにはもはやあの死の香りはどこにもなく、麗しい香りが満ちています。
 三人とも、決して、余っているもの・どうでもいいもの、暇な時間を割いているのではありません。今自分がなすべき、いや、自分が本当にしたいと思っている、そして自分ができる最善のことをしているのです。ラザロは、主がおられる食卓に座り、その御言葉に耳を傾け、親しい語り合い・交わりの時間を持っています。マルタは、自分が持っている賜物を活かして奉仕をしています。マリアもまた最も大切なものを主にお献げしています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 それぞれの家庭に独特の香りがあるように、礼拝の度ごとに心で感じる教会の香りがあります。それは、キリストの麗しい香りであり、また私たちがそれぞれに持ち寄っている「ナルドの香油」の香りです。キリストがおられ、そのキリストに献身するものたちのナルド香油があるところに、麗しい愛の香りがあります。良い香りが人の心を癒すように、教会の中にあるこの愛の香りは、人々の魂を癒します。
「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に捧げてくださったように、あなたがたも愛によって(愛の香りの中を)歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章2節)