八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「キリストへの信仰」 2024年2月25日の礼拝

2024年03月21日 | 2023年度
列王記下6章8~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった。アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで、「我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げなさい」と言った。家臣の一人が答えた。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」アラムの王は言った。「行って、彼がどこにいるのか、見て来るのだ。わたしは彼を捕らえに人を送る。」こうして王に、「彼はドタンにいる」という知らせがもたらされた。王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した。
  神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。


ヨハネによる福音書9章35~41節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
  イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」



  ヨハネ福音書9章は、生まれつき目の見えない人が主イエスによって見えるようになったという奇跡から始まります。この福音書に記されている主イエスの第六のしるしです。しかし、今日の35~41節は、その奇跡そのものが扱われているのではなく、その後日談ということになります。
  その奇跡が行われたのが安息日であったということで、目を癒された人がファリサイ派の人々の所へ連れていかれ、癒したのは誰かと質問されました。目が見えるようになったこの人のことを喜ぶ人は誰一人いません。奇跡が本当に起こったのか、そもそも本当に生まれつき目が見えなかったのかと疑い、ついに、癒された人に癒したのはいったい誰かと詰問したのです。しかし、ファリサイ派の人々が満足するように答えることができなかったので、その人は外に追い出されました。そこへ、主イエスが現れ、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねたのです。
  目を癒された人は「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と尋ねます。自分を癒してくれた人を知りたいと思ったからです。これは、私たちにとっても「私たちが信ずべき救い主は誰か」という意味で、重要な問いです。
  主イエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と答え、癒された人は「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。ひざまずいたというのは、礼拝の所作を表現する言葉です。そしてそれと共に「主よ、信じます」と答えたことは信仰告白をしたと言うことです。
  この時、主イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言いました。この言葉を理解するために、3章16~18節にある主イエスの言葉は重要です。そこには、「神は世を愛された」、「独り子を信じる者が永遠の命を得るためである」、「御子を信じる者は裁かれず、信じない者は既に裁かれている」とあります。こうしてみると、主イエスは見えない者を見えるようにし、見えると思っている人はその人自身の罪によって見えていないことを悟らせるという意味であることが分かります。そのことは、9章41節で「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」という主イエスの言葉で明らかです。
  見えていないことに気づかない、それでも見えていると言い張る、そして救い主であるイエス・キリストを受け入れようとしない、ここに、罪の恐ろしさがあるのです。
  生まれつき目が見えなかった人が見えるようになったことは、私たちの救いを象徴しています。私たちは生まれつき罪に染まっており、自分ではその罪から逃れることはできませんでした。救いを求めていた私たちが救い主を捜すより先に、救い主が私たちを捜し出してくださいました。私たちを罪から救い、救い主を信じたいと願う私たちに、ご自身を示し、「主よ、信じます」と告白させてくださったのです。主イエスがこの世に来てくださったのは、見えない者が見えるようになり、罪ある者が罪赦されるためだったのです。「神の業がこの人に現れるために」(9:3)とあるように、神の業が私たちに現れたのです。

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