出エジプト記12章9~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
ルカによる福音書22章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
ルカによる福音書22章24~30節は、最後の晩餐の一場面が記されています。先週の礼拝では、その最後の晩餐の中心的な部分を描いた聖書の箇所を読みました。22章20節に「食事を終えてから」杯を配ったとありますが、厳密に言うとまだ過越の食事は続いており、その食事のおしまいの方で、主イエスが弟子の中に裏切り者がいるとおっしゃったのです。それを聞いて、弟子たちは動揺しました。当然です。過越の祭りのお祝い気分が一気に吹き飛んでしまいました。弟子たちが、口々に「一体誰が、そんなことをしようとしているのか」と言い始め、議論となりました。マルコ福音書は、弟子たちが「まさか私のことでは」と、代わる代わる言い始めたと記し、弟子たちの動揺の大きさを伝えています。今日のルカ福音書22章24節以下は、その続きになります。
「自分たちのうち、いったい誰が裏切ろうとしているのか」という議論は、いつしか、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかという問題にすり替わり、しかも、その議論はより激しさを増していきました。福音書は、弟子たちはたびたび「誰が偉いか」という議論をしたことを伝えており、この問題に対する弟子たちの関心の強さ、その心に潜む野望の大きさを示しています。そして、彼らの心に潜んでいた関心、野望は、最後の晩餐において、しかも主イエスが「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」とおっしゃったその時に、表面に現れたのです。
彼らは、主イエスから他の弟子たちよりも高く評価されることを願っていました。弟子たちは、お互いを仲間と見るだけではなく、出世ということに関してはライバルと見なしていたということです。さすがに、誰かを蹴落とすということまでは考えていなかったでしょうが、誰よりも高く評価されたいと、内心強く思っていたのです。
また、権力を持ちたいという野望がありました。彼らは、主イエスがやがて王国を築き、王として君臨すると期待し、自分たちが高い地位に着けられる事を願っていたのです。実際に、ヤコブとヨハネという弟子たちが、主イエスにそのように願い出たことがありました。主イエスは、その二人の弟子たちの願いを退けますが、それを見ていた他の弟子たちがこの二人のことで怒り出しました。抜け駆けをされたことに腹を立てたのです。
かつて、主イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と教えておられましたが、ヤコブとヨハネをめぐって弟子たちが腹を立てた時にも、次のように諭されました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20章25~28節)
そして、今回も主イエスは「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と教えられたのです。これだけを聞くと、日本でも昔から言われる「実るほど、頭の下がる稲穂かな」の言葉のように、謙遜な生き方を教えているかのように思われます。しかし、主イエスは、単に謙遜することを教えているのではありません。しかし、これは、無力であれとか、謙遜な生き方をせよと教えているのではありません。何のために偉くなるのかという目的、またその力をどう用いるかを教えておられるのです。
ここで、神の力について考えてみましょう。神は全能であり、できないことは何一つなく、絶対的な力を持っておられます。神はその全能の力を何に用いておられるでしょうか。先ほどの話でいうと、力を用いる目的ということです。
聖書は、神は天地を創造されたと告げています。まさに全能の力を振るわれたわけです。そして、天地のすべてを保つためにそれを用いておられます。そして、さらに大切なことは、私たちの救いのためにそれを用いておられるということです。言い換えれば、私たち罪人を滅ぼすためではなく、罪人をその罪から救うために、その全能の力を用いてくださっているということです。
マタイ福音書20章28節で、主イエス「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉があります。主イエスがご自身のことを語っておられるのです。これは自分を手本にしろという意味ではありません。むしろ、主イエスはご自身が地上の王になるつもりがないこと、そして、すべての人々の救いのために命を捨てるという決意を示されたのです。それは、地上における主イエスの使命でもあります。ここにこそ、神が全能の力を振るわれる目的が示されています。これが弟子たちに教えられた「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」という言葉の前提、また土台となっているのです。
主イエスは、弟子たちに力はいらないとか、無力で良いのだとおっしゃっておられるのではなありません。実際、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と、はっきりおっしゃっておられます。しかし、その意味は、神から与えられた力を自分のためにではなく、人々に仕えるために、人々が救われるために用いなさいと命じておられるのです。
主イエス・キリストご自身は全能の力をすべての人々を罪から救うために用いておられます。十字架にかかり、罪の贖いをされました。そして、弟子たちや私たちには、その主イエスの救いを人々に証をし、伝えるために、神から与えられた力を用いよと、命じられているのです。
モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
ルカによる福音書22章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
ルカによる福音書22章24~30節は、最後の晩餐の一場面が記されています。先週の礼拝では、その最後の晩餐の中心的な部分を描いた聖書の箇所を読みました。22章20節に「食事を終えてから」杯を配ったとありますが、厳密に言うとまだ過越の食事は続いており、その食事のおしまいの方で、主イエスが弟子の中に裏切り者がいるとおっしゃったのです。それを聞いて、弟子たちは動揺しました。当然です。過越の祭りのお祝い気分が一気に吹き飛んでしまいました。弟子たちが、口々に「一体誰が、そんなことをしようとしているのか」と言い始め、議論となりました。マルコ福音書は、弟子たちが「まさか私のことでは」と、代わる代わる言い始めたと記し、弟子たちの動揺の大きさを伝えています。今日のルカ福音書22章24節以下は、その続きになります。
「自分たちのうち、いったい誰が裏切ろうとしているのか」という議論は、いつしか、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかという問題にすり替わり、しかも、その議論はより激しさを増していきました。福音書は、弟子たちはたびたび「誰が偉いか」という議論をしたことを伝えており、この問題に対する弟子たちの関心の強さ、その心に潜む野望の大きさを示しています。そして、彼らの心に潜んでいた関心、野望は、最後の晩餐において、しかも主イエスが「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」とおっしゃったその時に、表面に現れたのです。
彼らは、主イエスから他の弟子たちよりも高く評価されることを願っていました。弟子たちは、お互いを仲間と見るだけではなく、出世ということに関してはライバルと見なしていたということです。さすがに、誰かを蹴落とすということまでは考えていなかったでしょうが、誰よりも高く評価されたいと、内心強く思っていたのです。
また、権力を持ちたいという野望がありました。彼らは、主イエスがやがて王国を築き、王として君臨すると期待し、自分たちが高い地位に着けられる事を願っていたのです。実際に、ヤコブとヨハネという弟子たちが、主イエスにそのように願い出たことがありました。主イエスは、その二人の弟子たちの願いを退けますが、それを見ていた他の弟子たちがこの二人のことで怒り出しました。抜け駆けをされたことに腹を立てたのです。
かつて、主イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と教えておられましたが、ヤコブとヨハネをめぐって弟子たちが腹を立てた時にも、次のように諭されました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20章25~28節)
そして、今回も主イエスは「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と教えられたのです。これだけを聞くと、日本でも昔から言われる「実るほど、頭の下がる稲穂かな」の言葉のように、謙遜な生き方を教えているかのように思われます。しかし、主イエスは、単に謙遜することを教えているのではありません。しかし、これは、無力であれとか、謙遜な生き方をせよと教えているのではありません。何のために偉くなるのかという目的、またその力をどう用いるかを教えておられるのです。
ここで、神の力について考えてみましょう。神は全能であり、できないことは何一つなく、絶対的な力を持っておられます。神はその全能の力を何に用いておられるでしょうか。先ほどの話でいうと、力を用いる目的ということです。
聖書は、神は天地を創造されたと告げています。まさに全能の力を振るわれたわけです。そして、天地のすべてを保つためにそれを用いておられます。そして、さらに大切なことは、私たちの救いのためにそれを用いておられるということです。言い換えれば、私たち罪人を滅ぼすためではなく、罪人をその罪から救うために、その全能の力を用いてくださっているということです。
マタイ福音書20章28節で、主イエス「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉があります。主イエスがご自身のことを語っておられるのです。これは自分を手本にしろという意味ではありません。むしろ、主イエスはご自身が地上の王になるつもりがないこと、そして、すべての人々の救いのために命を捨てるという決意を示されたのです。それは、地上における主イエスの使命でもあります。ここにこそ、神が全能の力を振るわれる目的が示されています。これが弟子たちに教えられた「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」という言葉の前提、また土台となっているのです。
主イエスは、弟子たちに力はいらないとか、無力で良いのだとおっしゃっておられるのではなありません。実際、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と、はっきりおっしゃっておられます。しかし、その意味は、神から与えられた力を自分のためにではなく、人々に仕えるために、人々が救われるために用いなさいと命じておられるのです。
主イエス・キリストご自身は全能の力をすべての人々を罪から救うために用いておられます。十字架にかかり、罪の贖いをされました。そして、弟子たちや私たちには、その主イエスの救いを人々に証をし、伝えるために、神から与えられた力を用いよと、命じられているのです。