八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「最も重要な掟」 2019年7月14日の礼拝

2019年10月28日 | 2019年度
申命記6章4~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
  今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。


マタイによる福音書22章34~40節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


  主イエスに投げかけられた律法の専門家からの問いは、「律法の中で最も重要な掟は何か」というものでした。旧約聖書にある掟や戒めは600以上あります。その上、口伝えで伝えられている無数の戒めや教えがありました。
  律法の専門家が問う「最も重要な掟」というのは、全ての戒めをまとめるようなという意味です。この問題に関して、ユダヤ人たちはいろいろの意見をあったようです。おそらく、律法の専門家の間でも長年議論が重ねられており、決着がついていませんでした。
  この問いに対して主イエスは、申命記6章4~5節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を示されました。これは「イスラエルよ、聞け」という言葉から始まっており、その最初の言葉「聞け(ヘブライ語でシェマー)」から、シェマーと呼ばれ、礼拝の時にはこの言葉が必ず唱えられ、日常生活でも家の入り口、部屋の入り口にこの言葉が入った入れ物(メズザー)がかけられ、家や部屋にはいる時、それに触れ、その戒めを思い起こすことになっていました。また祈りの時にも、その聖句が入った小さな箱を額と腕に付けなければなりませんでした。このように、シェマーと呼ばれる戒めは、彼らにとって最も身近であり、重要なものでした。主イエスがこの言葉を最も重要としたことに、律法の専門家も異を唱えることが出来ませんでした。
  主イエスは言葉を続け「第二もこれと同じように重要である」と言って、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」を引用され、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃったのです。
  まず第一に重要なことは、申命記とレビ記の言葉は聖書全体をまとめる重要な言葉ということです。第二に、しかし、これの言葉には第一と第二という順番が付けられているということです。この順番は逆になることはありませんし、隣人を愛することによって、神を愛したことにはならないということです。そして、この順番は、十戒の順番にも見られます。
  「隣人を愛する」という言葉には美しい響きがあります。そして、新約聖書の中にも何度も引用されています。しかし、隣人を愛するということの難しさもあります。ルカによる福音書には、この言葉を聞いた律法の専門家が「私の隣人とは誰か」と問い返したと記されています。その時主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話されています。このたとえは、いつもは仲の悪いサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたという話です。このサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたことによって、隣人となったと教えられたのです。これはレビ記の教えの重要な意味を明らかにしています。というのも、「隣人を愛しなさい」の言葉の前に、「兄弟を憎むな。復讐するな。恨むな」に続いて「愛しなさい」と教えられているのです。
  神を愛することは、神に愛されていることを確信することによって初めて可能となります。神に愛されている人は、神が自分を愛しておられるように、周囲の人々をも愛しておられることに気づかされます。そして、あなたも神と共にそれらの人々を愛しなさいというのが、「隣人を愛しなさい」という意味なのです。
  主イエスは、そのことを律法の専門家に対してだけでなく、私たちにも教えておられます。律法の専門家は、悪意を抱いて近づきましたが、その彼に真摯に向き合って、主イエスは神の御心を明らかにされました。今、私たちにも真剣な眼差しを向け、神に愛されている者にふさわしく生きよと諭しておられるのです。


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「復活と永遠の生命」 2019年7月7日の礼拝

2019年10月21日 | 2019年度
出エジプト記3章13~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは神に尋ねた。
  「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
  神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
  「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名。


マタイによる福音書22章23~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。 22:27 最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。



  エルサレム神殿の庭で、人々に教えておられた主イエスのところへ、次々にユダヤの指導的な立場の人々がやって来て、いろいろと議論を仕掛けてきました。純粋に信仰の問題を話し合うためというよりは、言い負かそうとしたり、罠にかけ、訴える口実をえるためでした。今回登場したサドカイ派の人々も同じでした。
  彼らが投げかけた問題は、人が復活することが有りえるか否かということでした。復活をめぐっては、ファリサイ派の人々が復活はあると主張するのに対し、サドカイ派の人々は復活はあり得ないと主張していました。そして、サドカイ派の人々は、復活があるとする主張には矛盾があると主イエスに問いかけたのです。
  彼らの問いはこうです。七人の兄弟うち兄が一人の女性を娶り、子供をもうけることなく死んでしまい、その後、六人の弟たちがその女性を次々に娶り、いずれも子供をもうけることなく死んでしまい、最後にはその女性も死んでしまった。もし、復活があるとなると、この女性は誰の妻になるか。
  この問いに出てくる結婚のあり方は、レビレート婚と呼ばれ、旧約聖書の時代から行われていた制度で、子孫を残す目的で行われていました。創世記38章には、その実例が記されています。
  このサドカイ派の人々の問いに対して、主イエスは、第一に、「復活の時には、娶ることも嫁ぐこともない」と答えられ、復活後は、この世の延長ではないことを強調されました。これは、レビレート婚には子孫を残す目的がありましたが、復活後は子孫を残す必要がないことを意味しています。すんわち、復活は永遠の命と結びついているということです。
  主イエスが答えられた第二のことは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」ということでした。その時引用された聖書の言葉は、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉で、アブラハムの時代から数百年の後のモーセに語られた言葉です。モーセからするとアブラハムは、過去の人物であり、ずっと昔に死んだ人です。しかし、神は「私はアブラハムの神だった」という過去形ではなく、「アブラハムの神である」と、現在形で語られました。主イエスはそのことを指摘し、死んだアブラハムは、過去に過ぎ去ったままではなく、今も「神と共にある」と告げられたのです。これは復活と直接関係がないようですが、永遠の命について語っているのです。復活は、この世の延長ではありません。生き返ってまた死ぬというようなものではなく、復活は永遠の命につながっているのです。神が永遠の存在であり、その神と共に永遠に生きることになるのが、復活なのです。
  ローマの信徒への手紙6章で、次のように教えられています。キリストの名による洗礼を受けた時、私たちは主イエスに結ばれ、主と共に永遠に生きる者とされています。主イエスの再臨の時、私たちは罪が完全に取り除かれ、朽ちない体に復活させられるというのです。「キリストの名による」というのは、「キリストに結ばれる」ということです。それ故、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされているのです。これは、私たちに対する神の愛と力によるのです。主イエス・キリストは永遠に生きる方であり、この方に私たちが結ばれているので、私たちは、この永遠の命に結ばれ、生きる者と定められているというのです。そして、キリストに結ばれている私たちは、キリストから引き離されることはありません。「死も、命も、天使も・・・他のどんな被造物も主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことは出来ない」(ローマ8章)とある通りです。


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「皇帝のものと神のもの」 2019年6月30日の礼拝

2019年10月14日 | 2019年度
創世記1章26~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  神は言われた。
  「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女に創造された。


マタイによる福音書22章15~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。


  今日登場するファリサイ派とヘロデ派の人々は、もともと立場が正反対ですが、主イエスを言い負かそうとして手を組み、罠を仕掛けようとやって来ました。彼らの仕掛けた罠は、「ローマ皇帝に税金を納める事は、律法に適っているかどうか」ということでした。
  当時、ローマは他国を支配した時には、その領土を属州とし、完全にローマの支配下に置きましたが、ユダヤに対しては属州に組み込むことをせず、ある程度の自治を許しました。ただし、税金を納めさせることによって、ローマの支配下にあることを認めさせていました。その税金を徴収し、ユダヤを監督するために遣わされたのが、後に登場するユダヤ総督ポンテオ・ピラトです。
  さて、ローマに治める税金について、ユダヤの伝統を重んじるファリサイ派の人々は不満を持っており、それに対してヘロデ派の人々は、ローマと良好な関係を保つため、容認すべきと考えていました。
  このように正反対の立場の人々がそろって主イエスのところに来て、この問題を投げかけたのは、「治めるべきだ」と答えても「治めるべきでない」と答えても、主イエスを非難する口実となり、場合によっては総督ピラトに訴えることも出来ると考えたからでした。
  主イエスは、税金として納める貨幣を持ってこさせ、「これは誰の肖像と銘か」と尋ね、彼らの「皇帝のものです」との答えを聞くと、主イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、答えられました。
  主イエスはファリサイとヘロデ派の罠をうまく切り抜けたのです。しかし、彼らの罠を切り抜けた以上に重要なことがあります。「神のものは神にささげよ」という言葉です。これは何を意味しているのでしょうか。
  これを解き明かすために重要なことは、税金として治めるローマの貨幣に皇帝の肖像と文字が刻まれていたことで、これを根拠に、主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃったということです。それならば、神に返すべきものとは、神の肖像が刻まれているものということになります。そして、創世記2章に人間が「神のかたち」に創造されたと記されており、これこそが「神に返すべきもの」であると告げているのです。
  貨幣に刻まれた皇帝の肖像は、貨幣そのものが皇帝の所有物であることを示すと共に、その貨幣が通用するところは皇帝の支配する土地であることの証明にもなりました。それと同じように、神のかたちである私たちは、自分自身を神にささげるべきであり、それと同時に、私たちが生きている場所は神が支配する場所であると証することが、私たちの大切な務めなのです。




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「婚宴の祝いに招かれた人々」 2019年6月23日の礼拝

2019年10月07日 | 2019年度
イザヤ書61章10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしは主によって喜び楽しみ
 わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 主は救いの衣をわたしに着せ
 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
 花婿のように輝きの冠をかぶらせ
 花嫁のように宝石で飾ってくださる。


マタイによる福音書22章1~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


  今日の婚宴のたとえは、ルカ福音書にもありますが、いくつか違いがあります。「婚宴」という言葉ではなく、「宴会」という言葉になっていたり、たとえを語り始めるきっかけが、主イエスと一緒に食事をしている人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことだったということです。しかし、最も大きな違いは、マタイ福音書の結末の部分です。すなわち、無理矢理婚宴に集められた人々のなかで、礼服を着ていない一人の人いて、その人を厳しく咎めているという場面です。
  婚宴に招かれた人々が誰一人来ることがなかったため、婚宴を催した王が町の大通りにいる人々を区別なく婚宴の席に連ならせました。「善人も悪人も皆集めた」とあります。しかし、婚宴を催した王は、そのことに気を留めていません。むしろ、礼服を着ていない人に目を留め、咎めたことがとても不思議です。
  町の大通りにいた人々が急に婚宴の席に連ならされたのですから、誰一人礼服の用意も出来なかったはずです。ところが、それで咎められたのは一人だけというのもおかしな話です。これはたとえ話ですから、全てつじつまが合うように語られているわけではありません。礼服というのも一つの象徴として考えて良いでしょう。
  婚礼の席に連なるということも象徴と考えるならば、神の救いに入れられることと考えて良いと思います。そこ集められた人々は「善人と悪人」がいたとありますが、善人か悪人かは、救いの条件ではないことを示しています。ここでは、どういったことが救いの条件かは記されていません。むしろ、救われた者がそれにどう応えるかが重要なのです。救われた者にふさわしく歩んでいるかが問われているのです。それを象徴するのが、婚礼の礼服ということでしょう。
  ある人は、当時、婚礼に招いた人は招かれた人々のために礼服を用意したと説明しています。このたとえでは、婚礼の礼服をどこで用意するかは記されていませんが、ひょっとする王が礼服を用意するという習慣を前提にしているのかも知れません。
  そうだとすると、神に救われた私たちのために用意されている礼服とは何でしょうか。ガラテヤの信徒へ手紙3章26~27節に、次のような言葉があります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。このキリストこそ、神の救いにあずかった私たちに用意されている礼服です。キリストによって救われたことと、そのことを感謝している事を示す礼服です。


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「神の偉大な御業の証人」 2019年6月9日の礼拝

2019年10月03日 | 2019年度
創世記11章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
  彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
  主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
  「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
  主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


使徒言行録2章1~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
  さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
  すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』


  五旬節の時が来ました。五旬節は過越の祭りから数えて50日目の祭りです。そのため、旧約聖書では七週の祭りと呼ばれ、新約聖書ではギリシア語の五十を意味するペンテコステと呼ばれました。キリスト教会では、この五旬節に聖霊が降り、教会が誕生したことから、「聖霊降臨日」とも呼びます。
  使徒言行録2章1節で「五旬節の時が来た」というのは、単に祭りの時が来たことを意味するだけではなく、「あなたがたの上に聖霊が降ると力を受け、・・・私の証人となる」(使徒言行録1章8節)と、主イエスが言っておられた時が来たと告げているのです。
  主イエスが言われたとおり、使徒たちに聖霊が降りました。その時、彼らはいろいろの国の言葉を語り出しました。その頃、外国から来ていたユダヤ人たちが、使徒たちがそれぞれ自分たちの故郷の言葉で話しているのを聞き、驚きました。いろいろの言語で神の偉大な業を語っていたからです。
  聖霊の力によっていろいろの言語で語っていたことは、創世記11章のバベルの塔の物語を思い起こさせます。とは言え、全く正反対の出来事です。バベルの塔の物語は、最初、全ての人々は一つの言語で話していたというところから始まります。人々が天にまで届きそうな塔を建て始めたので、神が人々の言語を乱し、お互いの言葉を通じないようにしました。そのため、人々は塔を建てることが出来なくなり、全地に散って行きました。
  創世記3章から11章までは、人間の罪の姿とその悲惨さを告げていますが、11章では、その罪とその悲惨とが全世界にまで広がっていったことを告げているのです。12章ではアブラハムの選びが記され、ここから全ての人々を救う神の働きが始まったことを告げています。その救いが主イエス・キリストの十字架と復活によって完成し、その救いを全地に宣べ伝えるようにと使徒たちに使命を与えられたのです。
  しかし、使徒たちがいろいろの国の言語で話をしたという現象は、万能ではなかったことは、使徒たちの言葉を聞いた人々の中には「あの人たちはぶどう酒に酔っている」(使徒言行録2:13)とあざけった人々がいたことが示しているとおりです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と使徒パウロも告げています。語る者も聞く者も聖霊によってこそ、神の御言葉を語るようにされ、聞くことが出来るようにされているのです。
  いろいろの言語で話をするという現象はその時限りで、永続しませんでした。その現象は聖霊の働きを象徴するものでしたが、主キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝えることは続けられていきます。これこそ、聖霊の働きで重要なことでした。
  聖霊によって語った使徒たちの言葉が、「神の偉大な業」と言われているのはそのことです。その出来事に続いてペトロの説教が、使徒言行録2章14節以下に記されていますが、その内容は、主イエスの出来事とそれによる神の救いです。使徒言行録には、いくつかの使徒たちの説教が記されていますが、いずれも2章のペトロの説教に近い内容になっています。
  主イエスがおっしゃった「地の果てに至るまで、私の証人となる」が、使徒たちと教会に与えられた使命です。教会の誕生を記念するペンテコステの時は、神から与えられた大切の使命を思い起こす時なのです。

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