詩編19編2~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。
そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
ローマの信徒への手紙1章18~32節(日本聖書協会「新共同訳」)
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
パウロは、ローマ書1章16~17節で、「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」と語りました。これは、ローマ書全体、否、聖書全体を貫く信仰の言葉です。
続く18節以下では、一転して人間の罪について語り始めます。しかし、興味深いことに、ここでは「罪」という言葉が使われておりません。新共同訳聖書の小さな表題に「人類の罪」とあるにもかかわらずです。余談ですが、この小さな表題は、もともと聖書の言葉ではなく、翻訳者がつけたものですから、無視しても差し支えありませんが、しかし、18節以下の内容を分かりやすく説明していますので、大変参考になります。そして、この部分を「人類の罪」としているのも間違ってはいません。18節以下では確かに「人類の罪」について記されています。ただここでは、「罪」という言葉を用いていません。実際、「罪」という言葉は、3章に入って初めて登場します。
それでは、人間の罪についてどのように語っているかと言いますと、天地の創造主なる神を自分の真の神と認めることをしなかったということから話し始めます。神に創られたすべての被造物は、神の永遠の力と神性を現しています。それによって、神を知ることができたはず。しかし、人間は、真の神を神と認めようとせず、被造物の像、すなわち滅び去る人間や鳥や獣や這うものに似せた像を神として拝んでいるというのです。
こうして、神と人間との本来あるべき正しい関係が、著しくゆがめられていることを指摘しています。このような神と人間とのゆがめられた関係は、人間と人間との関係もゆがめてしまいます。パウロは、24節以下で、それを語るのです。
まず男女間の問題が取り上げられます。現代の私たちからすると議論の多いところです。今は、このことを深く掘り下げることはしません。続いて語られるのは、悪意やねたみや殺意など、人間の心の問題、そして、そのような心の状態で引き起こす人間の行動の問題が取り上げられます。そして、そのすべてが、如何に罪深く悲惨であるかを告げています。
こうして、人間が神との正しい関係を拒んだため、人間と人間との関係もゆがめられ、悲惨な状況に陥っていると告げているのです。
しかし、パウロは、私たち人間の罪の状態とその悲惨さを語ることを最終的な目的としているのではありません。むしろ、このような悲惨な状態から、いかにして私たちが救われうるのかということに、私たちの目を向けさせようとしているのです。すなわち、1章16~17節で語った「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」ということに、目を向けさせようとしているのです。
神の力によって救われたなら、私たちはどういう状態になると期待できるのでしょうか。ローマ書1章18~32節と正反対のような文章があります。コリントの信徒への手紙 一 13章です。にいわゆる「愛の讃歌」と呼ばれていますが、12~14章の聖霊の働きについて語られている中で記されています。神の愛に生きるようにされた私たちは、聖霊の働きにより、このような生き方をすることができようにされていくと教えられているのです。神の力によって救われた私たちは、祝福された人間関係へと導かれていくと励まされているのです。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。
そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
ローマの信徒への手紙1章18~32節(日本聖書協会「新共同訳」)
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
パウロは、ローマ書1章16~17節で、「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」と語りました。これは、ローマ書全体、否、聖書全体を貫く信仰の言葉です。
続く18節以下では、一転して人間の罪について語り始めます。しかし、興味深いことに、ここでは「罪」という言葉が使われておりません。新共同訳聖書の小さな表題に「人類の罪」とあるにもかかわらずです。余談ですが、この小さな表題は、もともと聖書の言葉ではなく、翻訳者がつけたものですから、無視しても差し支えありませんが、しかし、18節以下の内容を分かりやすく説明していますので、大変参考になります。そして、この部分を「人類の罪」としているのも間違ってはいません。18節以下では確かに「人類の罪」について記されています。ただここでは、「罪」という言葉を用いていません。実際、「罪」という言葉は、3章に入って初めて登場します。
それでは、人間の罪についてどのように語っているかと言いますと、天地の創造主なる神を自分の真の神と認めることをしなかったということから話し始めます。神に創られたすべての被造物は、神の永遠の力と神性を現しています。それによって、神を知ることができたはず。しかし、人間は、真の神を神と認めようとせず、被造物の像、すなわち滅び去る人間や鳥や獣や這うものに似せた像を神として拝んでいるというのです。
こうして、神と人間との本来あるべき正しい関係が、著しくゆがめられていることを指摘しています。このような神と人間とのゆがめられた関係は、人間と人間との関係もゆがめてしまいます。パウロは、24節以下で、それを語るのです。
まず男女間の問題が取り上げられます。現代の私たちからすると議論の多いところです。今は、このことを深く掘り下げることはしません。続いて語られるのは、悪意やねたみや殺意など、人間の心の問題、そして、そのような心の状態で引き起こす人間の行動の問題が取り上げられます。そして、そのすべてが、如何に罪深く悲惨であるかを告げています。
こうして、人間が神との正しい関係を拒んだため、人間と人間との関係もゆがめられ、悲惨な状況に陥っていると告げているのです。
しかし、パウロは、私たち人間の罪の状態とその悲惨さを語ることを最終的な目的としているのではありません。むしろ、このような悲惨な状態から、いかにして私たちが救われうるのかということに、私たちの目を向けさせようとしているのです。すなわち、1章16~17節で語った「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」ということに、目を向けさせようとしているのです。
神の力によって救われたなら、私たちはどういう状態になると期待できるのでしょうか。ローマ書1章18~32節と正反対のような文章があります。コリントの信徒への手紙 一 13章です。にいわゆる「愛の讃歌」と呼ばれていますが、12~14章の聖霊の働きについて語られている中で記されています。神の愛に生きるようにされた私たちは、聖霊の働きにより、このような生き方をすることができようにされていくと教えられているのです。神の力によって救われた私たちは、祝福された人間関係へと導かれていくと励まされているのです。