八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「エリヤと洗礼者ヨハネ」 2018年7月15日の礼拝

2018年07月30日 | 2018年度
マラキ書3章23~24節(日本聖書協会「新共同訳」)

 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。

マタイによる福音書17章9~13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

  山を下りていく途中、弟子たちは主イエスに尋ねます。
 「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」。
  彼らは、つい先ほど、主イエスの前にモーセとエリヤが現れたのを見たばかりでした。ですから、「主なる神が到来する前にエリヤが来る」と言っている律法学者の言葉を思い出し、なぜ彼らがそのように言っているかと尋ねたのです。
  律法学者が言っていることは、マラキ書3章23~24節の記述が元になっています。旧約聖書にはエリヤが生きたまま火の車に乗って天に駆け昇った様子が記されています。そのため、天の昇ったエリヤが再び神に使わされて、地上に現れると信じられるようになったのです。
  主イエスは、「確かにエリヤが来て、すべて元どおりにする」と答えられました。律法学者たちが言っていることに間違いはないとおっしゃっておられるのです。主イエスは言葉を続けます。
  「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。」。
  エリヤは確かに来たが、人々はそれを認めず、彼を苦しめ、ついに殺害してしまったというのです。この言葉を聞いた弟子たちは、洗礼者ヨハネのことだと悟りました。洗礼者ヨハネは旧約時代に生きたエリヤではありません。主イエスがおっしゃったのは、人々の心を神に向け直させると告げられていたエリヤの使命を果たすために、洗礼者ヨハネが遣わされたということです。すなわち、人々を悔い改めさせるということです。しかし、律法学者や祭司、また世の権力者たちは彼を認めようとせず、その言葉に耳を傾けることをしませんでした。それどころか、彼を苦しめ、ついに処刑してしまったのです。
  主イエスは、さらに言葉を続けます。
  「人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 
  ご自身の受難を語っておられるのです。洗礼者ヨハネを受け入れなかった人々は、神の独り子をも受け入れないというのです。
  なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。人々は自分が望むことを期待し、神のお望みになることを見ようとしなかったからです。そのような意味では、弟子たちも同じでした。主イエスを見る弟子たちの目には、近い将来、世の権力者となる主イエスの姿しか見えていませんでした。主イエスの言葉は、律法学者への批判ではなく、自分の欲望のために、神の真実を見ることができない弟子たちへの警告なのです。「自分の心から神の真実を妨げる誤った期待を取りのけよ」と。そして、それはわたしたちにも向けられた言葉でもあるのです。


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「神の子の栄光」 2018年7月1日の礼拝

2018年07月24日 | 2018年度
出エジプト記34章29~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。
  モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

マタイによる福音書17章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
  一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

  17章1節の「高い山」は、ガリラヤ湖の数十キロ北にあるヘルモン山と思われます。この山で、主イエスが光り輝く姿に変わったということから、この出来事は「山上の変貌」と呼ばれています。
  山頂は夏でも雪が積もっており、今の時代でも、5月頃ごろまでは登山できません。主イエスがこの地を訪れたのが3~4月頃と思われますので、山頂ではなく、中腹に登られたのだろうと思われます。
  「六日の後」というのは、フィリポ・カイサリア地方でペトロが主イエスを神の子と告白し、主イエスがご自身の死と復活を予告された時から「六日の後」ということです。
  実際に六日間の時間の隔たりがあるのですが、マタイ福音書はその六日間の出来事をすべて省略し、一気に六日後の出来事に飛びます。そうすることによって、16章のペトロの主イエスへの神の子告白、主イエスの十字架と復活の予告が、17章の神の子としての栄光が現された山上の変貌の出来事とが結びつけられているのです。
  マタイ福音書は、神の独り子はどのようにしてその栄光を現すのか、またその使命を果たされるかということを示してきました。
  4章では、神の子なら石をパンに変えろとか高いところから飛び降りてみせろと、悪魔が誘惑したと記しています。これらは単に奇跡を求めたのではなく、神の子としての使命をそれらの奇跡によって果たせとそそのかしているのです。主イエスはそれらの奇跡によって神の子としての使命は果たせないと拒否されました。では、どのようにして神の子としての使命を果たすのかというと、16章21節で語られた十字架の死と復活によってと主イエスは答えられたのです。そのことはこれから後、次第にその意味がはっきりさせられていきます。
  17章の山上の変貌は、神の子としての主イエスの真の姿が明らかにされた出来事でしたが、しかし、それは予告された十字架と復活の出来事へと向かう新たな歩みを始める大きな転換点でもあったのです。
  山を下りられた主イエスと弟子たちは、南の方に向きを変え、旅を続けます。しかし、それはかつて伝道されていたガリラヤ地方が目的地ではありません。そのガリラヤ地方を通過し、さらに南へと下り、エルサレムへと向かうのです。このエルサレムこそが目的地であり、十字架と復活のための場所であったのです。そのエルサレムで過越の祭りを祝うと共に、その祭りの時にあわせて十字架にかけられる、これが神のご計画なのです。エルサレムは、すべての人々を罪から救うために、神が用意された場所であり、時なのです。
  17章4節に神の子としての主イエスの栄光の姿に心を打たれたペトロが、「ここに仮小屋を建てましょう」と申し出ました。神の子の栄光が現されたこの地に留まろうと提案しているのです。その時、雲がペトロたちを覆い、「これは私の愛する子、私の心にかなう者。これに聞け」と、神の声が響きました。主イエスに従えとの命令です。ヘルモン山において神の栄光が現されましたが、「ここに留まるな。すべての人々の救いのために、エルサレムへ向かえ」との神のご意志が明らかにされたのです。旧約聖書に記されている歴史は、主イエスの十字架の時に向かって流れていました。神がそのように歴史を通して働かれ、準備してこられたのです。今や神が定めておられた時が、間近に迫っています。これは多くの預言者たちが見たかったが見ることができなかったことです。(マタイ13章17節) 弟子たちはそれをこれから見ることになり、福音書を読むことによって、私たちもそれを見ることになるのです。




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「死と復活の予告」 2018年6月24日の礼拝

2018年07月16日 | 2018年度
イザヤ書55章8~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
   主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
   あなたたちの思いを、高く超えている。
 雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
   むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。

マタイによる福音書16章21~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」


  マタイ福音書は、その最初から、主イエスが神の独り子であることを明らかにしてきました。天使がヨセフにマリアが身ごもった子どもについて語った時、大人になった主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時、この福音書はずっと主イエスが神の独り子であることを告げてきました。そして、そのことを弟子たちに明らかにされたのが16~17章で、その意味で、この部分はこの福音書のクライマックスと言えます。
  マタイ福音書は、主イエスが神の独り子として何をなさるのかを、16章21~28節で初めて明らかにしています。それは、弟子たちも初めて知らされたことでした。マタイは「このときから」と記し、主イエスがご自身の死と復活を予告されたのはこの時だけではなく、これ以降何度も繰り返されたことを告げています。
  主イエスの死と復活の予告は、弟子たちに大きな衝撃を与えました。ペトロが主イエスをいさめたというのは、弟子たちが受けた衝撃の大きさを物語っています。ペトロの言葉は、弟子たち全員の気持ちを表しています。しかし、それは同時に、ペトロや弟子たちが主イエスにどのような期待を持っていたかを示してもいます。彼らは、主イエスが地上に王国を建設し、王となることを夢見ていたのです。そして、彼ら自身も、その暁には重い身分に取り立てられたいとの願望を強くしていたのです。マタイは、主イエスの死と復活の予告だけではなく、弟子たちの誤った期待もまた、「このときから」ますます強くなっていったと告げているのです。その度ごとに、主イエスは弟子たちの誤った期待を退けられましたが、主イエスが役人たちに捕らえられるまで、その期待が止むことがありませんでした。
  主イエスの死と復活の予告は、誤った期待を持つ弟子たちを正そうとする意味がありましたが、それはまた同時に、神の独り子が何故地上に来られたのかを明らかにするという目的もありました。それは、当時の弟子たちに対してだけではなく、この福音書を読む私たちに向けてのメッセージでもあるのです。
  マタイ福音書1章で天使がヨセフにマリアが身ごもった子が神の御子であることを告げ、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うから」と命じました。こうして、神の独り子の地上における使命が明らかにされました。4章では、石をパンに変えるとか、高いところから飛び降りるという悪魔の誘惑を退けましたが、それは神の独り子としての使命に関わることでした。人々の興味を引くことや、歓心を得ることによっては神の独り子としての使命を果たすことはできない。ただ神の御心が行われなければならないとの固い決意を示されたのです。神の御心は「人々を罪から救うこと」で、御子が真の人となって十字架にかかり、復活させられるということだったのです。
  4章の「退け、サタン」は、「どこかへ行ってしまえ」という意味ですが、16章のペトロに対する「サタン、引き下がれ」は、「私の後ろへ行け」という意味です。つまり、「私に従いなさい」と言っておられるのです。「サタン」と言うのも、この場合は「邪悪な者」という意味ではなく、神の御心を妨げようとしているという警告です。私たちも自分勝手な期待によって、神の御心を妨げてはいないかを、御言葉によって自らを質すべきでしょう。

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「あなたこそ神の子キリスト」 2018年6月17日の礼拝

2018年07月09日 | 2018年度
ミカ書5章1節(日本聖書協会「新共同訳」)

 エフラタのベツレヘムよ
 お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために
 イスラエルを治める者が出る。
 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

マタイによる福音書16章13~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


  主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖のほとりから北上し、フィリポ・カイサリアの近くに来ました。と言っても、それが目的地ではありません。さらに北にある山へ向かう途中でした。マタイ福音書は、その山において、主イエスが神の独り子としての栄光を現された事を記しています。この出来事の後、主イエスはエルサレムへと向かわれます。いよいよ十字架におかかりになる時が近づいたのです。高い山で主イエスが神の独り子としての栄光を現されましたが、その場所に留まることなく、エルサレムへ、十字架への歩みを続けられました。地上での生涯、特に3年にわたる福音宣教がこの十字架とそれに続く復活を目的にしていたからです。フィリポ・カイサリア近くでの出来事は、これからの主イエスの出来事の意味を明確にしていく大切な場面です。
  ポイントは三つあります。第一に、ペトロの主イエスに対する「神の子キリスト」告白、第二は主イエスが「キリストの教会を建てる」と宣言したこと、そして第三が主イエスの受難と復活の予告です。今日の礼拝では、最初の二つを扱います。
  主イエスは、最初に人々が主イエスに対してどのように見ているかを質問されました。これは決して人々の評判を気にしていたということではありません。この質問の後、弟子たちが主イエスをどのように見ているかを聞くための前振りです。
  ペトロは弟子たちを代表するようにして「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。立派な答えです。
  実を言いますと、弟子たちが主イエスを「神の子」と告白するのは二度目です。14章で主イエスが湖でペトロを水の上を歩かせ、嵐を沈めた時、この告白をしています。主イエスの奇跡を見た弟子たちの驚きの反応としてこの告白がなされたのです。これまでにも主イエスが数々の奇跡を行い、それを見た人々が驚いたり、恐れたりした反応が記されていましたが、湖の奇跡において、初めて「神の子」の告白がなされ、とても重要と言えます。
  しかし、ペトロの告白は主イエスの奇跡に驚いた結果というのではありません。主イエスは、ペトロの告白は父なる神の恵みの御業だとおっしゃいました。使徒パウロも「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語っています。信仰の告白は聖霊の働きなのです。
  ペトロの告白は確かに立派でした。しかし、ペテロが主イエスを正しく認識していなかったことは、その後のペトロや弟子たちの様子から明らかです。弟子たちの期待は地上に王国が立てられ、自分たちが重臣として重く用いられることでした。その期待は神の御心から遠く離れていると、主イエスはたびたび諭していきます。主イエスは教会を建てると宣言なさいましたが、弟子たちは、それを絶大な権力が自分たちに与えられると思い違いをしたようです。後に、主イエスは、ご自身が「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」と告げ、「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26~28)と諭されました。神の御心はキリストによってすべての人を救うことにありました。教会は、それを伝えるために建てられ、その救いを伝える権威を与えられているのです。



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「腐敗の象徴としてのパン種」 2018年6月3日の礼拝

2018年07月02日 | 2018年度
申命記16章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。七日間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。過越のいけにえを屠ることができるのは、あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででもよいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい。六日間酵母を入れないパンを食べ、七日目にはあなたの神、主のために聖なる集まりを行い、いかなる仕事もしてはならない。

マタイによる福音書16章5~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。


  主イエスの前に、ファリサイ派とサドカイ派の人々がやって来て、天からのしるしを求めたことが16章1~4節に記されています。天からのしるしというのは、旧約の時代から約束されていた主なる神の到来の時のことです。しかし、彼らはそれを真剣に知りたかったのではなく、主イエスを罠にかけ、訴える口実を得ようとしていたのです。彼らの求めを退け、旅を続ける主イエスが一緒にいる弟子たちに語られた言葉が「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」でした。
  聖書において、しばしばパン種は腐敗の象徴として使われます。そして、今日の御言葉の「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」は、その意味で使われ、彼らの教え、悪影響を警告しているのです。
  主イエスが弟子たちにこのような警告をしたのは、しばらく前にファリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスを罠にかけようとしていたからですが、さらに重要なことは、彼らが求めた「天からのしるし」、「神の時」が間近に迫っていたからでした。
  マタイ16章13~28節に、ガリラヤ湖の北数十キロのところにあるフィリポ・カイサリアの町の近くで、ペトロが主イエスを「生ける神の子」と告白し、それに対して主イエスがご自分の受難と復活を予告されます。その後、さらに北の方にある高い山で主イエスの姿が光り輝き、神の独り子としての栄光を現されました。山を下りた主イエスは、弟子たちと共にエルサレムへ向かいます。過越の祭りをエルサレムで迎えるためであり、先に予告されたようにエルサレムで十字架にかかり、復活なさるためでした。主イエスが弟子たちに警告されたのは、その祭りが、おそらく約一ヶ月後と迫っていた時と思われます。ファリサイ派とサドカイ派の人々が求めた「神の時」を弟子たちに伝えようとしているのです。しかし、神の到来は人々が期待するようなあり方ではありません。人々から苦しめられ、十字架の上で死ぬ。光り輝く姿は隠され、すべての人々の罪の贖いとして、ご自身を犠牲としてささげる。これが約束された神の到来の出来事があり、その時が今まさに迫っているのです。
  ファリサイ派とサドカイ派はユダヤ人の中で宗教的・政治的に対立していましたが、共に一般のユダヤ人に対して指導的立場にあり、影響力がありました。問題は、彼らが対立していることではなく、神の御言葉をゆがめて解釈し、人々に教えていることでした。
  主イエスの十字架と復活に向かって、歴史が動いています。それは神がそのように定め、働いてこられた歴史です。その神のみ業を無意味なものにしてはならない、腐らせてはならないと、主イエスは警告されているのです。
  私たちの期待によって神を見、御言葉を聞くならば、ファリサイ派とサドカイ派の人々と同じように、御言葉をゆがめ、人々を神の救いから遠ざけてしまいます。ですから、彼らの悪影響に気をつけよと言うだけでなく、私たち自身が悪影響を与える者となってはならないとも警告されているのです。


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