マラキ書3章23~24節(日本聖書協会「新共同訳」)
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
マタイによる福音書17章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
山を下りていく途中、弟子たちは主イエスに尋ねます。
「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。
彼らは、つい先ほど、主イエスの前にモーセとエリヤが現れたのを見たばかりでした。ですから、「主なる神が到来する前にエリヤが来る」と言っている律法学者の言葉を思い出し、なぜ彼らがそのように言っているかと尋ねたのです。
律法学者が言っていることは、マラキ書3章23~24節の記述が元になっています。旧約聖書にはエリヤが生きたまま火の車に乗って天に駆け昇った様子が記されています。そのため、天の昇ったエリヤが再び神に使わされて、地上に現れると信じられるようになったのです。
主イエスは、「確かにエリヤが来て、すべて元どおりにする」と答えられました。律法学者たちが言っていることに間違いはないとおっしゃっておられるのです。主イエスは言葉を続けます。
「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。」。
エリヤは確かに来たが、人々はそれを認めず、彼を苦しめ、ついに殺害してしまったというのです。この言葉を聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことだと悟りました。洗礼者ヨハネは旧約時代に生きたエリヤではありません。主イエスがおっしゃったのは、人々の心を神に向け直させると告げられていたエリヤの使命を果たすために、洗礼者ヨハネが遣わされたということです。すなわち、人々を悔い改めさせるということです。しかし、律法学者や祭司、また世の権力者たちは彼を認めようとせず、その言葉に耳を傾けることをしませんでした。それどころか、彼を苦しめ、ついに処刑してしまったのです。
主イエスは、さらに言葉を続けます。
「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
ご自身の受難を語っておられるのです。洗礼者ヨハネを受け入れなかった人々は、神の独り子をも受け入れないというのです。
なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。人々は自分が望むことを期待し、神のお望みになることを見ようとしなかったからです。そのような意味では、弟子たちも同じでした。主イエスを見る弟子たちの目には、近い将来、世の権力者となる主イエスの姿しか見えていませんでした。主イエスの言葉は、律法学者への批判ではなく、自分の欲望のために、神の真実を見ることができない弟子たちへの警告なのです。「自分の心から神の真実を妨げる誤った期待を取りのけよ」と。そして、それはわたしたちにも向けられた言葉でもあるのです。
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。
マタイによる福音書17章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
山を下りていく途中、弟子たちは主イエスに尋ねます。
「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。
彼らは、つい先ほど、主イエスの前にモーセとエリヤが現れたのを見たばかりでした。ですから、「主なる神が到来する前にエリヤが来る」と言っている律法学者の言葉を思い出し、なぜ彼らがそのように言っているかと尋ねたのです。
律法学者が言っていることは、マラキ書3章23~24節の記述が元になっています。旧約聖書にはエリヤが生きたまま火の車に乗って天に駆け昇った様子が記されています。そのため、天の昇ったエリヤが再び神に使わされて、地上に現れると信じられるようになったのです。
主イエスは、「確かにエリヤが来て、すべて元どおりにする」と答えられました。律法学者たちが言っていることに間違いはないとおっしゃっておられるのです。主イエスは言葉を続けます。
「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。」。
エリヤは確かに来たが、人々はそれを認めず、彼を苦しめ、ついに殺害してしまったというのです。この言葉を聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことだと悟りました。洗礼者ヨハネは旧約時代に生きたエリヤではありません。主イエスがおっしゃったのは、人々の心を神に向け直させると告げられていたエリヤの使命を果たすために、洗礼者ヨハネが遣わされたということです。すなわち、人々を悔い改めさせるということです。しかし、律法学者や祭司、また世の権力者たちは彼を認めようとせず、その言葉に耳を傾けることをしませんでした。それどころか、彼を苦しめ、ついに処刑してしまったのです。
主イエスは、さらに言葉を続けます。
「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
ご自身の受難を語っておられるのです。洗礼者ヨハネを受け入れなかった人々は、神の独り子をも受け入れないというのです。
なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。人々は自分が望むことを期待し、神のお望みになることを見ようとしなかったからです。そのような意味では、弟子たちも同じでした。主イエスを見る弟子たちの目には、近い将来、世の権力者となる主イエスの姿しか見えていませんでした。主イエスの言葉は、律法学者への批判ではなく、自分の欲望のために、神の真実を見ることができない弟子たちへの警告なのです。「自分の心から神の真実を妨げる誤った期待を取りのけよ」と。そして、それはわたしたちにも向けられた言葉でもあるのです。