出エジプト記23章10~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。
ローマの信徒への手紙14章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
ローマ書14章は、教会の中の人間関係が扱われています。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言われており、その「信仰が弱い人」というのは2節の「弱い人は野菜だけを食べている」人を指していることがわかります。ではなぜ野菜だけを食べている人が弱い人と言われているのでしょうか。実は、これは肉を食べてよいかどうかが問題になっているのです。その事情は、第一コリント書8章と14章に記されています。当時、市場で売られている肉の中には、偶像に供えられてから市場に卸されている肉があったため、今食べている肉が偶像に供えられていた肉かもしれないという心配があったのです。すなわち、知らないうちに偶像に供えられた肉を食べ、偶像崇拝したかもしれないと不安になる人もいました。そして、偶像に供えられた肉を食べないために、一切の肉を食べず野菜だけを食べるという人が出てきたのです。
パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)と語り、それ故、仮に偶像に供えられた肉を食べたとしても、それで私たちが汚されるわけではない。その肉を食べることで汚されると思い込むのは良心が弱いからだというのです。
しかし、そのように語ったパウロは、肉を食べる人を貶そうとしているのではありません。肉を食べることで汚されることはないが、肉を食べる人の姿を見て弱い良心を持っている兄弟が躓くことがないようにしなさい、と警告するのです。そして、「すべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。・・・自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(Ⅰコリント10:23~24)と話し、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」(Ⅰコリント8:13)とまで言うのです。
大切なことは、自分の信仰の強さを誇ることではありません。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現すためにする」(Ⅰコリント)ということです。そのことは、ローマ書でも「食べる人は主のために食べる。・・・食べない人も、主のために食べない」(14:6)と言われています。
「信仰の弱い人を受け入れなさい」というのは、単に人間関係を良くするためということではなく、神がその人を受け入れているから、ということです。その人を受け入れることは、神が喜ばれることです。神の喜ぶことを第一に考えて生きることです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14:8)と言われているのも、そういう意味です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)。それが神の喜ばれることです、とパウロは勧めています。
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Ⅱコリント5:9)と言うパウロの言葉は、私たちみんなが心に願っていることです。教会において、共にキリストに救われた者として互いに受け入れる信仰生活を送りたいものです。
あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。
ローマの信徒への手紙14章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
ローマ書14章は、教会の中の人間関係が扱われています。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と言われており、その「信仰が弱い人」というのは2節の「弱い人は野菜だけを食べている」人を指していることがわかります。ではなぜ野菜だけを食べている人が弱い人と言われているのでしょうか。実は、これは肉を食べてよいかどうかが問題になっているのです。その事情は、第一コリント書8章と14章に記されています。当時、市場で売られている肉の中には、偶像に供えられてから市場に卸されている肉があったため、今食べている肉が偶像に供えられていた肉かもしれないという心配があったのです。すなわち、知らないうちに偶像に供えられた肉を食べ、偶像崇拝したかもしれないと不安になる人もいました。そして、偶像に供えられた肉を食べないために、一切の肉を食べず野菜だけを食べるという人が出てきたのです。
パウロは、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)と語り、それ故、仮に偶像に供えられた肉を食べたとしても、それで私たちが汚されるわけではない。その肉を食べることで汚されると思い込むのは良心が弱いからだというのです。
しかし、そのように語ったパウロは、肉を食べる人を貶そうとしているのではありません。肉を食べることで汚されることはないが、肉を食べる人の姿を見て弱い良心を持っている兄弟が躓くことがないようにしなさい、と警告するのです。そして、「すべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない。・・・自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(Ⅰコリント10:23~24)と話し、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない」(Ⅰコリント8:13)とまで言うのです。
大切なことは、自分の信仰の強さを誇ることではありません。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、神の栄光を現すためにする」(Ⅰコリント)ということです。そのことは、ローマ書でも「食べる人は主のために食べる。・・・食べない人も、主のために食べない」(14:6)と言われています。
「信仰の弱い人を受け入れなさい」というのは、単に人間関係を良くするためということではなく、神がその人を受け入れているから、ということです。その人を受け入れることは、神が喜ばれることです。神の喜ぶことを第一に考えて生きることです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(ローマ14:8)と言われているのも、そういう意味です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)。それが神の喜ばれることです、とパウロは勧めています。
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Ⅱコリント5:9)と言うパウロの言葉は、私たちみんなが心に願っていることです。教会において、共にキリストに救われた者として互いに受け入れる信仰生活を送りたいものです。