八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「互いに相手を受け入れなさい」 2023年8月27日の礼拝

2023年09月25日 | 2023年度
出エジプト記23章10~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
  あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
  わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。

ローマの信徒への手紙14章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。


  ローマ書14章は、教会の中の人間関係が扱われています。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言われており、その「信仰が弱い人」というのは2節の「弱い人は野菜だけを食べている」人を指していることがわかります。ではなぜ野菜だけを食べている人が弱い人と言われているのでしょうか。実は、これは肉を食べてよいかどうかが問題になっているのです。その事情は、第一コリント書8章と14章に記されています。当時、市場で売られている肉の中には、偶像に供えられてから市場に卸されている肉があったため、今食べている肉が偶像に供えられていた肉かもしれないという心配があったのです。すなわち、知らないうちに偶像に供えられた肉を食べ、偶像崇拝したかもしれないと不安になる人もいました。そして、偶像に供えられた肉を食べないために、一切の肉を食べず野菜だけを食べるという人が出てきたのです。
  パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)と語り、それ故、仮に偶像に供えられた肉を食べたとしても、それで私たちが汚されるわけではない。その肉を食べることで汚されると思い込むのは良心が弱いからだというのです。
  しかし、そのように語ったパウロは、肉を食べる人を貶そうとしているのではありません。肉を食べることで汚されることはないが、肉を食べる人の姿を見て弱い良心を持っている兄弟が躓くことがないようにしなさい、と警告するのです。そして、「すべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。・・・自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(Ⅰコリント10:23~24)と話し、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」(Ⅰコリント8:13)とまで言うのです。
  大切なことは、自分の信仰の強さを誇ることではありません。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現すためにする」(Ⅰコリント)ということです。そのことは、ローマ書でも「食べる人は主のために食べる。・・・食べない人も、主のために食べない」(14:6)と言われています。
  「信仰の弱い人を受け入れなさい」というのは、単に人間関係を良くするためということではなく、神がその人を受け入れているから、ということです。その人を受け入れることは、神が喜ばれることです。神の喜ぶことを第一に考えて生きることです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14:8)と言われているのも、そういう意味です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)。それが神の喜ばれることです、とパウロは勧めています。
  「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Ⅱコリント5:9)と言うパウロの言葉は、私たちみんなが心に願っていることです。教会において、共にキリストに救われた者として互いに受け入れる信仰生活を送りたいものです。

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「御言葉を行いなさい」 2023年8月20日の礼拝

2023年09月11日 | 2023年度
アモス書5章21~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
 祭りの献げ物の香りも喜ばない。
 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
 穀物の献げ物をささげても
 わたしは受け入れず
 肥えた動物の献げ物も顧みない。
 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
 竪琴の音もわたしは聞かない。
 正義を洪水のように
 恵みの業を大河のように
 尽きることなく流れさせよ。
 イスラエルの家よ
 かつて四十年の間、荒れ野にいたとき
 お前たちはわたしに
 いけにえや献げ物をささげただろうか。
 今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や
 神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。
 それはお前たちが勝手に造ったものだ。
 わたしは、お前たちを捕囚として
 ダマスコのかなたの地に連れ去らせると
 主は言われる。
 その御名は万軍の神。


ヤコブの手紙1章19~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
  御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
  自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



  ヤコブの手紙は、宗教改革者のマルチン・ルターが「藁(わら)の書簡」、すなわち「役に立たない手紙」と評価したことで有名です。
  当時ローマ・カトリック教会が善い行いによって救われるという「行為義認」を主張していたのに対し、ルターは、「信仰義認」、すなわち、人は信仰によって救われると主張しました。これはパウロが書いたローマ書やガラテヤ書に基づいています。そのため、パウロの手紙は有益だが、ヤコブ書はそれに反しており、無益だと主張したのです。
  厄介なのは、パウロの信仰義認(ガラテヤ3:6、ローマ4:3)は、創世記の「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた」(15:6)を根拠としているのですが、同じ言葉をヤコブ書も引用し、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:23~24)と主張していることです。同じ言葉を根拠に、一方は信仰義認、他方は行為義認を主張しているのです。
  パウロの信仰義認の主張は、十字架と復活のキリストによって私たちは救われ、それを信じるということです。ただ、彼は善い行いをしなくてもよいと言っているのではありません。救われた私たちは、その救いを感謝して善い行いをするべきだと主張したのです。
  そのパウロの主張は長い年月が経つうちに、ゆがめられていきました。すなわち、「心で信じるだけでよい、善い行いをする必要はない」と主張する人々が現れたのです。そこでゆがめられたパウロの主張を正そうとして、ヤコブ書は信仰にふさわしく、善い行いをせよと主張したのです。
  ヤコブ書は、信仰によっては救われないと主張しているのではなく、信仰には行いが伴うべきだと主張しているのです。「『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」(2:18~20)も、信仰は必要ないかのような誤解を持たれることの多い言葉ですが、ただ単純に、信仰には行いが伴うべきだと主張しているだけなのです。
  ローマ・カトリック教会は、「善い行いをしなければ救われない、それができない人は煉獄(れんごく)で長く苦しい魂の清めの期間を過ごす」と教えました。その煉獄の期間を短くするために、贖宥状を買い求めよとも主張しました。もちろん、聖書にはそんなことは書かれていません。だから、ルターは真っ向から反対し、ただキリストによって救われると主張したのです。
  ルターに続く他の宗教改革者たちも、同じように主張しました。私たちはキリストによって既に救われているから、善い行いをしなければ救われないということはないと主張しました。ただし、善い行いは救われるための条件ではなくなったが、救われた感謝として善い行いをすべきだと主張したのです。
  善い行いとは、神の御心に応える生き方です。「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけない」(ヤコブ1:22)は、救われたことを感謝して、神に喜ばれる生活をしなさいと教えているのです。


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「神の独り子を待ち望む」 2023年8月13日の礼拝

2023年09月04日 | 2023年度
エゼキエル書12章21~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  また、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの土地について伝えられている、『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、お前たちにとって一体何か。それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と。かえって彼らにこう語りなさい。『その日は近く、幻はすべて実現する。』もはや、イスラエルの家には、むなしい幻はひとつもない。気休めの占いもない。なぜなら、主なるわたしが告げる言葉を告げるからであり、それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する、と主なる神は言われる。」
  主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家は言っているではないか。『彼の見た幻ははるか先の時についてであり、その預言は遠い将来についてである』と。それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される、と主なる神は言われる。」


テサロニケの信徒への手紙 一 1章2~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


  テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中で最も早くに書かれた文書です。テサロニケは、ローマ帝国時代のマケドニア州の首都で政治的経済的に繫栄した町です。使徒言行録17章にパウロがテサロニケで伝道していた様子が記されています。最初順調だった伝道は、それを妬んだユダヤ人たちの妨害により、騒動に発展し、結局パウロたちは町から出ていかざるを得ませんでした。町を出たパウロはテサロニケの教会を心配し、彼らを励ますため書き送ったのがこの手紙でした。
  挨拶の言葉の後、テサロニケの教会の人々に対し感謝が述べられ、彼らの信仰は神の選びと神の力によるものだと、彼らを励まします。そして、テサロニケの教会の人々の信仰は、マケドニア州ばかりでなく、その南に位置するアカイア州にまで伝えられるようになったと言います。
  1章9~10節で、テサロニケの教会の人々の信仰について、パウロはまず「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」と言っています。ギリシアとローマの宗教から離れて、キリスト教を信じるようになったということです。この時代、ユダヤ教とキリスト教がはっきり分かれてはいませんでしたが、この場合、キリスト教を信じるようになったという意味です。
  10節の「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」が、テサロニケの教会の人々の信仰の第二の内容として示されています。いわゆる「キリストの再臨」です。
  再臨については、主イエスも弟子たちに「その時がいつやって来ても良いように『目を覚ましていなさい』」(マルコ13:35)と教えていましたし、「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25:1~13)を語り、そのための用意をしておきなさいとも教えていました。
  使徒たちの時代には、礼拝の中で「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリント16:22)と唱えていたと言われます。その時代、それほど、キリストの再臨はすぐ来ると思っていたということです。
  今の時代、かつてほど再臨の時がすぐに来るとは思っていないようです。しかし、キリストの再臨を信じる信仰がなくなったわけではありません。いつの時代であってもキリストの再臨を信じる信仰は重要です。
  宗教改革(16世紀)の頃に書かれたハイデルベルク信仰問答は、キリストの再臨を信じる信仰について、「あらゆる患難や迫害の中にあっても、神を仰ぎ、私たちを裁くキリストを待ち望むことができる。私たちに対する裁きはキリストがすでに十字架にかかり、神の怒りをすべて引き受けてくださり、私たちを罪とその呪い、重荷を解き放ってくださった。神は私たちをキリストの故に、またキリストに結ばれたものになっている私たちを神の国へと、その栄光と喜びへと導き入れてくださる」と教え、地上での信仰生活において、私たちを慰め、勇気を与える信仰だと、再臨の信仰の大切さを教えています。
  パウロがキリストの再臨について語る時、「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りから私たちを救って下さるイエスです」と告げるのもこの理由からです。この救い主は、私たちが地上にある時、神をますます信頼するように訓練し、その訓練の終了の時、神の国へと導いてくださるのです。


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