八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「いちばん偉い人とは」 2019年3月31日の礼拝

2019年07月08日 | 2018年度
出エジプト記12章9~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

ルカによる福音書22章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」



  ルカによる福音書22章24~30節は、最後の晩餐の一場面が記されています。先週の礼拝では、その最後の晩餐の中心的な部分を描いた聖書の箇所を読みました。22章20節に「食事を終えてから」杯を配ったとありますが、厳密に言うとまだ過越の食事は続いており、その食事のおしまいの方で、主イエスが弟子の中に裏切り者がいるとおっしゃったのです。それを聞いて、弟子たちは動揺しました。当然です。過越の祭りのお祝い気分が一気に吹き飛んでしまいました。弟子たちが、口々に「一体誰が、そんなことをしようとしているのか」と言い始め、議論となりました。マルコ福音書は、弟子たちが「まさか私のことでは」と、代わる代わる言い始めたと記し、弟子たちの動揺の大きさを伝えています。今日のルカ福音書22章24節以下は、その続きになります。
  「自分たちのうち、いったい誰が裏切ろうとしているのか」という議論は、いつしか、自分たちのうちで誰がいちばん偉いかという問題にすり替わり、しかも、その議論はより激しさを増していきました。福音書は、弟子たちはたびたび「誰が偉いか」という議論をしたことを伝えており、この問題に対する弟子たちの関心の強さ、その心に潜む野望の大きさを示しています。そして、彼らの心に潜んでいた関心、野望は、最後の晩餐において、しかも主イエスが「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」とおっしゃったその時に、表面に現れたのです。
  彼らは、主イエスから他の弟子たちよりも高く評価されることを願っていました。弟子たちは、お互いを仲間と見るだけではなく、出世ということに関してはライバルと見なしていたということです。さすがに、誰かを蹴落とすということまでは考えていなかったでしょうが、誰よりも高く評価されたいと、内心強く思っていたのです。
  また、権力を持ちたいという野望がありました。彼らは、主イエスがやがて王国を築き、王として君臨すると期待し、自分たちが高い地位に着けられる事を願っていたのです。実際に、ヤコブとヨハネという弟子たちが、主イエスにそのように願い出たことがありました。主イエスは、その二人の弟子たちの願いを退けますが、それを見ていた他の弟子たちがこの二人のことで怒り出しました。抜け駆けをされたことに腹を立てたのです。
  かつて、主イエスは「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」と教えておられましたが、ヤコブとヨハネをめぐって弟子たちが腹を立てた時にも、次のように諭されました。
  「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20章25~28節)
  そして、今回も主イエスは「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」と教えられたのです。これだけを聞くと、日本でも昔から言われる「実るほど、頭の下がる稲穂かな」の言葉のように、謙遜な生き方を教えているかのように思われます。しかし、主イエスは、単に謙遜することを教えているのではありません。しかし、これは、無力であれとか、謙遜な生き方をせよと教えているのではありません。何のために偉くなるのかという目的、またその力をどう用いるかを教えておられるのです。
  ここで、神の力について考えてみましょう。神は全能であり、できないことは何一つなく、絶対的な力を持っておられます。神はその全能の力を何に用いておられるでしょうか。先ほどの話でいうと、力を用いる目的ということです。
  聖書は、神は天地を創造されたと告げています。まさに全能の力を振るわれたわけです。そして、天地のすべてを保つためにそれを用いておられます。そして、さらに大切なことは、私たちの救いのためにそれを用いておられるということです。言い換えれば、私たち罪人を滅ぼすためではなく、罪人をその罪から救うために、その全能の力を用いてくださっているということです。
  マタイ福音書20章28節で、主イエス「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉があります。主イエスがご自身のことを語っておられるのです。これは自分を手本にしろという意味ではありません。むしろ、主イエスはご自身が地上の王になるつもりがないこと、そして、すべての人々の救いのために命を捨てるという決意を示されたのです。それは、地上における主イエスの使命でもあります。ここにこそ、神が全能の力を振るわれる目的が示されています。これが弟子たちに教えられた「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」という言葉の前提、また土台となっているのです。
  主イエスは、弟子たちに力はいらないとか、無力で良いのだとおっしゃっておられるのではなありません。実際、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と、はっきりおっしゃっておられます。しかし、その意味は、神から与えられた力を自分のためにではなく、人々に仕えるために、人々が救われるために用いなさいと命じておられるのです。
  主イエス・キリストご自身は全能の力をすべての人々を罪から救うために用いておられます。十字架にかかり、罪の贖いをされました。そして、弟子たちや私たちには、その主イエスの救いを人々に証をし、伝えるために、神から与えられた力を用いよと、命じられているのです。


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「記念と新しい契約」 2019年3月24日の礼拝

2019年07月01日 | 2018年度
出エジプト記12章3~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプト/のすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

ルカによる福音書22章14~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。


  今日のルカによる福音書22章14~23節は、一般に「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。主イエスが十字架にかかる前の夜、弟子たちと最後の食事をしたことからそのように呼ばれています。「最後の晩餐」はとても有名で、多くの画家がそれを題材とした絵を描いています。この「最後の晩餐」は、「過越(すぎこし)」と呼ばれる祭りの中で行われた食事のことです。この過越の祭り、過越の食事は、イスラエルの人々のエジプト脱出を記念して行われているもので、現在でもユダヤ人たちが最も大切にしているものです。
  過越の食事は、宗教儀式として行われるものですから、決まった準備、順序、言葉で行われます。ただ、福音書には、その時の様子のすべてが記されているわけではありません。いつもどおり行われていることは省略されており、いつもの過越の食事と違っているところを伝えています。それが19節の「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」という言葉です。いつもの過越の食事では語られるはずのない言葉であるため、弟子たちはこの言葉を強く記憶にとどめることになりました。そして、後の人々にも伝えなければならない大切な言葉として伝えてきたのです。これが現代の教会の聖餐式となって伝えられているのです。
  ここで注目すべきは、主イエスが語られた「わたしの血による新しい契約」という言葉です。これは、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルとの契約(出エジプト記24章)を前提にしています。その時、モーセが動物の血を用い、「神とイスラエルとの間で結ばれた契約の血」と宣言しました。神とイスラエルとの確かな関係が結ばれ、神がイスラエルを必ず守り抜くと約束されたのです。契約は神の約束の徴(しるし)として行われたのです。
  後にイスラエルの人々がその契約を破ってしまい、預言者たちが国が滅ぶと警告しました。その言葉どおり、国が滅びそうになった時に、預言者エレミヤが「新しい契約を結ぶ日が来る」と預言しました。それが主イエスによって実現したのです。主イエスの「わたしの血による新しい契約」という宣言は、かつて預言者を通して約束されていた新しい契約が結ばれる時が来たことを告げているのです。
  主イエスと弟子たちの過越の食事は、今は聖餐式として守られていますが、この聖餐式そのものが新しい契約ではありません。この聖餐式は十字架にかかられた主イエスを指し示すもので、パンとぶどう酒を受けることによって、私たちが十字架のキリストと一体となっていることを指し示しているのです。十字架にかかられた主イエス・キリストこそ新しい契約そのものなのです。私たちは、この十字架と復活のキリストに結びあわされている事を思い起こす記念として、聖餐の時を守るように命じられ、また招かれているのです。聖餐式に示された主イエス・キリストによる新しい契約は、神の恵みであり、私たちの救いを保証する目に見える徴(しるし)なのです。




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「死と復活の予告」 2019年3月17日の礼拝

2019年06月24日 | 2018年度
イザヤ書53章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
   わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
   主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。
 彼は不法を働かず
 その口に偽りもなかったのに
 その墓は神に逆らう者と共にされ
 富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
 彼は自らを償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれることは
   彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見
 それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
 彼が自らをなげうち、死んで
 罪人のひとりに数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い
 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった。

ルカによる福音書18章31~34節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。


  エルサレムの町に向かう時エリコの町を通りますが、その手前で、主イエスは弟子たちを呼び寄せ、ご自身の受難と復活の予告をされました。このような予告をされたのは、これで三度目でした。しかし、実際にはもっとされていたかも知れません。ルカ17章24節以下で、主イエスが再臨について語っておられますが、その中で「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と告げておられます。
  これらの予告は、単に未来を予測したというのではありません。神のご計画を弟子たちに告げておられるのです。「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」という言葉がそれを示しています。預言者も単に未来を予測したというのではなく、彼らが神から語れと命じられたことを告げたのであって、それは神の御心であり、ご計画であると告げているのです。
  さらに、ルカ福音書は「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」と、記しています。
  主イエスの言葉そのものが難しかったのではありません。言葉の意味はよく分かります。しかし、それを受け入れ、納得することができなかったということです。なぜ弟子たちが受け入れることができなかったかといいますと、彼らの期待に反することだったからです。弟子たちは主イエスがやがて王国を建設し、王となることを夢見ていました。それがユダヤ人の中で言い伝えられてきたメシア(キリスト)思想でした。そして、自分たちは主イエスの側近であり、やがて権力を手中にできると考えていたからです。主イエスの言葉は、そのような弟子たちの期待を裏切るものでした。そのため、彼らには主イエスの言葉が理解できなかったのです。
  苦難を受けるとか、十字架にかかるということは、弱さや敗北を意味しています。弟子たちにはそれを言う主イエスが弱気になっているとさえ見えたかも知れません。しかし、Ⅰコリント1章18節~2章16節で使徒パウロが告げるように、十字架の出来事は、私たちを救う神のご計画であり力なのです。聖霊の働きによらなければ悟ることのできない神の知恵なのです。
  もう一つ、彼らが理解できなかったのには「彼らにはこの言葉の意味が隠されていた」からです。彼らに主イエスの言葉の意味を隠したのは、神です。しかし、いつまでもというわけではなく、主イエスが復活する時まではということです。その時が来れば、弟子たちは神のご計画を知るだけでなく、そのご計画に参与し、神の救いの業、神の恵みを伝えるものとして、全世界へと遣わされていくのです。


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「すべての民の祈りの家」 2019年3月3日の礼拝

2019年06月03日 | 2018年度
イザヤ書56章3~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主のもとに集って来た異邦人は言うな
 主は御自分の民とわたしを区別される、と。
 宦官も、言うな
 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
 なぜなら、主はこう言われる
 宦官が、わたしの安息日を常に守り
 わたしの望むことを選び
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。
 その名は決して消し去られることがない。
 また、主のもとに集って来た異邦人が
 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
 安息日を守り、それを汚すことなく
 わたしの契約を固く守るなら
 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
 わたしの祈りの家の喜びの祝いに
   連なることを許す。
 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
 わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

マタイによる福音書21章12~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
 ところが、あなたたちは
   それを強盗の巣にしている。」
  境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。



  後に弟子たちが「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物」(マルコ13:1)と感嘆したように、エルサレムの神殿は、同じ寸法の大きく白い石で組み立てられており、神殿全体が白く輝いていました。これは、マタイ福音書2章に登場したヘロデ大王が建設したことからヘロデの神殿とも呼ばれています。神殿建設を開始してから主イエスの時代まで既に46年(ヨハネ2:20)かかっていますが、完成までになお30年近くかかりました。
  旧約聖書の時代からこの場所に神殿が置かれていましたが、ヘロデの神殿は、その歴史の中でも最も壮麗な建造物です。神殿域の中央には、聖所と至聖所から成る神殿があり、その周りに祭司だけが入ることが許されている「祭司の庭」、ユダヤ人の男性だけが入ることが出来る「イスラエルの庭」、ユダヤ人の女性たちが入る「婦人の庭」があります。ここには異邦人が入ることは許されず、踏み入った者はたとえローマ人でも処刑されたと言います。そして、エルサレムの神殿の特徴とも言えるかなり広い「異邦人の庭」があり、この場所には誰でも自由に出入りが出来ました。
  主イエスが入られた黄金門は、エルサレムの東に面しており、神殿への入り口にもなっています。黄金門を抜けると異邦人の庭に出ます。福音書に出てくる神殿の境内とは、この「異邦人の庭」のことです。
  先ほど触れたように、この異邦人の庭は、大勢の人々が行き来しています。その中に商売人たちや両替人たちがおり、商売をしていました。彼らは犠牲として献げるための動物を売り、献金のための貨幣に両替していたのです。神にささげる動物は傷のないものでなければなりません。そのため、ささげる前に祭司たちによってチェックされます。その動物に傷跡や病気の跡があれば、献げ物にふさわしくないとして退けられてしまいます。そこで、チェック済みの動物が神殿に用意されたのです。また一般に使われる貨幣には、肖像が刻まれていましたが、それは献金にふさわしくないとされ、肖像が刻まれていないユダヤの貨幣に両替する必要がありました。そして、これらの商売は大祭司の許可を得て行われていました。
  主イエスが商売のための台や腰掛けを倒し、売り買いをしていた人々を追い出しのはあまりにも乱暴な行為と言わざるを得ません。私たちが頭に思い描く主イエスの姿からかけ離れているように思われます。しかし、それほどに主イエスの怒りが大きいことを示しています。
  主イエスは、神殿で商売をしていることよりも、それを異邦人の庭で行っている事に怒っておられるのです。それは主イエスが引用された預言者イザヤの言葉「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである」に現れています。イザヤ書を見ると「すべての民の祈りの家」となっています。ユダヤ人だけではなく、すべての人々を救うことが神の御心なのです。ユダヤ人の祖先アブラハムを召し出したのも「地上の氏族はすべて祝福に入る」という目的がありました。神殿の異邦人の庭は、異邦人が唯一許されている礼拝の場です。商売人たちが礼拝に来る人々のための供え物の用意をしているわけですが、それを異邦人の祈りの場所を奪い取って行っているのです。それ故、「すべての民の祈りの家を、強盗の巣にしている」と主イエスは厳しく非難しておられるのです。
  主イエスが起こした行動は、献げ物の売り買いの場所を問題にしているだけではありません。献げ物そのものにも向けられています。
  神殿での出来事の数日後、主イエスは十字架にかかられます。これが動物の供え物が必要でなくなった根拠となりました。十字架にかかられた主イエスは動物よりはるかに優った犠牲であり、ヘブライ人への手紙が、「主イエス・キリストは罪を取り除く唯一のいけにえなので、もはや動物の供え物は必要ない」と告げているとおりです。
  また、神殿と主イエスとの関係も同じようなことが言えます。ヨハネ福音書2章19~22節に次のように記されています。
  「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
  マタイ福音書21章12~17節の出来事と似ています。主イエスは単に神殿の存在を批判したのではありません。神殿の役目、目的は、主イエス・キリストの到来によって終了したのです。動物の犠牲が必要でなくなったように。
  主イエスは、「神殿よりも偉大なものがここにある」(マタイ12:6)とおっしゃったことがありましたが、これはご自身のことを言っておられたのです。主イエスは神殿の役目をはるかに完全に果たされるのです。
  罪の赦しのための執り成しがなされ、神の赦しが宣言され、その恵みが語られる神殿。地上の神殿は不完全ではありましたが、その働きは充分果たされました。とは言え、その働きは主イエス・キリストが到来するまでのものでした。主イエスが到来したことにより、その役目は終了します。そして、完全な罪の赦しがすべての人に与えられるのです。
  マタイ21章14節以下に、主イエスがなさった奇跡と子供たちが讃美を歌った出来事が記されています。奇跡は救い主の到来を示す象徴的な出来事を示し、子供たちが歌う歌は、救い主を喜び迎える讃美です。こうして、この福音書は、待ち望んでいた救い主が到来した情景を私たちに示し、当時のユダヤの宗教的指導者のようなかたくなにならず、子供たちのように、到来した救い主を喜び迎えよと呼びかけています。

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「どうか主よ、私たちに救いを」 2019年2月24日の礼拝

2019年03月25日 | 2018年度
詩編118編22~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。

 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。


マタイによる福音書21章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
  イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


  オリーブ山を越えると、長い旅を続けてきた群衆のすぐ目の前にエルサレムの町がひろがります。疲れが一気に吹っ飛び、下り坂を意気揚々と進んでいきます。ろばに乗った主イエスを取り囲み進む群衆が叫びます。
  「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。」
  古くから祝祭の礼拝の中で歌われてきた詩篇118編です。
  この歌には神殿に入る情景が描かれ、神殿に入っていく人とそれを迎える人々が交互に歌うようになっています。
  「ホサナ」という言葉は、詩編118編25節の「どうか主よ、私たちに救いを」です。そして、「どうか主よ、私たちに栄えを」と続いています。この詩編は神の勝利を喜び、神に救われた事への感謝を歌っています。その中で「どうか主よ、私たちに救いを」と歌い、さらに救いと成功を願っているのです。
  主イエスと共にエルサレムに入ろうとしている群衆は、平和のために来られる王を迎えるようにして、自分の服や木の枝を道に敷き、この詩編を歌ったことでしょう。その様子は、まことに救い主を迎えるにふさわしいものでした。町に入った時、群衆は「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と、誇らしげに叫びました。
  さて、ホサナが「どうか主よ、私たちに救いを」という意味であることは、既に説明したとおりです。群衆が詩編118編を歌っていた時、さほど深く考えていなかったかも知れません。彼らがエルサレムへ来たのは、過越の祭りを祝うためであり、神の救いを切実に求めての言葉ではなかったかも知れません。しかし、それでも神は、人々を救おうとして、既に働き続けておられたのです。否、まさにその時が目の前に来ているのです。主イエスがエルサレムに来られたのは、過越の祭りを祝うと共に、全ての人々の救いのために十字架にかかろうとしていたのです。そのことは誰一人知りません。三度にわたって受難と復活を弟子たちに予告しておられましたが、その弟子たちもそれを理解できていませんでした。
  喜び叫ぶ群衆が、やがて「十字架につけろ」とののしることを、主イエスは知っておりました。しかし、この群衆をも救おうとして、十字架への道を歩まれたのです。「ホサナ。どうか主よ、私たちに救いを」の言葉を、主イエスは誰よりも真剣に受け止められました。福音書は、私たちにも、ホサナと真剣に祈るようにと勧め、主イエスは真の救いを与えてくださったと宣言しているのです。



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