八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「パウロの心の痛み」 2021年8月15日の礼拝

2021年08月30日 | 2021年度
申命記7章6~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
  あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。


ローマの信徒への手紙9章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。


  ローマの信徒への手紙9章からは、「神の選びの確かさ」という新しい主題になります。具体的には、9章から11章は、ユダヤ人の救いについて論じられています。しかし、それは単にユダヤ人が救われるかどうかという問題だけではありません。パウロは、ユダヤ人の一人ですから、当然同胞のユダヤ人の救いについて強い関心を持っています。しかし、ただ同胞の救われるかどうかを心配するだけではありません。
  ユダヤ人は神に選ばれた民族です。神がお選びになったということであるならば、その選ばれた民が、もし救いからはずされるということになると、神の選びそのものも不確かなものなのかということをここで扱っているのです。
  8章39節に「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあり、私たちが救われたことの確かさを語ったのです。このように、キリストの救いを語ってきたところで、「それではキリストの救いから洩れたように見えるユダヤ人はどうなのだろうか」と考え、9章でこの問題を扱っているのです。
  パウロが同胞のユダヤ人のことを心配するのは、特に不思議なことではありません。ただ、パウロがそのユダヤ人からどう扱われたか考えますと不思議に思わざるを得ません。
  パウロは、今のトルコ、ギリシアのあたりを伝道して回りました。彼らはまずユダヤ人の共同体を訪ねました。その時、パウロが宣べ伝えた言葉を、すぐ受け入れた人もいましたが、逆にパウロを捕らえ、むち打ち、追い出し、また別のところでは命からがら町から脱出することもありました。そして、遂に「私は異邦人の所へ行く」と宣言し、異邦人への伝道を本格的に始めていったのです。
  このように振り返ってみますと、今日のローマ書にある同胞の救いに対する熱い思いに対して、「あれほど苦しい目に遭わされても、やはり同じ民族の人間がかわいいのか」というように皮肉に考える人もいるかも知れません。しかし、パウロが強い関心を持っているのはそれだけではありません。むしろ、神に選ばれた人々の救いの確かさなのです。
  結論を先に言いますと、パウロは、ユダヤ人も救いの中に置かれていると主張します。ユダヤ人の罪によって異邦人が救いに定められましたが、異邦人が救われたことを見るユダヤ人の心に妬みを起こさせ、ユダヤ人もキリストによって救われることを願うようにする。こうして、すべての人々が救われる。これが神の御計画であるとパウロは言うのです。
  先にも言いましたように、パウロはユダヤ人から迫害され、パウロは異邦人に伝道するようになりました。しかし、彼の心にはユダヤ人への怒りはあったでしょうが、憎しみはありませんでした。パウロ自身「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言っています。この言葉通り、パウロはユダヤ人のために悔い改めるようにと執り成しの祈りと祝福を祈っていたのではないでしょうか。私たちも同胞の日本人のために、悔い改めるようにと執り成し、祝福を祈りましょう。





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「神の愛の勝利」 2021年8月8日の礼拝

2021年08月26日 | 2021年度
詩編23編1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく
   わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。


ローマの信徒への手紙8章31~39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 「わたしたちは、あなたのために
   一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。



  主イエス・キリストの名による洗礼を受けた私たちが、キリストと結ばれており、神の子としての身分と恵み、そして永遠の命を与えられています。とは言え、私たちには罪の残滓があり、また神の国に入ったのではなく、その途上にあります。パウロは現実的な人間であり、夢想家ではありません。それ故、私たちの地上での生活には悩みや苦しみがある(8:17、18)と言います。しかし、それは神の知らないところで起こっているのではありません。神はこれらの悩み苦しみを用いて、私たちを霊的に成長させようとしておられるのです。ですから、パウロは神を信頼し、この悩み苦しみを耐えるようにと励ましています。
  私たちが救われたのは、私たちの行いによるのではなく、神の力によるものです。すなわち、私たちが救われることは神の御意志なのです。ですから、パウロは「神は・・・あらかじめ定めておられた」(8:29)と言うのです。
  「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(8:31)は、単なる仮定の話のように見えますが、そうではありません。むしろ、神が私たちの味方なのだから、誰も敵対することはできないと断言しているのです。同じように、「神が私たちを選んでくださった」、「神が私たちを義としてくださっている」、「それゆえ、誰も私たちを罪に定めることはできない」、「しかも、キリストが神の右に座し、私たちのために執り成しをしてくださっている」、「このように、十字架と復活のキリストによって、私たちに対する愛を示してくださっているので、この神の愛から私たちを引き離すことは、誰にもできない」と、言葉を続けていきます。
  最初にも言いましたように、パウロは地上での生活には悩みや苦しみがあることをよく知っています。彼自身、これまで何度も迫害を受けてきました。35節の「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」という言葉には、彼の実感がこもっています。しかも、彼はその迫害を嘆いているというよりは、これらの迫害にもかかわらず、神に守られ、導かれたと証をし、神の愛と救いの確かさを告げるのです。パウロはこれを神の愛の勝利だと宣言します。
  「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(8:37) 神が勝利したと言うだけでなく、私たち自身が勝利したかのように、その勝利を神が私たちに与えてくださったというのです。
  主イエス・キリストも「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と語られました。
  この世における私たちの人生には、苦難があります。しかし、神の知らないところで起こっているのではありません。神はそれらの苦難を私たちの霊的な成長のために用いてくださり、「義という平和に満ちた実を結ばせてくださる」(ヘブライ12:11)のです。


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「執り成しをする霊」 2021年8月1日の礼拝

2021年08月23日 | 2021年度
イザヤ書53章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 彼は自らの苦しみの実りを見
 それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
 彼が自らをなげうち、死んで
 罪人のひとりに数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い
 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった。


ローマの信徒への手紙8章26~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。


  パウロは、「命をもたらす霊の法則」(8:2)、「霊の支配下にある」(8:9)、「神の子とする霊を受けた」(8:15)と語り、私たちキリスト者の救いと聖霊の働きとの関係について語ってきました。そして、26~27節では、聖霊が私たちのために執り成しをしてくださると繰り返しています。
  執り成しということで思い出されるのは、主イエスが十字架上で息を引き取る前に言われた「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているかわからないのです」(ルカ23:34)という言葉とか、ステファノの「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)という言葉です。それに加えて、皆さんにご紹介したいのが創世記18章にあるアブラハムの執り成しです。
  アブラハムには甥のロトがいましたが、ロトはアブラハムと別れてからはソドムという町に住んでいました。しかし、この町が大変罪深かく邪悪であったため、神がこの町を滅ぼそうとされていました。遠くで生活していたアブラハムのもとに神の使いが現れ、ソドムを滅ぼそうとする神の御計画を伝えます。
  アブラハムはこの町の邪悪さをよく知っておりました。以前、この町が敵から襲われ、ロトと住民を捕虜として連行したとき、アブラハムは仲間とともに、ロトたちを救出しました。この時、ソドムの王がアブラハムにお礼をしようと申し出ましたが、アブラハムはきっぱりと断ります。アブラハムはソドムの邪悪さをよく知っており、ソドムの味方をしたのは甥のロトを救出することだけが目的だったからです。
  神の使いの話を聞いたアブラハムは「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがするはずがない。全くありえないこと」と言って嘆願します。神の使いが「その後十人のためにその町を滅ぼさない」と言うと、アブラハムは「「それでは五十人ではなく、四十人しかいなかったらどうでしょうか」と尋ねます。神の使いが「滅ぼさない」というとさらにアブラハムは「三十人では?」、「二十人では?」、「十人では?」と重ねて尋ねていきました。そして、神の使いは「滅ぼさない」と告げて去っていきました。
  結局、ソドムの町は滅ぼされてしましましたが、ロトとその家族だけは救出されました。
  話を元に戻します。聖霊が私たちのために執り成しをしてくださっているということですが、それは、この地上での私たちには試練があります。この試練は神が私たちを神の御心にますます大きく成長成長するために必要なことで、私たちに忍耐するようにと教えています。地上における私たちの生活は完全ではありません。失敗することは多く、また人を傷つけてしまうこともあります。その意味では、私たちはいまだ罪人です。しかし、聖霊が私たちと共にいて、執り成しをしてくださっているのです。子なるキリストも神の右にいて執り成しをしてくださっており、聖霊も私たちと共にいて導き、私たちのために執り成しをしてくださっているのです。ここに、私たちキリスト者の生活の基盤があるのです。



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「三位一体の神」 2021年7月25日の礼拝

2021年08月09日 | 2021年度
申命記6章4~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

コリントの信徒への手紙 二 13章13節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


  毎週、礼拝の中で「日本基督教団信仰告白」を唱えていますが、その中で「三位一体の神」という言葉が出てきます。私たちが信じる神は「三位一体の神」であると告白しているわけです。
  「三位一体」というのは、父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊が唯一の神として存在しているということを言い表しています。
  神は唯一であるというのは、申命記6章4~5節に出てきますし、新約聖書の時代から今の時代に至るまで、その信仰が受け継がれています。ところが、三位一体という言葉は聖書には出てきません。新約聖書よりずっと後になって作られた言葉だからです。しかし、この言葉自体はありませんでしたが、新約聖書には、この信仰が示されています。たとえば、第二コリント13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という言葉もそれを示しています。
  旧約聖書の時代、神と私たちの関係を比喩的に神を父と説明することはありましたが、当時の人々は神を父と呼んで祈ることはありませんでした。しかし、主イエスはご自分が真の神の独り子であることを示し、神を父と呼んで祈りました。それだけでなく、弟子たちにも、神を父と呼んで祈るように教えられました。私たちが唱える「主の祈り」の冒頭に「天にましますわれらの父よ」という言葉があるのもそういう理由によります。キリストを信じる私たちは神の子の身分を与えられ、神を父と呼ぶことが許されたのです。
  さて、旧約聖書には神から送られる「霊」はたびたび出てきますが、サムエル記上16章には、初代の王サウルに神から悪霊が送られ、彼を悩ませたという記述が出てきます。悪霊が神から遣わされるというのは不思議なことですが、旧約の時代、神からの霊には良い霊と悪霊があると信じられていたようです。
  主イエスは、十字架にかけられる前の夜、弟子たちに、主イエスが去った後に弁護者が神から遣わされてくると言いました。なお、この「弁護者」という言葉は、口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。そして、その弁護者は真理の霊であると教えられました。主イエスは、この霊を神からの「力」という意味ではなく、ひとりの人格ある存在として告げておられます。これが聖霊です。この聖霊は、父なる神と子なるキリストから出て、私たちに遣わされます。
  私たちは父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊を信じていますが、三つの神ではなく、三つの人格を持つ一人の神を信じており、それを表現するために「三位一体の神」と呼んでいるのです。東方正教会(ロシア正教、ギリシア正教)やローマ・カトリック教会、プロテスタント教会は、教会の組織や礼拝の仕方に違いはありますが、三位一体の神を信じているという意味では、同じ信仰を持っていると言えます。しかし、私たちの教会と似た組織や集会を持っていたとしても、三位一体の神を信じていないならば、同じキリストの教会とは言えません。
  三位一体の神とは、哲学的に神を定義するための言葉ではありません。神が私たちをどのように救い、導いてくださったかを示す信仰の言葉なのです。



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「忍耐して待ち望む意味」 2021年7月18日の礼拝

2021年08月05日 | 2021年度
箴言3章11~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わが子よ、主の諭しを拒むな。
 主の懲らしめを避けるな。
 かわいい息子を懲らしめる父のように
 主は愛する者を懲らしめられる。


ローマの信徒への手紙8章18~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。



  8章14~17節において、キリストに結ばれた私たちが神の子とされ、しかもそれは神の相続人だとも言われていました。私たちがどれほど大きい恵みを受け、幸いな人間であるかを示していると言えます。しかし、その最後の17節で「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」とも言われていました。
  キリストによって救われたはずの私たちが、幸いを受けるだけでなく、苦しみをも受けると言われていることには納得しにくいところがあります。事実、信仰者が苦しんでいる現実があります。信じれば苦しみがなくなるとは言いません。むしろ、苦しみに会うのが当然であるかのように言います。ある意味、まことに正直であり、現実をしっかり見ていると言えます。しかし、なぜ、救われているはずなのに苦しまなければならないのでしょう。
  聖書は、それを人間の罪ということから説明しています。神が天地を創造された時、被造物はすべて良いものでした。人間も神のかたちに創造されたとあります。しかし、罪を犯したことにより、人間は神のかたちを失いました。それだけでなく、被造物も良いものではなくなりました。それは、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」という神の言葉にもあらわれていますし、ローマ書8章20節の「被造物は虚無に服している」も、その状況を示しています。
  人間の罪によってすべての人間は他の被造物と同じように罪に服しています。それは、言い換えますと、すべての人間は罪人であり、神に逆らう者となったということです。
  神に救われた人は、神の側に立つ者とされたのですが、それは神に逆らう他の罪人から見ると、罪人たちと対立する存在に見えるのです。神に逆らい続ける罪人にとってはそのようにしか見えないということです。
  こういうわけで、私たちの人生には苦しみが伴うということなのです。しかし、それは主イエスがこの地上に来られたことにも現れていました。全ての人を救うために来られた主イエスを、罪人たちは十字架につけ、殺してしまいました。罪人たちは、神の敵対者としての姿を現したのです。神に救われた人々がこの地上において苦しみを受けるというのは、主イエスに結ばれて救われているからなのです。しかし、それは、主イエスを信じるゆえに苦しめられる私たちが、神の側に立っていることを証明してもいるのです。
  パウロが耐え忍びなさいと教えているのは、主イエスと同じように苦しみを受けても、主イエスが復活されたように、私たちも主イエスの復活にあずかっているのであり、キリストの永遠の命に生かされているので、耐え忍ぶようにと教えているのです。
  この苦しみは無意味なものではありません。私たちを苦しめる事柄を神はご存じであり、しかも、これを私たちを神をますます信頼するようになるための訓練として、用いておられるのです。やがて私たちが神から賜る栄光に目を注ぎつつ、耐え忍ぼうと勧めているのです。



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