申命記7章6~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。
ローマの信徒への手紙9章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ローマの信徒への手紙9章からは、「神の選びの確かさ」という新しい主題になります。具体的には、9章から11章は、ユダヤ人の救いについて論じられています。しかし、それは単にユダヤ人が救われるかどうかという問題だけではありません。パウロは、ユダヤ人の一人ですから、当然同胞のユダヤ人の救いについて強い関心を持っています。しかし、ただ同胞の救われるかどうかを心配するだけではありません。
ユダヤ人は神に選ばれた民族です。神がお選びになったということであるならば、その選ばれた民が、もし救いからはずされるということになると、神の選びそのものも不確かなものなのかということをここで扱っているのです。
8章39節に「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあり、私たちが救われたことの確かさを語ったのです。このように、キリストの救いを語ってきたところで、「それではキリストの救いから洩れたように見えるユダヤ人はどうなのだろうか」と考え、9章でこの問題を扱っているのです。
パウロが同胞のユダヤ人のことを心配するのは、特に不思議なことではありません。ただ、パウロがそのユダヤ人からどう扱われたか考えますと不思議に思わざるを得ません。
パウロは、今のトルコ、ギリシアのあたりを伝道して回りました。彼らはまずユダヤ人の共同体を訪ねました。その時、パウロが宣べ伝えた言葉を、すぐ受け入れた人もいましたが、逆にパウロを捕らえ、むち打ち、追い出し、また別のところでは命からがら町から脱出することもありました。そして、遂に「私は異邦人の所へ行く」と宣言し、異邦人への伝道を本格的に始めていったのです。
このように振り返ってみますと、今日のローマ書にある同胞の救いに対する熱い思いに対して、「あれほど苦しい目に遭わされても、やはり同じ民族の人間がかわいいのか」というように皮肉に考える人もいるかも知れません。しかし、パウロが強い関心を持っているのはそれだけではありません。むしろ、神に選ばれた人々の救いの確かさなのです。
結論を先に言いますと、パウロは、ユダヤ人も救いの中に置かれていると主張します。ユダヤ人の罪によって異邦人が救いに定められましたが、異邦人が救われたことを見るユダヤ人の心に妬みを起こさせ、ユダヤ人もキリストによって救われることを願うようにする。こうして、すべての人々が救われる。これが神の御計画であるとパウロは言うのです。
先にも言いましたように、パウロはユダヤ人から迫害され、パウロは異邦人に伝道するようになりました。しかし、彼の心にはユダヤ人への怒りはあったでしょうが、憎しみはありませんでした。パウロ自身「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言っています。この言葉通り、パウロはユダヤ人のために悔い改めるようにと執り成しの祈りと祝福を祈っていたのではないでしょうか。私たちも同胞の日本人のために、悔い改めるようにと執り成し、祝福を祈りましょう。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。
ローマの信徒への手紙9章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ローマの信徒への手紙9章からは、「神の選びの確かさ」という新しい主題になります。具体的には、9章から11章は、ユダヤ人の救いについて論じられています。しかし、それは単にユダヤ人が救われるかどうかという問題だけではありません。パウロは、ユダヤ人の一人ですから、当然同胞のユダヤ人の救いについて強い関心を持っています。しかし、ただ同胞の救われるかどうかを心配するだけではありません。
ユダヤ人は神に選ばれた民族です。神がお選びになったということであるならば、その選ばれた民が、もし救いからはずされるということになると、神の選びそのものも不確かなものなのかということをここで扱っているのです。
8章39節に「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあり、私たちが救われたことの確かさを語ったのです。このように、キリストの救いを語ってきたところで、「それではキリストの救いから洩れたように見えるユダヤ人はどうなのだろうか」と考え、9章でこの問題を扱っているのです。
パウロが同胞のユダヤ人のことを心配するのは、特に不思議なことではありません。ただ、パウロがそのユダヤ人からどう扱われたか考えますと不思議に思わざるを得ません。
パウロは、今のトルコ、ギリシアのあたりを伝道して回りました。彼らはまずユダヤ人の共同体を訪ねました。その時、パウロが宣べ伝えた言葉を、すぐ受け入れた人もいましたが、逆にパウロを捕らえ、むち打ち、追い出し、また別のところでは命からがら町から脱出することもありました。そして、遂に「私は異邦人の所へ行く」と宣言し、異邦人への伝道を本格的に始めていったのです。
このように振り返ってみますと、今日のローマ書にある同胞の救いに対する熱い思いに対して、「あれほど苦しい目に遭わされても、やはり同じ民族の人間がかわいいのか」というように皮肉に考える人もいるかも知れません。しかし、パウロが強い関心を持っているのはそれだけではありません。むしろ、神に選ばれた人々の救いの確かさなのです。
結論を先に言いますと、パウロは、ユダヤ人も救いの中に置かれていると主張します。ユダヤ人の罪によって異邦人が救いに定められましたが、異邦人が救われたことを見るユダヤ人の心に妬みを起こさせ、ユダヤ人もキリストによって救われることを願うようにする。こうして、すべての人々が救われる。これが神の御計画であるとパウロは言うのです。
先にも言いましたように、パウロはユダヤ人から迫害され、パウロは異邦人に伝道するようになりました。しかし、彼の心にはユダヤ人への怒りはあったでしょうが、憎しみはありませんでした。パウロ自身「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言っています。この言葉通り、パウロはユダヤ人のために悔い改めるようにと執り成しの祈りと祝福を祈っていたのではないでしょうか。私たちも同胞の日本人のために、悔い改めるようにと執り成し、祝福を祈りましょう。