詩編8編2~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
報復する敵を絶ち滅ぼされます。
あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
羊も牛も、野の獣も
空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
ヘブライ人への手紙11章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まっています。
聖書の最初にある創世記は、神が天地を造られたという出来事から始まっています。この天地創造の物語は、全ての物には存在する意味があること、また、神の意図に反してできたものはないということを教えています。私たち人間も目的をもって造られており、意味あるもの、価値あるものとして造られているのです。
私たちが自分の生きる意味を見失った時、神に尋ねることができます。それが祈るということです。たとえすぐに答えが与えられなかったとしても、一番良い時に、必ず神は答えてくださいます。
神は、ご自身が造られたものに対して責任を持っておられ、今も私たちのために働いておられます。主イエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハネ5:17)と言われたように、神は今も、働いているのです。
天地創造の次は、神が全能であるということです。
神が全能であるということは当たり前のことのようで、わざわざそれを言う必要はないように思えるかもしれませんが、私たちの救いについて神が全能であると告白することは重要なことなのです。
主イエスは弟子たちに、「人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」言いました。それを聞いた弟子たちは、「それでは、誰が救われるだろうか」互いに言っていると、主イエスは「人にはできないが神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:25~27)と言われました。
私たちの救いのために、神は全能の力を用いられるのです。そして、逆に言うと、この神の全能の力によらなければ、誰も救われないということをも示しているのです。ですから、主イエスは、「人にはできないが神にはできる」と言われたのです。
最後は、神が私たちの父となってくださったということです。
旧約聖書の時代、神が私たちの父であるということは、神と信仰者との関係を示す比喩として言われてはいましたが、本当に父となってくださったという意味ではありませんでした。
しかし、主イエスは、ご自身が真の神の独り子であることを示すと共に、神が私たちを子としてくださったと告げ、私たちに、祈る時には神を「父よ」と呼ぶように教えてくださったのです。主イエスのように神の実子ではありませんが、神の養子となったのです。そして、神は私たちの保護者として守ってくださっているのです。
ただ、保護者と言っても甘やかすだけの方ではありません。私たちを鍛えるため、試練をも与えます。「これを鍛錬として、忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。・・・霊の父(神)は私たちの益となるように、・・鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われますが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:7~11)とある通りです。
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
報復する敵を絶ち滅ぼされます。
あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
羊も牛も、野の獣も
空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
ヘブライ人への手紙11章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まっています。
聖書の最初にある創世記は、神が天地を造られたという出来事から始まっています。この天地創造の物語は、全ての物には存在する意味があること、また、神の意図に反してできたものはないということを教えています。私たち人間も目的をもって造られており、意味あるもの、価値あるものとして造られているのです。
私たちが自分の生きる意味を見失った時、神に尋ねることができます。それが祈るということです。たとえすぐに答えが与えられなかったとしても、一番良い時に、必ず神は答えてくださいます。
神は、ご自身が造られたものに対して責任を持っておられ、今も私たちのために働いておられます。主イエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハネ5:17)と言われたように、神は今も、働いているのです。
天地創造の次は、神が全能であるということです。
神が全能であるということは当たり前のことのようで、わざわざそれを言う必要はないように思えるかもしれませんが、私たちの救いについて神が全能であると告白することは重要なことなのです。
主イエスは弟子たちに、「人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」言いました。それを聞いた弟子たちは、「それでは、誰が救われるだろうか」互いに言っていると、主イエスは「人にはできないが神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:25~27)と言われました。
私たちの救いのために、神は全能の力を用いられるのです。そして、逆に言うと、この神の全能の力によらなければ、誰も救われないということをも示しているのです。ですから、主イエスは、「人にはできないが神にはできる」と言われたのです。
最後は、神が私たちの父となってくださったということです。
旧約聖書の時代、神が私たちの父であるということは、神と信仰者との関係を示す比喩として言われてはいましたが、本当に父となってくださったという意味ではありませんでした。
しかし、主イエスは、ご自身が真の神の独り子であることを示すと共に、神が私たちを子としてくださったと告げ、私たちに、祈る時には神を「父よ」と呼ぶように教えてくださったのです。主イエスのように神の実子ではありませんが、神の養子となったのです。そして、神は私たちの保護者として守ってくださっているのです。
ただ、保護者と言っても甘やかすだけの方ではありません。私たちを鍛えるため、試練をも与えます。「これを鍛錬として、忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。・・・霊の父(神)は私たちの益となるように、・・鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われますが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:7~11)とある通りです。