エレミヤ書25章15~16節(日本聖書協会「新共同訳」)
それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。」
マタイによる福音書20章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
主イエスと弟子たちは、エルサレムで過ぎ越の祭りを祝おうと旅を続けています。他にもガリラヤからエルサレムに行く人々がおり、その中には弟子たちの身近な人々もいました。「ゼベダイの子らの母」もその一人でした。
ゼベダイの子らというのは、ペトロとアンデレに続いて弟子になったガリラヤの漁師ヤコブとヨハネです。主イエスが十字架の上で息を引き取られた様子を、離れたところで見ていた女性たちの中に、この「ゼベダイの子らの母」がおりました。他の福音書から推測すると、名前はサロメで、主イエスの母マリアの姉妹だったことが分かります。これが事実だとすると、今回、この女性が厚かましいとも思えるような願いをしたのも頷けます。
「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスが王となられた時、二人の息子を高い身分に取り立てると保証をしてくださいというのです。
これは彼らだけではなく、他の弟子たちも心の内に持っていた願いでした。後に、他の弟子たちはこの親子のことで腹を立て、他の時には、自分たちの中でいちばん偉いのは誰かと議論をしていたことからも、そのことが分かります。
主イエスは弟子たち母子に答えられます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」。ヤコブとヨハネは「できます」と自信を持って答えます。
主イエスは、彼らの願いどおりのことは起こらないと、やんわりと退けられたのですが、二人は思い違いをしたまま、「できます」と答えたのです。彼らは主イエスがおっしゃった杯を勝利の杯、祝杯だと思ったのです。しかし、主イエスがおっしゃったのは、神の怒りの杯(エレミヤ25:15)です。神が罪人たちに飲ませると言われた怒りの杯です。主イエスは、全人類に向けられる神の怒りの杯を、罪の贖いとして、代わって受けようとしているのです。主イエスがエルサレムに行かれるのもそのためでした。弟子たちに三度にわたってご自身の死と復活を予告してこられたのも、後に、弟子たちが主イエスの死の本当の意味、神のご計画を悟るようにと配慮しておられたのです。
二人の弟子たちの母は思い違いをしていたわけですが、彼女の言葉の中に神のご計画が示されています。すなわち「王座にお着きになる時」という言葉です。この言葉が実現したのは、主イエスが十字架にかけられた時でした。
十字架には「ユダヤ人の王イエス」という罪状書きが掲げられました。弟子たちが期待したきらびやかな王座ではありませんでしたが、これこそ、全ての人々を罪から救うため、父なる神が用意された王座だったのです。「一人は右に、もう一人は左に」いたのは、ヤコブとヨハネではなく、名もない強盗たちでした。
主イエスの十字架を遠くから見守っていたゼベダイの子らの母は、かつて自分が主イエスに願い出たことを思い出していたかも知れません。ヤコブとヨハネが飲むことになっている主イエスの杯とは何かと考えていたのかも知れません。
ヤコブは十二弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネは、伝説によると、外国の地で亡くなったといわれています。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と主イエスがおっしゃった「杯」は、必ずしも殉教ということではありませんが、主イエスの十字架と復活による救いを伝える使命を指していることは確かです。
それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。」
マタイによる福音書20章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
主イエスと弟子たちは、エルサレムで過ぎ越の祭りを祝おうと旅を続けています。他にもガリラヤからエルサレムに行く人々がおり、その中には弟子たちの身近な人々もいました。「ゼベダイの子らの母」もその一人でした。
ゼベダイの子らというのは、ペトロとアンデレに続いて弟子になったガリラヤの漁師ヤコブとヨハネです。主イエスが十字架の上で息を引き取られた様子を、離れたところで見ていた女性たちの中に、この「ゼベダイの子らの母」がおりました。他の福音書から推測すると、名前はサロメで、主イエスの母マリアの姉妹だったことが分かります。これが事実だとすると、今回、この女性が厚かましいとも思えるような願いをしたのも頷けます。
「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスが王となられた時、二人の息子を高い身分に取り立てると保証をしてくださいというのです。
これは彼らだけではなく、他の弟子たちも心の内に持っていた願いでした。後に、他の弟子たちはこの親子のことで腹を立て、他の時には、自分たちの中でいちばん偉いのは誰かと議論をしていたことからも、そのことが分かります。
主イエスは弟子たち母子に答えられます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」。ヤコブとヨハネは「できます」と自信を持って答えます。
主イエスは、彼らの願いどおりのことは起こらないと、やんわりと退けられたのですが、二人は思い違いをしたまま、「できます」と答えたのです。彼らは主イエスがおっしゃった杯を勝利の杯、祝杯だと思ったのです。しかし、主イエスがおっしゃったのは、神の怒りの杯(エレミヤ25:15)です。神が罪人たちに飲ませると言われた怒りの杯です。主イエスは、全人類に向けられる神の怒りの杯を、罪の贖いとして、代わって受けようとしているのです。主イエスがエルサレムに行かれるのもそのためでした。弟子たちに三度にわたってご自身の死と復活を予告してこられたのも、後に、弟子たちが主イエスの死の本当の意味、神のご計画を悟るようにと配慮しておられたのです。
二人の弟子たちの母は思い違いをしていたわけですが、彼女の言葉の中に神のご計画が示されています。すなわち「王座にお着きになる時」という言葉です。この言葉が実現したのは、主イエスが十字架にかけられた時でした。
十字架には「ユダヤ人の王イエス」という罪状書きが掲げられました。弟子たちが期待したきらびやかな王座ではありませんでしたが、これこそ、全ての人々を罪から救うため、父なる神が用意された王座だったのです。「一人は右に、もう一人は左に」いたのは、ヤコブとヨハネではなく、名もない強盗たちでした。
主イエスの十字架を遠くから見守っていたゼベダイの子らの母は、かつて自分が主イエスに願い出たことを思い出していたかも知れません。ヤコブとヨハネが飲むことになっている主イエスの杯とは何かと考えていたのかも知れません。
ヤコブは十二弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネは、伝説によると、外国の地で亡くなったといわれています。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と主イエスがおっしゃった「杯」は、必ずしも殉教ということではありませんが、主イエスの十字架と復活による救いを伝える使命を指していることは確かです。