イザヤ書59章15b~21節(日本聖書協会「新共同訳」)
主は正義の行われていないことを見られた。
それは主の御目に悪と映った。
主は人ひとりいないのを見
執り成す人がいないのを驚かれた。
主の救いは主の御腕により
主を支えるのは主の恵みの御業。
主は恵みの御業を鎧としてまとい
救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい
熱情を上着として身を包まれた。
主は人の業に従って報い
刃向かう者の仇に憤りを表し
敵に報い、島々に報いを返される。
西では主の御名を畏れ
東では主の栄光を畏れる。
主は激しい流れのように臨み
主の霊がその上を吹く。
主は贖う者として、シオンに来られる。
ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると
主は言われる。
これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると
主は言われる。
あなたの上にあるわたしの霊
あなたの口においたわたしの言葉は
あなたの口からも、あなたの子孫の口からも
あなたの子孫の子孫の口からも
今も、そしてとこしえに
離れることはない、と主は言われる。
ヘブライ人への手紙9章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
婚約をしていたマリアが子を身ごもったことを知り、ヨセフはマリアと別れる決意をしました。その時、天使がヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。
この天使の言葉に、主イエスがこの地上に来られた目的が示されています。すなわち、人びとを罪から救うということです。
旧約聖書の時代から、罪を犯した人はその償いとして動物を献げてきました。これを贖罪と言いますが、旧約聖書に記されている宗教儀式で最も重要なものでした。神殿がなく、動物の供え物をしない今の時代でも、ユダヤ人は贖罪の日の祭りをとても大事にしています。
主イエスの時代は、エルサレムの神殿が存在していましたので、贖罪のための動物の犠牲が数多くなされていました。しかし、その贖罪の犠牲が何度も繰り返されていることは、その贖罪が不完全であることを逆に証明していると、新約聖書のヘブライ人への手紙は告げています。そして、動物の犠牲よりはるかに贖罪の力を持っているのが十字架にかかられたイエス・キリストであると強調しているのです。
動物の犠牲は何度も献げる必要がありましたが、主イエス・キリストの場合は、一回行われただけで、繰り返されることはありません。その一回だけということが、十字架の上で血を流された主イエス・キリストが贖罪として完全であったことを示しているのです。それ故に、主イエスによる贖罪は永遠にその力を発揮しているとも言えます。
主イエスがご自身の体によって永遠の贖罪を行われたので、私たちは、もはや動物を犠牲としてささげる必要はありません。私たちのための永遠の贖罪がすでに成し遂げられたのであれば、私たちは神から赦しを受けており、神との完全な和解が成立しているのです。
旧約聖書には、私たちを罪のゆえに罰すると何度も記されています。私たちの罪がそれほど重いということです。しかし、私たちの罪の重さを告げる言葉と共に、「主は贖う者として来られる」(イザヤ59:20)との言葉も告げられました。さらには「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:34)とも約束されました。これらの預言者の言葉は、主イエス・キリストにおいて実現したのです。預言者の言葉だけで「赦す」というのではなく、神の独り子イエス・キリストが真の人間となって完全な永遠の贖罪として十字架にかかられたのです。私たちのための完全で永遠の贖罪のために、御子がお生まれになりました。そして、この御子により、私たちはキリストに結ばれ、罪を赦されました。そして、さらに神の子としての身分をも与えられているのです。
主は正義の行われていないことを見られた。
それは主の御目に悪と映った。
主は人ひとりいないのを見
執り成す人がいないのを驚かれた。
主の救いは主の御腕により
主を支えるのは主の恵みの御業。
主は恵みの御業を鎧としてまとい
救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい
熱情を上着として身を包まれた。
主は人の業に従って報い
刃向かう者の仇に憤りを表し
敵に報い、島々に報いを返される。
西では主の御名を畏れ
東では主の栄光を畏れる。
主は激しい流れのように臨み
主の霊がその上を吹く。
主は贖う者として、シオンに来られる。
ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると
主は言われる。
これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると
主は言われる。
あなたの上にあるわたしの霊
あなたの口においたわたしの言葉は
あなたの口からも、あなたの子孫の口からも
あなたの子孫の子孫の口からも
今も、そしてとこしえに
離れることはない、と主は言われる。
ヘブライ人への手紙9章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
婚約をしていたマリアが子を身ごもったことを知り、ヨセフはマリアと別れる決意をしました。その時、天使がヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。
この天使の言葉に、主イエスがこの地上に来られた目的が示されています。すなわち、人びとを罪から救うということです。
旧約聖書の時代から、罪を犯した人はその償いとして動物を献げてきました。これを贖罪と言いますが、旧約聖書に記されている宗教儀式で最も重要なものでした。神殿がなく、動物の供え物をしない今の時代でも、ユダヤ人は贖罪の日の祭りをとても大事にしています。
主イエスの時代は、エルサレムの神殿が存在していましたので、贖罪のための動物の犠牲が数多くなされていました。しかし、その贖罪の犠牲が何度も繰り返されていることは、その贖罪が不完全であることを逆に証明していると、新約聖書のヘブライ人への手紙は告げています。そして、動物の犠牲よりはるかに贖罪の力を持っているのが十字架にかかられたイエス・キリストであると強調しているのです。
動物の犠牲は何度も献げる必要がありましたが、主イエス・キリストの場合は、一回行われただけで、繰り返されることはありません。その一回だけということが、十字架の上で血を流された主イエス・キリストが贖罪として完全であったことを示しているのです。それ故に、主イエスによる贖罪は永遠にその力を発揮しているとも言えます。
主イエスがご自身の体によって永遠の贖罪を行われたので、私たちは、もはや動物を犠牲としてささげる必要はありません。私たちのための永遠の贖罪がすでに成し遂げられたのであれば、私たちは神から赦しを受けており、神との完全な和解が成立しているのです。
旧約聖書には、私たちを罪のゆえに罰すると何度も記されています。私たちの罪がそれほど重いということです。しかし、私たちの罪の重さを告げる言葉と共に、「主は贖う者として来られる」(イザヤ59:20)との言葉も告げられました。さらには「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:34)とも約束されました。これらの預言者の言葉は、主イエス・キリストにおいて実現したのです。預言者の言葉だけで「赦す」というのではなく、神の独り子イエス・キリストが真の人間となって完全な永遠の贖罪として十字架にかかられたのです。私たちのための完全で永遠の贖罪のために、御子がお生まれになりました。そして、この御子により、私たちはキリストに結ばれ、罪を赦されました。そして、さらに神の子としての身分をも与えられているのです。