八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「あなたがたは世の光」 2014年10月5日の礼拝

2014年10月31日 | 2014年度
イザヤ書60章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 起きよ、光を放て。
 あなたを照らす光は昇り
 主の栄光はあなたの上に輝く。
 見よ、闇は地を覆い
 暗黒が国々を包んでいる。
 しかし、あなたの上には主が輝き出で
 主の栄光があなたの上に現れる。
 国々はあなたを照らす光に向かい
 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
 目を上げて、見渡すがよい。
 みな集い、あなたのもとに来る。
 息子たちは遠くから
 娘たちは抱かれて、進んで来る。
 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
 おののきつつも心は晴れやかになる。
 海からの宝があなたに送られ
 国々の富はあなたのもとに集まる。
 らくだの大群
 ミディアンとエファの若いらくだが
 あなたのもとに押し寄せる。
 シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
 こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
 ケダルの羊の群れはすべて集められ
 ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ
 わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。
 わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。


マタイによる福音書5章14~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

  マタイ福音書5章13節の「あなたがたは地の塩である」と同じく、今日の聖句でも「あなたがた」という言葉が強調されています。すなわち、他ならぬ「あなたがたこそが」世の光である、と言われているのです。
  山上の説教は、主イエスに従ってきた群衆や弟子たちに語られました。彼らに語られた主の教えは、マタイ福音書を読むキリスト者たちにも語られていると、この福音書を記したマタイ言いたいのです。それ故、山上の説教の中で主イエスが呼ぶ「あなたがた」は、過去の人々にだけでなく、この福音書を読む私たちにも向けられているのです。
  11節で「キリストの故に迫害されたあなたがたは幸いである」と言われ、そのあなたこそがこの地上において塩のように独特の特質を与えられた者であり、その特質は失われてはならないものであると告げられてきました。そして、今日の14節ではそのあなたがたこそは世の人々を照らす「光である」と言われているのです。これは、キリスト者の地上における働きを告げていると言って良いでしょう。
  「世の光」という表現は、ヨハネによる福音書8章12節にも出てきます。しかし、それはキリスト者のことではなく、主イエスがご自身を指して、そのように言っておられるのです。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
  ここでも「わたし」という言葉が強調されており、「わたしこそが世の光である」という意味です。
  ヨハネ福音書は、キリストこそが真の光であるという象徴的な表現をくり返していますが、主イエス・キリストが私たちキリスト者を「世の光」と呼ぶのも象徴的な表現です。
  私たちが世の光であることを考える時、まず「キリストこそ真の光である」ということをしっかり心に留めておくことが大切です。
  なぜ、私たちは「世の光」と言われるのでしょうか。
  私たちには、キリストのような力があるわけではありませんし、キリストのように清いわけでもありません。むしろ、罪の汚れに染まっています。キリスト者となった今も、度々罪を犯し、神を失望させることの多いものであります。
  私たちは、自分で「世の光」とは言えませんし、私たちが世の光としての性質を持っているというわけでもありません。それにもかかわらず、主イエスは我々に対して「あなたがたこそは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。
  なぜ、主イエスは、私たちに対して「世の光」とおっしゃるのでしょうか。
  それは、真の光である主イエスが、私たちを照らしてくださるからこそ、私たちは光を放つことができるということなのです。
  夜空に輝く月は、月自身が光っているのではないことは、誰もが承知していることです。その表面は、クレーターが無数にあり、ごつごつとしています。しかし、それにもかかわらず、月は闇夜に輝いています。月は自分で光る力を持っていませんが、太陽からの光を受けて、その光を反射させて地上を照らしているのです。
  私たちも、自分で輝くことはできません。それどころか欠点や弱点を多く持っています。しかし、キリストという真の光に照らし出されたとき、その光を反射させるようにして、この世に光をもたらすのです。このような意味において、主イエスは私たちに「あなたがたは世の光だ」とおっしゃっておられるのです。それ故に、私たちの放つ光はキリストであって、それ以外の何かではありません。

  15~16節。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。
  部屋の明かりを足下に置くと、部屋全体が暗く感じますが、高いところにおくと、部屋全体が明るく感じられるというごく当たり前のことですが、これは、キリスト者に与えられている働き、使命が譬えで示されているのです。あなたが受けた光を多くの人々の前に輝かしなさいと命じられているのです。神の恵みを受けた者は、その恵みを独り占めにするのではなく、多くの人々に分け与えなさい。それがあなたがたキリスト者の務めであると言われているのです。
  16節の「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」というのは、その事を示しています。
  ここで注意しておきたいことは、マタイ福音書6章1~4節に、これとは正反対と思われる言葉が出てくることです。
  「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
  この施しに続いて、祈りと断食についても同じように警告されています。そこでは「人に見てもらおうとして・・・」という言葉が繰り返されています。その意味は、6章2節の「人からほめられようとして」ということです。すなわち、この6章の言葉は人からほめられることを目的に行動することを戒めているのです。それに対して、5章16節は、人々が私たちを誉め称えるためではなくて、私たちを通して、まことに神こそが恵みの神であることを知るようになる。そして、その恵みの神を誉め称えるようになることを何よりの願いとして行動する。それが「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」ということなのです。
  先ほど、神を太陽に、私たちを月にたとえました。もし、私たちが神を差し置いて自分自身の働きを強調するなら、それは日食のように、神が放つ光を私たちが遮ってしまうことになります。日食という天体ショーはすばらしいかも知れませんが、私たちの神の恵みを遮る行為は、神の御心ではなく、神が喜ばれることでもありません。
  私たちが自分の働きを誇るなら、まさにそれは神の恵みを遮ることになると心得ておくべきでしょう。
  使徒パウロは、コリントの教会で起きた問題を解決しようと「コリントの信徒への手紙 一」をしたためました。コリントの教会は今にも分裂しそうな状況にあり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロのこと)に」「わたしはキリストに」などと言い合っていたのです。
  これに対しパウロは、「私はあなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。あなたがたは私の名によって洗礼を受けたとでも言うのか」言い、自分がキリストと並ぶ者ではないと告げます。さらに、パウロもアポロもペトロも神に仕える同労者にすぎないこと、真の救いはキリストによるのであり、パウロたちはその救いを伝える者でしかないと強調するのです。
  そもそもコリントの教会の人々は何を誇りとすべきかを間違っていると、彼は指摘します。そして、神のみを誇りとすべきであり、それ以外の何ものをも誇りとしてはならないと警告するのです。
  「コリントの信徒への手紙 二」では自分自身を例にあげ、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
  自分を誇るのではなく、私たちを救ってくださった神を誇るのです。神の恵みによって生かされていることを喜び、その喜びを伝えるのです。「私を救い、恵みを与えてくださった神は、あなたをも救い、恵みを与えてくださっています」と伝えるのです。
  人からではなく、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Ⅱコリント5:9) 
  これはキリストを誇りとする者、すなわち私たちキリスト者が共通に持つ心からの願いです。


「あなたがたは地の塩」 2014年9月21日の礼拝

2014年10月21日 | 2014年度
歴代誌下13章1~5節 (日本聖書協会「新共同訳」)

  ヤロブアム王の治世第十八年に、アビヤがユダの王となり、エルサレムで三年間王位にあった。母は名をミカヤといい、ギブア出身のウリエルの娘であった。アビヤとヤロブアムの間にも戦いは続いた。アビヤは四十万のえり抜きの戦士から成る軍隊をもって戦いに臨み、ヤロブアムも八十万のえり抜きの戦士をもって戦いに備えた。アビヤは、エフライム山地のツェマライム山の上に立って言った。「ヤロブアムとイスラエルのすべての人々よ、わたしに耳を傾けよ。イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない。

マタイによる福音書5章13節 (日本聖書協会「新共同訳」)

  「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

  マタイ福音書5章11~12節で、キリストの故に、キリスト者が迫害されると告げられていました。今日の聖句は、それに続いて「あなたがたは地の塩である」と語られています。すなわち、迫害されるあなたがたこそは地の塩であると宣言され、またこれからも地の塩であれと励まされているということです。
  「地の塩」の「地」というのは、この「地上にあって」とか、「この地上に住む人々の間で」という意味です。
  「塩」は、古くから味付けのため、肉などの食料を保存したりするために用いられてきました。
  聖書には「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4:5)というように比喩的に用いられる例もあります。
  肉を保存する力があることから、「いつまでも変わらない」という意味で塩を比喩的に用いる例もあります。今日、司式者に読んでいただいた歴代誌下13章の「塩の契約」というのがそれです。神は約束されたことを決して翻すことがないということを強調しています。
  今日の御言葉である「あなたがたは地の塩である」とは、どういう意味なのでしょうか?
  後に続く言葉から見てみましょう。塩は、本来変質するものではありませんが、もし仮に、変質するようなことがあったなら、何の役にも立たず、捨てられるだけだと言われています。すなわち、「塩」は塩自身の本来持っている特質を失ってはならないということです。
  例外もありますが、塩と砂糖は同じ白い色をしています。塩が塩味を失い、砂糖のように甘くなってしまったなら、それはもはや塩ではありません。
  主イエス・キリストは私たちキリスト者に、地上にあって世の人々から迫害されたとしても、キリスト者の特質を失ってはならないと教え、励ましておられるのです。周囲の人々と同じであることに安心感を持ちやすい私たち日本人は、特にこのことをしっかりと心に留めておくべきでしょう。

  横道に逸れますが、いろいろの国の国民性を表す有名なジョークがあります。
  ある巨大な豪華客船が氷山にぶつかり、沈没しそうになりました。女性、子供、老人客を優先的に脱出ボートに乗せても他の乗客たちを乗せる余裕がありません。彼らには酷寒の海に飛び込んでもらうしかありません。そこで、船長は、一計を案じ、次のように言った。
  まず最初にやって来たイギリス人には、「こういうときにこそ、紳士は海に飛び込むものです。」イギリス人は毅然として、海に飛び込みました。
  次に来たドイツ人には、「規則では海に飛び込むことになっています。」彼は何も言わずに飛び込みました。
  次のイタリア人には、「さっき、美女が海に飛び込みましたよ。」 彼はいそいそと海に飛び込みました。
  アメリカ人には、「今、海に飛び込んだら、あなたはヒーローになれますよ。」彼は勇んで海に飛び込みました。
  フランス人には、「あなたは、海に飛び込まないで下さい。」しかし、彼は、その言葉を無視して海に飛び込みました。
  日本人には、「みなさんはもう飛び込みましたよ。」 彼はきょろきょろあたりを見渡して海に飛び込みました。
  周囲の人と同じであることに安心感を持つ日本人の特徴を良く表しています。

  キリスト者は、他の人々と同じであって良いとは、神はおっしゃらないのです。むしろ、キリスト者の独自性、特質を意識することを求めておられるのです。
  ここで注意すべきことは、「あなたがたは今は地の塩ではないが、これからは地の塩となれ」と言われているのではないということです。そうではなく、あなたがたは「すでに地の塩となっている」と言われているのです。
  言い換えると、キリスト者としての独自性、特質を既に持っていると言われているのです。キリスト者の独自性、特質とは何でしょうか? それを知ることは、とてもむつかしいように思われます。それを考える上でヒントとなるのが、今日の御言葉です。
  塩から塩気がなくなったらその独自性、特質が失われると語られていました。何を失ったら、キリスト者の特質を失ってしまうのでしょうか。

  昔、ある教会が分裂し、牧師が信徒と共にその教会を去ってしまいました。
  その後にやってきた後任の牧師は、どうやってこの教会を建て直すべきか悩みました。その教会が混乱した原因はいろいろありそうでしたが、それを追及してもあまり意味はありそうもありません。そこでその牧師が考えたのは、この混乱した教会が立ち直るためには、人間の支配によるのではなく、キリストが支配するキリストの教会とならねばならないということでした。
  キリストの教会とは何かということを考えていく内に、この教会から何が無くなったら教会でなくなってしまうだろうかということに行き着きました。そして、それまでのいろいろの集会を次々にやめたのです。最後に、礼拝だけが残りました。礼拝が無くなったなら、この教会はもはや教会でなくなる。反対に、正しく礼拝しているなら、他に何もしていなくとも、ここは確かに教会である。こういう確信を持つようになったのです。
  長い間、この教会は礼拝以外何もしなかったそうです。しかし、その牧師は礼拝以外何もしてはいけないと考えていたわけではありませんでした。その教会をまねて、礼拝以外何もしないのが理想だと考えた若い牧師をたしなめ、自分が礼拝以外何もしなかったのは、教会が混乱したという状況があったからこそ、教会の本質を再発見するためにしたことであって、決して理想というわけではないと教えたそうです。
  その牧師は、礼拝についても、礼拝の中心は何か、何を失ったら礼拝でなくなるのかを考え、説教こそ礼拝の中心であり、その説教も神の言葉である聖書を解き明かしてこそ、説教もまた神の御言葉となるとして、聖書の講解という形の説教を重んじました。
  礼拝を失ったら、そこはもはや教会ではないように、神を礼拝しないならば、私たちもまた、キリスト者としての特質を失ってしまうのです。神を礼拝しないならば、その他のあらゆることをしていても、キリスト者としての特質を失っているのです。反対に、他の全てのことが出来なくとも、礼拝がなされているならば、キリスト者としての特質を、私たちは確かに持っているのです。
  「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」。(イザヤ43:21) これこそ、キリスト者の独自性、特質なのです。


「迫害と永遠の栄光」 2014年9月21日の礼拝

2014年10月06日 | 2014年度
イザヤ書51章1~8節 (日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしに聞け、正しさを求める人
 主を尋ね求める人よ。
 あなたたちが切り出されてきた元の岩
 掘り出された岩穴に目を注げ。
 あなたたちの父アブラハム
 あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
 わたしはひとりであった彼を呼び
 彼を祝福して子孫を増やした。

 主はシオンを慰め
 そのすべての廃虚を慰め
 荒れ野をエデンの園とし
 荒れ地を主の園とされる。
 そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。
 わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
 教えはわたしのもとから出る。
 わたしは瞬く間に
 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
 わたしの腕は諸国の民を裁く。
 島々はわたしに望みをおき
 わたしの腕を待ち望む。
 天に向かって目を上げ
 下に広がる地を見渡せ。
 天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
 わたしの救いはとこしえに続き
 わたしの恵みの業が絶えることはない。
 わたしに聞け
 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。
 人に嘲られることを恐れるな。
 ののしられてもおののくな。
 彼らはしみに食われる衣
 虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。
 わたしの恵みの業はとこしえに続き
 わたしの救いは代々に永らえる。


マタイによる福音書5章11~12節 (日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

  今日の11節の言葉は、その前の10節の前半とよく似ており、同じ事を言っていると考えることが出来ます。すなわち、「義のために迫害される」と「わたし(キリスト)のために迫害される」は、別のことではなく、表現を変えて繰り返されているのです。また、迫害についても11節はより具体的に語られ、さらに10節の「その人たち」が11節で「あなたがたは」となっています。こうして、迫害は誰か見知らぬひとびとにではなく、キリストに従うあなた方を襲うと告げるのです。また、10節と同じように、そうした迫害を受けることは幸いだと宣言されています。
  10節では「天の国はその人たちのものだから」と言われているのに対し、11~12節では「天には大きな報いがある」と言われています。
  「報い」という言葉は、報酬、給料、賃金という意味です。言葉そのものは、「ギブ・アンド・テイク」のように、働いた者がその労働に対して当然受けるべき報酬という意味です。
  しかし、神が人間に対してお与えになる報酬は、そのような「ギブ・アンド・テイク」とは全く違います。むしろ、受けるに値しないにもかかわらず、法外なものが与えられるのです。それは、報酬と言うより恵みです。
  その事については、主イエスが語られた「ぶどう園の労働者」たとえ(マタイ20:1-16)によく示されています。
  「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
  1デナリオンは、当時のローマの兵士の1日分の賃金だと言われています。最初に雇われた労働者への賃金は正当なものでした。その日の仕事が終わる直前に雇われた労働者は、ごくわずかしか働かなかったにもかかわらず、あたかも丸一日働いたかのような報酬をもらったのです。彼らの働き以上の報酬です。私たちが神から受ける報酬はこれと同じで、それはむしろ恵みと言うべきです。
  神は、私たちの働きが少ないことをよくご存じです。それを承知の上で、報酬だと言って、恵みをくださるのです。
  そして、「天には大きな報いがある」との教えは、単に報酬を期待するようにということではなく、人を恐れず、神を信頼するよう励まし、勧めてもいるのです。神からの報いをこそ求めるべきなのです。
  12節に「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された」とあります。
  私たちは、罪に満ちた世界、神に敵対する世界に生きているのです。神に救われ、神の側に生きる者となった私たちは、神に敵対する人々から迫害されることは当然のことであり、思いがけないことが起こったと驚いてはいけないと、覚悟を促しているのです。
  旧約の預言者たちは迫害されながらも神の側に立ち続け、全ての人々に対し、神のもとへ帰るように呼びかけ続けました。
  使徒パウロも次のように語っています。
  「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:17)
  神からいただく恵み、すなわち永遠の栄光に比べれば、この地上で受ける艱難は一時の軽いものだというのです。多くの艱難に遭ったパウロのこの言葉です。(Ⅱコリント9:23~28) そのパウロが一時の軽い艱難と言うのです。彼の英雄的な勇気や力によって言うのではありません。彼は、大きな恵みをくださる神を仰ぎ見て、告白しているのです。
  私たちも、人からの報酬を期待するのではなく、大きな恵みをくださっている神を仰ぎ見て、歩むべきです。そこにこそ、私たちの真の幸いがあるのです。