申命記6章4~9節(日本聖書協会「新共同訳」)
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
マタイによる福音書22章34~40節(日本聖書協会「新共同訳」)
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスに投げかけられた律法の専門家からの問いは、「律法の中で最も重要な掟は何か」というものでした。旧約聖書にある掟や戒めは600以上あります。その上、口伝えで伝えられている無数の戒めや教えがありました。
律法の専門家が問う「最も重要な掟」というのは、全ての戒めをまとめるようなという意味です。この問題に関して、ユダヤ人たちはいろいろの意見をあったようです。おそらく、律法の専門家の間でも長年議論が重ねられており、決着がついていませんでした。
この問いに対して主イエスは、申命記6章4~5節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を示されました。これは「イスラエルよ、聞け」という言葉から始まっており、その最初の言葉「聞け(ヘブライ語でシェマー)」から、シェマーと呼ばれ、礼拝の時にはこの言葉が必ず唱えられ、日常生活でも家の入り口、部屋の入り口にこの言葉が入った入れ物(メズザー)がかけられ、家や部屋にはいる時、それに触れ、その戒めを思い起こすことになっていました。また祈りの時にも、その聖句が入った小さな箱を額と腕に付けなければなりませんでした。このように、シェマーと呼ばれる戒めは、彼らにとって最も身近であり、重要なものでした。主イエスがこの言葉を最も重要としたことに、律法の専門家も異を唱えることが出来ませんでした。
主イエスは言葉を続け「第二もこれと同じように重要である」と言って、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」を引用され、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃったのです。
まず第一に重要なことは、申命記とレビ記の言葉は聖書全体をまとめる重要な言葉ということです。第二に、しかし、これの言葉には第一と第二という順番が付けられているということです。この順番は逆になることはありませんし、隣人を愛することによって、神を愛したことにはならないということです。そして、この順番は、十戒の順番にも見られます。
「隣人を愛する」という言葉には美しい響きがあります。そして、新約聖書の中にも何度も引用されています。しかし、隣人を愛するということの難しさもあります。ルカによる福音書には、この言葉を聞いた律法の専門家が「私の隣人とは誰か」と問い返したと記されています。その時主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話されています。このたとえは、いつもは仲の悪いサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたという話です。このサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたことによって、隣人となったと教えられたのです。これはレビ記の教えの重要な意味を明らかにしています。というのも、「隣人を愛しなさい」の言葉の前に、「兄弟を憎むな。復讐するな。恨むな」に続いて「愛しなさい」と教えられているのです。
神を愛することは、神に愛されていることを確信することによって初めて可能となります。神に愛されている人は、神が自分を愛しておられるように、周囲の人々をも愛しておられることに気づかされます。そして、あなたも神と共にそれらの人々を愛しなさいというのが、「隣人を愛しなさい」という意味なのです。
主イエスは、そのことを律法の専門家に対してだけでなく、私たちにも教えておられます。律法の専門家は、悪意を抱いて近づきましたが、その彼に真摯に向き合って、主イエスは神の御心を明らかにされました。今、私たちにも真剣な眼差しを向け、神に愛されている者にふさわしく生きよと諭しておられるのです。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
マタイによる福音書22章34~40節(日本聖書協会「新共同訳」)
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
主イエスに投げかけられた律法の専門家からの問いは、「律法の中で最も重要な掟は何か」というものでした。旧約聖書にある掟や戒めは600以上あります。その上、口伝えで伝えられている無数の戒めや教えがありました。
律法の専門家が問う「最も重要な掟」というのは、全ての戒めをまとめるようなという意味です。この問題に関して、ユダヤ人たちはいろいろの意見をあったようです。おそらく、律法の専門家の間でも長年議論が重ねられており、決着がついていませんでした。
この問いに対して主イエスは、申命記6章4~5節の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を示されました。これは「イスラエルよ、聞け」という言葉から始まっており、その最初の言葉「聞け(ヘブライ語でシェマー)」から、シェマーと呼ばれ、礼拝の時にはこの言葉が必ず唱えられ、日常生活でも家の入り口、部屋の入り口にこの言葉が入った入れ物(メズザー)がかけられ、家や部屋にはいる時、それに触れ、その戒めを思い起こすことになっていました。また祈りの時にも、その聖句が入った小さな箱を額と腕に付けなければなりませんでした。このように、シェマーと呼ばれる戒めは、彼らにとって最も身近であり、重要なものでした。主イエスがこの言葉を最も重要としたことに、律法の専門家も異を唱えることが出来ませんでした。
主イエスは言葉を続け「第二もこれと同じように重要である」と言って、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」を引用され、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」とおっしゃったのです。
まず第一に重要なことは、申命記とレビ記の言葉は聖書全体をまとめる重要な言葉ということです。第二に、しかし、これの言葉には第一と第二という順番が付けられているということです。この順番は逆になることはありませんし、隣人を愛することによって、神を愛したことにはならないということです。そして、この順番は、十戒の順番にも見られます。
「隣人を愛する」という言葉には美しい響きがあります。そして、新約聖書の中にも何度も引用されています。しかし、隣人を愛するということの難しさもあります。ルカによる福音書には、この言葉を聞いた律法の専門家が「私の隣人とは誰か」と問い返したと記されています。その時主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話されています。このたとえは、いつもは仲の悪いサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたという話です。このサマリア人が怪我をしたユダヤ人を助けたことによって、隣人となったと教えられたのです。これはレビ記の教えの重要な意味を明らかにしています。というのも、「隣人を愛しなさい」の言葉の前に、「兄弟を憎むな。復讐するな。恨むな」に続いて「愛しなさい」と教えられているのです。
神を愛することは、神に愛されていることを確信することによって初めて可能となります。神に愛されている人は、神が自分を愛しておられるように、周囲の人々をも愛しておられることに気づかされます。そして、あなたも神と共にそれらの人々を愛しなさいというのが、「隣人を愛しなさい」という意味なのです。
主イエスは、そのことを律法の専門家に対してだけでなく、私たちにも教えておられます。律法の専門家は、悪意を抱いて近づきましたが、その彼に真摯に向き合って、主イエスは神の御心を明らかにされました。今、私たちにも真剣な眼差しを向け、神に愛されている者にふさわしく生きよと諭しておられるのです。