八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「創造主なる神」 2020年11月8日の礼拝

2020年12月28日 | 2020年度
詩編19編2~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 天は神の栄光を物語り
 大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え
 夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく
 声は聞こえなくても
 その響きは全地に
 その言葉は世界の果てに向かう。

 そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。


ローマの信徒への手紙1章18~32節(日本聖書協会「新共同訳」)

  不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
  そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。



  パウロは、ローマ書1章16~17節で、「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」と語りました。これは、ローマ書全体、否、聖書全体を貫く信仰の言葉です。
  続く18節以下では、一転して人間の罪について語り始めます。しかし、興味深いことに、ここでは「罪」という言葉が使われておりません。新共同訳聖書の小さな表題に「人類の罪」とあるにもかかわらずです。余談ですが、この小さな表題は、もともと聖書の言葉ではなく、翻訳者がつけたものですから、無視しても差し支えありませんが、しかし、18節以下の内容を分かりやすく説明していますので、大変参考になります。そして、この部分を「人類の罪」としているのも間違ってはいません。18節以下では確かに「人類の罪」について記されています。ただここでは、「罪」という言葉を用いていません。実際、「罪」という言葉は、3章に入って初めて登場します。
  それでは、人間の罪についてどのように語っているかと言いますと、天地の創造主なる神を自分の真の神と認めることをしなかったということから話し始めます。神に創られたすべての被造物は、神の永遠の力と神性を現しています。それによって、神を知ることができたはず。しかし、人間は、真の神を神と認めようとせず、被造物の像、すなわち滅び去る人間や鳥や獣や這うものに似せた像を神として拝んでいるというのです。
  こうして、神と人間との本来あるべき正しい関係が、著しくゆがめられていることを指摘しています。このような神と人間とのゆがめられた関係は、人間と人間との関係もゆがめてしまいます。パウロは、24節以下で、それを語るのです。
  まず男女間の問題が取り上げられます。現代の私たちからすると議論の多いところです。今は、このことを深く掘り下げることはしません。続いて語られるのは、悪意やねたみや殺意など、人間の心の問題、そして、そのような心の状態で引き起こす人間の行動の問題が取り上げられます。そして、そのすべてが、如何に罪深く悲惨であるかを告げています。
  こうして、人間が神との正しい関係を拒んだため、人間と人間との関係もゆがめられ、悲惨な状況に陥っていると告げているのです。
  しかし、パウロは、私たち人間の罪の状態とその悲惨さを語ることを最終的な目的としているのではありません。むしろ、このような悲惨な状態から、いかにして私たちが救われうるのかということに、私たちの目を向けさせようとしているのです。すなわち、1章16~17節で語った「福音は救いをもたらす神の力であり、それは信仰を通して実現される」ということに、目を向けさせようとしているのです。
  神の力によって救われたなら、私たちはどういう状態になると期待できるのでしょうか。ローマ書1章18~32節と正反対のような文章があります。コリントの信徒への手紙 一 13章です。にいわゆる「愛の讃歌」と呼ばれていますが、12~14章の聖霊の働きについて語られている中で記されています。神の愛に生きるようにされた私たちは、聖霊の働きにより、このような生き方をすることができようにされていくと教えられているのです。神の力によって救われた私たちは、祝福された人間関係へと導かれていくと励まされているのです。




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「命の登録台帳」 2020年11月1日の礼拝

2020年12月23日 | 2020年度
ダニエル書12章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 その時、大天使長ミカエルが立つ。
 彼はお前の民の子らを守護する。
 その時まで、苦難が続く
 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
 しかし、その時には救われるであろう
 お前の民、あの書に記された人々は。
 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
 ある者は永遠の生命に入り
 ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
 目覚めた人々は大空の光のように輝き
 多くの者の救いとなった人々は
 とこしえに星と輝く。
  ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」


エフェソの信徒への手紙1章3~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。


  ダニエル書12章1節に「あの書に記された人々は救われる」とあります。「あの書」とは「命の書」のことで、この書に名が記されている人は救われると考えられていました。
  今日の説教題「命の登録台帳」は、宗教改革者カルヴァンのエフェソ書の説教の翻訳からとったものです。エフェソ書には「命の登録台帳」という言葉そのものはありませんが、「私たちが登録された台帳とは、まさしく私たちの主イエス・キリストそのものです」という言葉があります。ここからカルヴァンの説教の翻訳者が「命の登録台帳」という表題をつけたのです。
  エフェソ書1章3~4節に「キリストにおいて祝福される」、「キリストにおいて選ばれる」、という言葉があり、さらに5節には「神は、私たちをキリストによって神の子にしようと、前もって定めておられた」とあります。一言でいうと、キリストにおいて救われるということです。
  神の選びによって、私たちは救われたのですが、エフェソ書がその救いを「キリストにおいて」と告げていることは重要です。なぜなら、私たちの救いの根拠がキリストであるということがはっきり言われているからです。神に救われたということは、とてもありがたいことであるに違いありません。しかし、何故神は私たちを救ってくださったのか、またどのようにして救ってくださったのかということがはっきりしないと、本当に救われたのかどうか、不安は消えません。
  聖書は、私たちの罪の贖いとなり、また永遠の命にあずかるようにと、キリストが十字架にかかられ、よみがえらされたと告げています。このキリストに私たちの救いの根拠があり、確かさがあるのです。カルヴァンが「私たちが登録された台帳とは、まさしく私たちの主イエス・キリストそのものです」というのは、これが理由です。ですから、キリストを信じる私たちの名は、間違いなく「命の書」に記されているのです。
  使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、洗礼について、キリストの名による洗礼と言い、洗礼によって私たちがキリストの命に結ばれていると告げています。「命の書」に名を記すのは神ですが、キリストの名による洗礼によって、私たちはそのことを確認しているのです。
  このことに関連して、ルカによる福音書1章に記されている、ヨセフが登録するために自分の町ベツレヘムへ行ったという出来事を思い起こしてみましょう。彼は自分の町へ行って登録をしたことで何を思ったことでしょうか。ローマ帝国から強いられた人口調査のために危険な旅をし、多くの出費もあり、不快な思いをしたことでしょう。しかし、彼は自分の町に帰ったことで、自分が神の民の一員であること、ダビデの子孫のひとりであることを思い起こし、その自覚を新たにしたのではないでしょうか。私たちもこのヨセフに似ています。私たちはキリストの名による洗礼を受けた者です。礼拝のたびごとに、十字架と復活のキリストを思い起こし、自分がキリストによって救われた者という自覚、そして、「命の書」に名を記されている者という自覚を繰り返し新たにしていくのです。



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「神は悪を善に変えられた」 2020年10月25日の礼拝

2020年12月17日 | 2020年度
創世記50章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。
  「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」
  これを聞いて、ヨセフは涙を流した。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。
  「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。


ペトロの手紙の手紙 一 3章9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。


  創世記50章15~20節は、37章から始まるヨセフ物語の最後の部分になります。ヨセフの家族には十人の兄と一人の弟、そして父のヤコブがいました。ヨセフは父親に溺愛されたことと、夢を見ては自分が家族の中で最も高い地位につく夢を見ては自慢していたことから、兄たちに妬まれていました。
  ある時、父親の目を盗んで、兄たちが弟を奴隷商人に売り渡してしまいました。商人は、ヨセフをエジプトの高官に売り渡しましたが、無実の罪を着せられ、牢に投獄され、何年も牢に過ごすことになりました。
  このヨセフ物語には、神が奇跡を行ったということがほとんど記されていません。ただ、「主がヨセフと共におられ、恵みを施した」と繰り返されるだけです。しかし、ヨセフが救出されることなく、牢に入れられたままです。
  ある時、王に仕えていた給仕役と料理役がヨセフのいる牢に入れられてきました。二人はそれぞれ夢を見、ヨセフがその夢を解き明かし,給仕役は釈放され、料理役は死刑にされると告げました。数日の後、ヨセフが告げたとおりになりました。それから二年が過ぎ、王が夢を見、夢を解き明かせる人を探しました。その時、給仕役が自分の身に起きたことを王に告げ、それを聞いた王は、ヨセフを呼び出しました。王が見た夢を話すと、ヨセフは「王が見た夢は、神がこれからなさることを示しています。まず七年の豊作があり、続いて七年の飢饉がやってきます。そこで、今優れた人を選び、これに対処させるべきです」と進言しました。これを聞いた王は、ヨセフを王に次ぐ地位に就かせました。
  ヨセフの言った通り、七年の豊作があり、大量の食糧を貯えました。続いて七年の飢饉がやってきて、国中の人々がヨセフのところへ食料を求めてやってきました。国外からも多くの人々がやって来て、その中にヨセフの兄たちもいました。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、兄たちは全く気付きません。
  ヨセフは食料を渡しますが、言いがかりをつけます。兄たちが誠実な人間になったかどうかを試そうとしたのです。そんなやり取りがあった後、ヨセフは正体を明かし、父ヤコブや家族をエジプトに連れてくるようにと言います。飢饉はまだ続くので、ヨセフが保護するというのです。父ヤコブと兄弟たちの家族がエジプトに住み始めましたが、やがて父ヤコブが世を去りました。兄弟たちはヨセフの復讐を恐れますが、その時ヨセフが語ったのが50章15~20節の言葉です。
  ヨセフ物語は、奇跡が起こってヨセフが救出されたとは記していません。しかし、ヨセフと共にいて、多くの人々を救出されることを記しています。神の導きと、「神は悪を善に変えられた」ということが、この物語の主題なのです。
  全人類を救う神の働きも同じです。主イエス・キリストは、人間の悪によって十字架にかけ、死に至らせました。しかし、神は、これをすべての人間の罪の赦しのための犠牲とされたのです。神は人間の歴史へと突入し、歴史を通して人々を救われるのです。ヨセフが救出されるまで、時間がかかりましたが、いたずらにその時を引き延ばしているのではありません。最も良い時、最も良い形で恵みを与えようと、準備を整えておられるのです。そして、それは、今の私たちに対しても同じなのです。


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「救いをもたらす神の力」 2020年10月11日の礼拝

2020年12月07日 | 2020年度
ハバクク書2章4節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、高慢な者を。
 彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

ローマの信徒への手紙1章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


  使徒パウロは、自己紹介の後に、ローマの信徒たちを訪ね、福音を告げ知らせたいと言い、その直後に、突然「私は福音を恥としない」と言っています。何故このようなことを言い始めたのでしょうか。それは、キリストを信じない人々からは、パウロやキリスト教会の信仰が蔑まれていたという事情によります。パウロが福音として伝えていたのは、十字架で死に、三日目によみがえられたキリストが神の子であり、救い主であるということでした。しかし、この信仰を持つキリスト教会を、信仰を持たない人々が愚かな連中だと蔑んだのです。
  使徒言行録17章にパウロがアテネで伝道した様子が記されています。ギリシアには学問に熱心な町が多くあり、アテネの町もそういう町のひとつでした。
  パウロがキリスト教を宣べ伝えた時、興味を持った人々が大勢集まってきましたが、キリストの復活を話し始めると、聞いていた人々があざ笑い、去って行きました。死人の復活など、聞くに値しないと考えたからです。そのような反応するのはアテネばかりではありません。
  コリントの信徒への手紙一1章18節以下に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」とあります。「十字架の言葉」とは、キリストが十字架で死んだということだけを意味するのではなく、キリストの復活も含んでいます。コリントの教会の周囲にも復活を信じない人々が大勢いて、コリントの教会の人々の信仰もそれによって大きく揺れ動いていたことがわかります。
  このようなことは、アテネやコリントに限ったことではなく、いたるところで同じような状況があったに違いありません。パウロの時代から二千年たった現代においても同じような状況があります。キリストの復活を語っても、それを信じる人がほとんどいないという状況は全く同じです。
  ローマの教会でも、状況は全く同じことだったでしょう。彼らの周りには復活を信じないばかりか、復活について話そうとすると馬鹿にする人々が大勢いたに違いありません。パウロはそういう状況をよく知ったうえで、「私は福音を恥としない」と言うのです。
  「福音を恥としない」と言うことによって、パウロは何を言いたいのでしょうか。それは「福音を誇りとする」こと、「十字架と復活のキリストを誇りとする」ということです。先ほどのコリントの信徒への手紙の言葉でいえば、「福音は私たち救われる者には神の力」だということです。神は知恵ある者や経験豊かな者を救うこととされたのではなく、そのようなものを備わっていない人をも救うために、神の力によって救おうと決められたのです。それゆえ、福音を恥としないということは、それを誇りとすることであり、神を誇りとすることです。
  「私は福音を恥としない」と宣言するパウロとともに、私たちも福音を恥としません。むしろ、十字架と復活のキリストに、私たちを救う神の力があらわされたと確信し、全ての人にこの福音を宣べ伝えていくのです。


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