八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「永遠の贖罪」 2020年12月13日の礼拝

2021年02月28日 | 2020年度
イザヤ書59章15b~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は正義の行われていないことを見られた。
 それは主の御目に悪と映った。
 主は人ひとりいないのを見
 執り成す人がいないのを驚かれた。
 主の救いは主の御腕により
 主を支えるのは主の恵みの御業。
 主は恵みの御業を鎧としてまとい
 救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい
 熱情を上着として身を包まれた。
 主は人の業に従って報い
 刃向かう者の仇に憤りを表し
 敵に報い、島々に報いを返される。
 西では主の御名を畏れ
 東では主の栄光を畏れる。
 主は激しい流れのように臨み
 主の霊がその上を吹く。
 主は贖う者として、シオンに来られる。
 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると
 主は言われる。

 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると
 主は言われる。
 あなたの上にあるわたしの霊
 あなたの口においたわたしの言葉は
 あなたの口からも、あなたの子孫の口からも
 あなたの子孫の子孫の口からも
 今も、そしてとこしえに
 離れることはない、と主は言われる。


ヘブライ人への手紙9章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。


  婚約をしていたマリアが子を身ごもったことを知り、ヨセフはマリアと別れる決意をしました。その時、天使がヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。
  この天使の言葉に、主イエスがこの地上に来られた目的が示されています。すなわち、人びとを罪から救うということです。
  旧約聖書の時代から、罪を犯した人はその償いとして動物を献げてきました。これを贖罪と言いますが、旧約聖書に記されている宗教儀式で最も重要なものでした。神殿がなく、動物の供え物をしない今の時代でも、ユダヤ人は贖罪の日の祭りをとても大事にしています。
  主イエスの時代は、エルサレムの神殿が存在していましたので、贖罪のための動物の犠牲が数多くなされていました。しかし、その贖罪の犠牲が何度も繰り返されていることは、その贖罪が不完全であることを逆に証明していると、新約聖書のヘブライ人への手紙は告げています。そして、動物の犠牲よりはるかに贖罪の力を持っているのが十字架にかかられたイエス・キリストであると強調しているのです。
  動物の犠牲は何度も献げる必要がありましたが、主イエス・キリストの場合は、一回行われただけで、繰り返されることはありません。その一回だけということが、十字架の上で血を流された主イエス・キリストが贖罪として完全であったことを示しているのです。それ故に、主イエスによる贖罪は永遠にその力を発揮しているとも言えます。
  主イエスがご自身の体によって永遠の贖罪を行われたので、私たちは、もはや動物を犠牲としてささげる必要はありません。私たちのための永遠の贖罪がすでに成し遂げられたのであれば、私たちは神から赦しを受けており、神との完全な和解が成立しているのです。
  旧約聖書には、私たちを罪のゆえに罰すると何度も記されています。私たちの罪がそれほど重いということです。しかし、私たちの罪の重さを告げる言葉と共に、「主は贖う者として来られる」(イザヤ59:20)との言葉も告げられました。さらには「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:34)とも約束されました。これらの預言者の言葉は、主イエス・キリストにおいて実現したのです。預言者の言葉だけで「赦す」というのではなく、神の独り子イエス・キリストが真の人間となって完全な永遠の贖罪として十字架にかかられたのです。私たちのための完全で永遠の贖罪のために、御子がお生まれになりました。そして、この御子により、私たちはキリストに結ばれ、罪を赦されました。そして、さらに神の子としての身分をも与えられているのです。
 


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「新しい契約を結ぶために」 2020年12月6日の礼拝

2021年02月08日 | 2020年度
エレミヤ書31章31~34節(日本聖書協会「新共同訳」)

  見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

ヘブライ人への手紙9章15~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。


  「新しい契約を結ぶ日が来る」と預言したエレミヤは、単に未来を見通して語ったのではありません。彼は、神の御計画を伝えているのです。
  神の御計画である神の民との新しい契約は、かつてモーセを通して結ばれた契約に代わるものだと言われています。何故、新しい契約を結ぶことになるのかと言いますと、モーセの時の契約を神の民がやぶったからです。
  本来、契約を結ぶことは互いに相手を裏切ることをしない、信頼する関係になることを誓い合うのです。しかし、神の民であるイスラエルは何度も神を裏切り、預言者を幾人も送り警告してきましたが、彼らの裏切りは止むことがありませんでした。そしてついに、契約は破られたと神が宣言されたのです。しかし、契約が破られ、無効になりましたが、神は新しい契約を立てると宣言されました。それがエレミヤ書31章です。
  神は、なぜ彼らと契約を結ばれるのでしょうか。もちろん、神の民である彼らを守る意味もあります。しかし、それ以上に、すべての人々を救うという御計画のためなのです。彼らが神の民となったそもそもの始まりは、彼らの先祖アブラハムをお選びになったということでした。それは創世記12章に記されていますが、その時、神がおっしゃったのは、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」でした。この言葉は子孫にも同じような言葉で告げておられます。彼らが選ばれた理由は明らかではありませんが、選んだ目的ははっきりしています。すべての人間を祝福することです。このアブラハムに告げられた言葉はアブラハム契約と呼ばれます。数百年の後、モーセを通してたてられた契約もアブラハム契約と深い関係があります。
  神の民であるイスラエルが神との契約を破ったことは、彼ら自身が神の祝福を受けられなくなってしまうという重大なことですが、彼らを通して全人類を祝福し、救おうという神の御計画が水泡に帰してしまう危険が生じてしまいました。そこで、神は新しい契約を立てる御計画を立て、エレミヤに伝えさせたのです。
  この新しい契約は、すべての人間を救うという目的がなくなったというのではありません。むしろ、すべての人間を救目的のために新しい契約が立てられるのです。では、何が新しくなるのでしょうか。それは契約の結ばれ方です。モーセの時は、動物の血を用いました。血は命を意味し、動物の血を用いることによって、契約を結ぶ両者は命をかけてその約束を守ることとしました。しかし、その契約が破られてしまいました。神は新たに立てる契約は、動物の血ではなく、人となられた神の独り子のの血、すなわち、十字架にかけられたイエス・キリストの血によってたてられることになったのです。こうして、エレミヤが告げた言葉は、主イエス・キリストによって実現することになったのです。主イエスがこの世に来られたのは、この新しい契約を立てるためでありました。クリスマスの意味はここにあるのです。主イエスの御降誕は、この新しい契約を結ぶための出来事であり、また十字架におかかりになるための出来事なのです。この神の御計画、何としてでも救うという固い決意によって、私たちは、救われたのです。


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