イザヤ書60章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。
らくだの大群
ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
ケダルの羊の群れはすべて集められ
ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ
わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。
わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。
マタイによる福音書5章14~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイ福音書5章13節の「あなたがたは地の塩である」と同じく、今日の聖句でも「あなたがた」という言葉が強調されています。すなわち、他ならぬ「あなたがたこそが」世の光である、と言われているのです。
山上の説教は、主イエスに従ってきた群衆や弟子たちに語られました。彼らに語られた主の教えは、マタイ福音書を読むキリスト者たちにも語られていると、この福音書を記したマタイ言いたいのです。それ故、山上の説教の中で主イエスが呼ぶ「あなたがた」は、過去の人々にだけでなく、この福音書を読む私たちにも向けられているのです。
11節で「キリストの故に迫害されたあなたがたは幸いである」と言われ、そのあなたこそがこの地上において塩のように独特の特質を与えられた者であり、その特質は失われてはならないものであると告げられてきました。そして、今日の14節ではそのあなたがたこそは世の人々を照らす「光である」と言われているのです。これは、キリスト者の地上における働きを告げていると言って良いでしょう。
「世の光」という表現は、ヨハネによる福音書8章12節にも出てきます。しかし、それはキリスト者のことではなく、主イエスがご自身を指して、そのように言っておられるのです。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ここでも「わたし」という言葉が強調されており、「わたしこそが世の光である」という意味です。
ヨハネ福音書は、キリストこそが真の光であるという象徴的な表現をくり返していますが、主イエス・キリストが私たちキリスト者を「世の光」と呼ぶのも象徴的な表現です。
私たちが世の光であることを考える時、まず「キリストこそ真の光である」ということをしっかり心に留めておくことが大切です。
なぜ、私たちは「世の光」と言われるのでしょうか。
私たちには、キリストのような力があるわけではありませんし、キリストのように清いわけでもありません。むしろ、罪の汚れに染まっています。キリスト者となった今も、度々罪を犯し、神を失望させることの多いものであります。
私たちは、自分で「世の光」とは言えませんし、私たちが世の光としての性質を持っているというわけでもありません。それにもかかわらず、主イエスは我々に対して「あなたがたこそは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。
なぜ、主イエスは、私たちに対して「世の光」とおっしゃるのでしょうか。
それは、真の光である主イエスが、私たちを照らしてくださるからこそ、私たちは光を放つことができるということなのです。
夜空に輝く月は、月自身が光っているのではないことは、誰もが承知していることです。その表面は、クレーターが無数にあり、ごつごつとしています。しかし、それにもかかわらず、月は闇夜に輝いています。月は自分で光る力を持っていませんが、太陽からの光を受けて、その光を反射させて地上を照らしているのです。
私たちも、自分で輝くことはできません。それどころか欠点や弱点を多く持っています。しかし、キリストという真の光に照らし出されたとき、その光を反射させるようにして、この世に光をもたらすのです。このような意味において、主イエスは私たちに「あなたがたは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。それ故に、私たちの放つ光はキリストであって、それ以外の何かではありません。
15~16節。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。
部屋の明かりを足下に置くと、部屋全体が暗く感じますが、高いところにおくと、部屋全体が明るく感じられるというごく当たり前のことですが、これは、キリスト者に与えられている働き、使命が譬えで示されているのです。あなたが受けた光を多くの人々の前に輝かしなさいと命じられているのです。神の恵みを受けた者は、その恵みを独り占めにするのではなく、多くの人々に分け与えなさい。それがあなたがたキリスト者の務めであると言われているのです。
16節の「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」というのは、その事を示しています。
ここで注意しておきたいことは、マタイ福音書6章1~4節に、これとは正反対と思われる言葉が出てくることです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
この施しに続いて、祈りと断食についても同じように警告されています。そこでは「人に見てもらおうとして・・・」という言葉が繰り返されています。その意味は、6章2節の「人からほめられようとして」ということです。すなわち、この6章の言葉は人からほめられることを目的に行動することを戒めているのです。それに対して、5章16節は、人々が私たちを誉め称えるためではなくて、私たちを通して、まことに神こそが恵みの神であることを知るようになる。そして、その恵みの神を誉め称えるようになることを何よりの願いとして行動する。それが「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」ということなのです。
先ほど、神を太陽に、私たちを月にたとえました。もし、私たちが神を差し置いて自分自身の働きを強調するなら、それは日食のように、神が放つ光を私たちが遮ってしまうことになります。日食という天体ショーはすばらしいかも知れませんが、私たちの神の恵みを遮る行為は、神の御心ではなく、神が喜ばれることでもありません。
私たちが自分の働きを誇るなら、まさにそれは神の恵みを遮ることになると心得ておくべきでしょう。
使徒パウロは、コリントの教会で起きた問題を解決しようと「コリントの信徒への手紙 一」をしたためました。コリントの教会は今にも分裂しそうな状況にあり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロのこと)に」「わたしはキリストに」などと言い合っていたのです。
これに対しパウロは、「私はあなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。あなたがたは私の名によって洗礼を受けたとでも言うのか」言い、自分がキリストと並ぶ者ではないと告げます。さらに、パウロもアポロもペトロも神に仕える同労者にすぎないこと、真の救いはキリストによるのであり、パウロたちはその救いを伝える者でしかないと強調するのです。
そもそもコリントの教会の人々は何を誇りとすべきかを間違っていると、彼は指摘します。そして、神のみを誇りとすべきであり、それ以外の何ものをも誇りとしてはならないと警告するのです。
「コリントの信徒への手紙 二」では自分自身を例にあげ、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分を誇るのではなく、私たちを救ってくださった神を誇るのです。神の恵みによって生かされていることを喜び、その喜びを伝えるのです。「私を救い、恵みを与えてくださった神は、あなたをも救い、恵みを与えてくださっています」と伝えるのです。
人からではなく、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Ⅱコリント5:9)
これはキリストを誇りとする者、すなわち私たちキリスト者が共通に持つ心からの願いです。
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。
海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。
らくだの大群
ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。
シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
ケダルの羊の群れはすべて集められ
ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ
わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。
わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。
マタイによる福音書5章14~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイ福音書5章13節の「あなたがたは地の塩である」と同じく、今日の聖句でも「あなたがた」という言葉が強調されています。すなわち、他ならぬ「あなたがたこそが」世の光である、と言われているのです。
山上の説教は、主イエスに従ってきた群衆や弟子たちに語られました。彼らに語られた主の教えは、マタイ福音書を読むキリスト者たちにも語られていると、この福音書を記したマタイ言いたいのです。それ故、山上の説教の中で主イエスが呼ぶ「あなたがた」は、過去の人々にだけでなく、この福音書を読む私たちにも向けられているのです。
11節で「キリストの故に迫害されたあなたがたは幸いである」と言われ、そのあなたこそがこの地上において塩のように独特の特質を与えられた者であり、その特質は失われてはならないものであると告げられてきました。そして、今日の14節ではそのあなたがたこそは世の人々を照らす「光である」と言われているのです。これは、キリスト者の地上における働きを告げていると言って良いでしょう。
「世の光」という表現は、ヨハネによる福音書8章12節にも出てきます。しかし、それはキリスト者のことではなく、主イエスがご自身を指して、そのように言っておられるのです。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ここでも「わたし」という言葉が強調されており、「わたしこそが世の光である」という意味です。
ヨハネ福音書は、キリストこそが真の光であるという象徴的な表現をくり返していますが、主イエス・キリストが私たちキリスト者を「世の光」と呼ぶのも象徴的な表現です。
私たちが世の光であることを考える時、まず「キリストこそ真の光である」ということをしっかり心に留めておくことが大切です。
なぜ、私たちは「世の光」と言われるのでしょうか。
私たちには、キリストのような力があるわけではありませんし、キリストのように清いわけでもありません。むしろ、罪の汚れに染まっています。キリスト者となった今も、度々罪を犯し、神を失望させることの多いものであります。
私たちは、自分で「世の光」とは言えませんし、私たちが世の光としての性質を持っているというわけでもありません。それにもかかわらず、主イエスは我々に対して「あなたがたこそは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。
なぜ、主イエスは、私たちに対して「世の光」とおっしゃるのでしょうか。
それは、真の光である主イエスが、私たちを照らしてくださるからこそ、私たちは光を放つことができるということなのです。
夜空に輝く月は、月自身が光っているのではないことは、誰もが承知していることです。その表面は、クレーターが無数にあり、ごつごつとしています。しかし、それにもかかわらず、月は闇夜に輝いています。月は自分で光る力を持っていませんが、太陽からの光を受けて、その光を反射させて地上を照らしているのです。
私たちも、自分で輝くことはできません。それどころか欠点や弱点を多く持っています。しかし、キリストという真の光に照らし出されたとき、その光を反射させるようにして、この世に光をもたらすのです。このような意味において、主イエスは私たちに「あなたがたは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。それ故に、私たちの放つ光はキリストであって、それ以外の何かではありません。
15~16節。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。
部屋の明かりを足下に置くと、部屋全体が暗く感じますが、高いところにおくと、部屋全体が明るく感じられるというごく当たり前のことですが、これは、キリスト者に与えられている働き、使命が譬えで示されているのです。あなたが受けた光を多くの人々の前に輝かしなさいと命じられているのです。神の恵みを受けた者は、その恵みを独り占めにするのではなく、多くの人々に分け与えなさい。それがあなたがたキリスト者の務めであると言われているのです。
16節の「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」というのは、その事を示しています。
ここで注意しておきたいことは、マタイ福音書6章1~4節に、これとは正反対と思われる言葉が出てくることです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
この施しに続いて、祈りと断食についても同じように警告されています。そこでは「人に見てもらおうとして・・・」という言葉が繰り返されています。その意味は、6章2節の「人からほめられようとして」ということです。すなわち、この6章の言葉は人からほめられることを目的に行動することを戒めているのです。それに対して、5章16節は、人々が私たちを誉め称えるためではなくて、私たちを通して、まことに神こそが恵みの神であることを知るようになる。そして、その恵みの神を誉め称えるようになることを何よりの願いとして行動する。それが「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」ということなのです。
先ほど、神を太陽に、私たちを月にたとえました。もし、私たちが神を差し置いて自分自身の働きを強調するなら、それは日食のように、神が放つ光を私たちが遮ってしまうことになります。日食という天体ショーはすばらしいかも知れませんが、私たちの神の恵みを遮る行為は、神の御心ではなく、神が喜ばれることでもありません。
私たちが自分の働きを誇るなら、まさにそれは神の恵みを遮ることになると心得ておくべきでしょう。
使徒パウロは、コリントの教会で起きた問題を解決しようと「コリントの信徒への手紙 一」をしたためました。コリントの教会は今にも分裂しそうな状況にあり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロのこと)に」「わたしはキリストに」などと言い合っていたのです。
これに対しパウロは、「私はあなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。あなたがたは私の名によって洗礼を受けたとでも言うのか」言い、自分がキリストと並ぶ者ではないと告げます。さらに、パウロもアポロもペトロも神に仕える同労者にすぎないこと、真の救いはキリストによるのであり、パウロたちはその救いを伝える者でしかないと強調するのです。
そもそもコリントの教会の人々は何を誇りとすべきかを間違っていると、彼は指摘します。そして、神のみを誇りとすべきであり、それ以外の何ものをも誇りとしてはならないと警告するのです。
「コリントの信徒への手紙 二」では自分自身を例にあげ、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分を誇るのではなく、私たちを救ってくださった神を誇るのです。神の恵みによって生かされていることを喜び、その喜びを伝えるのです。「私を救い、恵みを与えてくださった神は、あなたをも救い、恵みを与えてくださっています」と伝えるのです。
人からではなく、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Ⅱコリント5:9)
これはキリストを誇りとする者、すなわち私たちキリスト者が共通に持つ心からの願いです。