八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「天地の造り主、全能の父なる神」 2021年8月29日の礼拝

2021年09月20日 | 2021年度
詩編8編2~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

   主よ、わたしたちの主よ
   あなたの御名は、いかに力強く
   全地に満ちていることでしょう。

 天に輝くあなたの威光をたたえます
 幼子、乳飲み子の口によって。
 あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
 報復する敵を絶ち滅ぼされます。

 あなたの天を、あなたの指の業を
   わたしは仰ぎます。
 月も、星も、あなたが配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは
   人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう
   あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
   その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

   主よ、わたしたちの主よ
   あなたの御名は、いかに力強く
   全地に満ちていることでしょう。


ヘブライ人への手紙11章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

  信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
  信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。



  使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉で始まっています。
  聖書の最初にある創世記は、神が天地を造られたという出来事から始まっています。この天地創造の物語は、全ての物には存在する意味があること、また、神の意図に反してできたものはないということを教えています。私たち人間も目的をもって造られており、意味あるもの、価値あるものとして造られているのです。
  私たちが自分の生きる意味を見失った時、神に尋ねることができます。それが祈るということです。たとえすぐに答えが与えられなかったとしても、一番良い時に、必ず神は答えてくださいます。
  神は、ご自身が造られたものに対して責任を持っておられ、今も私たちのために働いておられます。主イエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハネ5:17)と言われたように、神は今も、働いているのです。
  天地創造の次は、神が全能であるということです。
  神が全能であるということは当たり前のことのようで、わざわざそれを言う必要はないように思えるかもしれませんが、私たちの救いについて神が全能であると告白することは重要なことなのです。
  主イエスは弟子たちに、「人が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」言いました。それを聞いた弟子たちは、「それでは、誰が救われるだろうか」互いに言っていると、主イエスは「人にはできないが神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:25~27)と言われました。
  私たちの救いのために、神は全能の力を用いられるのです。そして、逆に言うと、この神の全能の力によらなければ、誰も救われないということをも示しているのです。ですから、主イエスは、「人にはできないが神にはできる」と言われたのです。
  最後は、神が私たちの父となってくださったということです。
  旧約聖書の時代、神が私たちの父であるということは、神と信仰者との関係を示す比喩として言われてはいましたが、本当に父となってくださったという意味ではありませんでした。
  しかし、主イエスは、ご自身が真の神の独り子であることを示すと共に、神が私たちを子としてくださったと告げ、私たちに、祈る時には神を「父よ」と呼ぶように教えてくださったのです。主イエスのように神の実子ではありませんが、神の養子となったのです。そして、神は私たちの保護者として守ってくださっているのです。
  ただ、保護者と言っても甘やかすだけの方ではありません。私たちを鍛えるため、試練をも与えます。「これを鍛錬として、忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。・・・霊の父(神)は私たちの益となるように、・・鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われますが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:7~11)とある通りです。



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「神の選び」 2021年8月22日の礼拝

2021年09月02日 | 2021年度
出エジプト記33章18~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」

ローマの信徒への手紙9章6~18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
 「わたしはヤコブを愛し、
 エサウを憎んだ」
と書いてあるとおりです。
  では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
 慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。



  9章に入り、パウロは同胞のユダヤ人の救いについて語っています。同胞を心配する気持ちは当然ありますが、ここで取り上げようとしているのは、ユダヤ人は神に選ばれた民であるはずなのに、その選びは変更されたのか、選びは確かなものではないのかということです。そして、神の選びは変更されず、確かなものなのだと、言いたいのです。
  神の選びということで重要なのは、その選びは選ばれた方に何らかの条件や資格が備わっていたからというのではなく、神の自由な選びによって神の民は選ばれたということです。「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」(9:11~12)や、「これ(神の選び)は、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」(9:16) とある通りです。旧約聖書にも「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト記33:19)という言葉があり、パウロもその言葉を引用しています。他にも「主があなたたちを選ばれたのは、他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7)という言葉があります。このように、神に選ばれた民は、彼らがすぐれていたからというのではなく、全く神の自由による選びだと強調するのです。
  神の自由な選びを説明するのに、パウロは二つの例を上げます。一つはアブラハムの子どもです。神はアブラハムと妻のサラに子どもを与えると約束していました。二人は共に年老いており、実現しないと思い、サラは自分に仕えていたハガルをアブラハムのところに送り、アブラハムとハガルの間にイシュマエルが授かりました。しかし、神はイシュマエルを保護する約束をしつつも、アブラハムとサラとの間に生まれるイサクこそアブラハムが受けた祝福を継ぐ者とすると宣言されたのです。同じアブラハムの子でしたが、一方は選ばれ、他方は選ばれなかったのです。これは妻サラと仕えていた女性ハガルの違いによるとも言えそうです。しかし、次の例はさらに選びの不思議さを示しています。
  二つ目の例は、エサウとヤコブの兄弟です。二人は共にイサクとその妻リベカから生まれた双子の兄弟です。条件は全く同じはずですが、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13、マラキ1:2~3)とあるように、神が神の民として選ばれたのはヤコブの子孫、すなわちユダヤ人でした。
  何故、このようなことがあるのか、不公平ではないか。パウロも「神に不義があるのか」と疑問を投げかけます。神からの答えは先ほどの「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト記33:19)という言葉です。神の自由ということです。しかし、それは決して神が気まぐれで選んでいるのではありません。自由な選びによる「神の計画」(9:11~12)があるのです。
  神の御計画は、私たちに明らかにされていないため、神の選びが不公平に思えます。神の選びは確かに不思議です。選ばれた本人にも、なぜ自分が選ばれたかは分かりません。ただ神が選んだという事実があるだけです。そこで大切なことは、なぜ自分が選ばれたかを考えるよりも選ばれた私は何をなすべきか、それを神の実言葉を聞きつつ、考えていくことです。そして、何よりも、選ばれる資格がなかった私が神に選ばれたこと、これは神の恵によるのであり、憐み、慈しみ、 愛によるのです。これは大きな驚きであり、感謝しかありません。



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