八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「弟子たち母子が願ったこと」 2019年1月20日の礼拝

2019年02月23日 | 2018年度
エレミヤ書25章15~16節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。」

マタイによる福音書20章20~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」


  主イエスと弟子たちは、エルサレムで過ぎ越の祭りを祝おうと旅を続けています。他にもガリラヤからエルサレムに行く人々がおり、その中には弟子たちの身近な人々もいました。「ゼベダイの子らの母」もその一人でした。
  ゼベダイの子らというのは、ペトロとアンデレに続いて弟子になったガリラヤの漁師ヤコブとヨハネです。主イエスが十字架の上で息を引き取られた様子を、離れたところで見ていた女性たちの中に、この「ゼベダイの子らの母」がおりました。他の福音書から推測すると、名前はサロメで、主イエスの母マリアの姉妹だったことが分かります。これが事実だとすると、今回、この女性が厚かましいとも思えるような願いをしたのも頷けます。
  「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスが王となられた時、二人の息子を高い身分に取り立てると保証をしてくださいというのです。
  これは彼らだけではなく、他の弟子たちも心の内に持っていた願いでした。後に、他の弟子たちはこの親子のことで腹を立て、他の時には、自分たちの中でいちばん偉いのは誰かと議論をしていたことからも、そのことが分かります。
  主イエスは弟子たち母子に答えられます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」。ヤコブとヨハネは「できます」と自信を持って答えます。
  主イエスは、彼らの願いどおりのことは起こらないと、やんわりと退けられたのですが、二人は思い違いをしたまま、「できます」と答えたのです。彼らは主イエスがおっしゃった杯を勝利の杯、祝杯だと思ったのです。しかし、主イエスがおっしゃったのは、神の怒りの杯(エレミヤ25:15)です。神が罪人たちに飲ませると言われた怒りの杯です。主イエスは、全人類に向けられる神の怒りの杯を、罪の贖いとして、代わって受けようとしているのです。主イエスがエルサレムに行かれるのもそのためでした。弟子たちに三度にわたってご自身の死と復活を予告してこられたのも、後に、弟子たちが主イエスの死の本当の意味、神のご計画を悟るようにと配慮しておられたのです。
  二人の弟子たちの母は思い違いをしていたわけですが、彼女の言葉の中に神のご計画が示されています。すなわち「王座にお着きになる時」という言葉です。この言葉が実現したのは、主イエスが十字架にかけられた時でした。
  十字架には「ユダヤ人の王イエス」という罪状書きが掲げられました。弟子たちが期待したきらびやかな王座ではありませんでしたが、これこそ、全ての人々を罪から救うため、父なる神が用意された王座だったのです。「一人は右に、もう一人は左に」いたのは、ヤコブとヨハネではなく、名もない強盗たちでした。
  主イエスの十字架を遠くから見守っていたゼベダイの子らの母は、かつて自分が主イエスに願い出たことを思い出していたかも知れません。ヤコブとヨハネが飲むことになっている主イエスの杯とは何かと考えていたのかも知れません。
  ヤコブは十二弟子の中で最初に殉教します(使徒12:2)。ヨハネは、伝説によると、外国の地で亡くなったといわれています。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と主イエスがおっしゃった「杯」は、必ずしも殉教ということではありませんが、主イエスの十字架と復活による救いを伝える使命を指していることは確かです。


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「受難と復活の三度目の予告」 2019年1月6日の礼拝

2019年02月11日 | 2018年度
イザヤ書14章24~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

 万軍の主は誓って言われる。
 「わたしが計ることは必ず成り
 わたしが定めることは必ず実現する。
 わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし
 わたしの山々で彼らを踏みにじる。
 その軛は、わが民から取り去られ
 その重荷は、肩からはずされる。」

 これこそ、全世界に対して定められた計画
 すべての国に伸ばされた御手の業である。
 万軍の主が定められれば
 誰がそれをとどめえよう。
 その御手が伸ばされれば
 誰が引き戻しえよう。

マタイによる福音書20章17~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」


  主イエスがご自身の受難と復活を初めて予告されたのは、ガリラヤから北の山へ向かう途中、フィリポ・カイサリアの町の近くで、ペトロが主イエスに「あなたはメシア。生ける神の子です」と告白した直後でした。
  その後、山において、神の独り子としての栄光を現され、その後、その山を下り、元来た道をたどって、ガリラヤに戻ってこられました。かつてのようにガリラヤで伝道するためではありません。そこから、さらに南に下り、エルサレムへ向かうためでした。その時、主イエスは二度目の受難と復活の予告をされたのです。もはやガリラヤでの伝道の時は終わり、いよいよエルサレムで十字架にかかるべき時が近づいた。受難と復活の予告は、十字架への歩みを新たにする決意の現れであり、弟子たちに、ここでもう一度その出来事と、それに対するご自身の決意を示されたのです。
  過越の祭りが近づいています。この祭りの時にこそ、十字架にかかるべきとの神のご計画がありました。主イエスのこれまでの歩みは、まさにこの時、この出来事のためにあったと言って過言ではありません。
  この時、エルサレムに向かったのは、主イエスと弟子たちだけではなく、他にも大勢の人々がおりました。過越の祭りをエルサレムで迎えたいという人々が大勢いたのです。
  エルサレムに近づき、後一日か二日もすればエルサレムに着くという時です。主イエスは弟子たちを呼び寄せられました。他の人々の耳に入らないよう密かに話をするためでした。そこで語られたのが、三度目の受難と復活の予告でした。弟子たちだけは知っておかなければならないとお考えになったのです。弟子たちは、主イエスの言葉と業の目撃者であり、後にそれを多くの人々に伝える証人となるからです。主イエスの十字架と復活は偶然ではなく、また人々の悪意からだけでもなく、神のご計画であることを弟子たちが正しく認識できるようにされたのです。そのため、受難の様子も、これまで以上に具体的になっています。ご自身が受ける苦難を漠然とではなく、受ける苦難がどのようなものであるかをかなり具体的に知っておられることを明らかにしているのです。弟子たちも、主イエスの言葉を聞き、具体的に何が起こるかをイメージできたに違いありません。とは言え、彼らが完全に理解したり、納得したわけではありません。彼らは、主イエスが地上の王となる夢を捨てきることができませんでした。そのような弟子たちを伴い、主イエスは十字架への道を歩み続けられます。その歩みの中で、やがて予告したことが起こった時、彼らを早く立ち直らせてくださいにとひたすら祈っておられたに違いありません。


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「共にいます神」 2018年12月30日の礼拝

2019年02月05日 | 2018年度
詩編46編2~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
 わたしたちは決して恐れない
 地が姿を変え
 山々が揺らいで海の中に移るとも
 海の水が騒ぎ、沸き返り
 その高ぶるさまに山々が震えるとも。

 大河とその流れは、神の都に喜びを与える
 いと高き神のいます聖所に。
 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
 夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
 神が御声を出されると、地は溶け去る。

   万軍の主はわたしたちと共にいます。
   ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。
 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

 「力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。」

   万軍の主はわたしたちと共にいます。
   ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。


マタイによる福音書28章16~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


  「汝等しづまりて、我の神たるを知れ」。詩篇46編11節の文語訳の言葉です。多くの信仰者たちが、この言葉に支えられました。
  人生には思いがけない試練、あるいはあらかじめ大きな困難があると覚悟をしていたにもかかわらず、全く対処できない状況に襲われることがあります。
  詩人が直面しているのもそのような状況です。天変地異によって、確かな拠り所と思われていたものが一瞬のうちに崩されてしまう。あるいは、強大な軍勢に襲われ、抵抗する術のない状況です。私たち人間の限界を、いやと言うほど思い知らされます。そのように揺れ動く世界、先を見通すことのできない状況の中で、詩人は、神を仰ぎ見ています。神こそ、私たちの唯一の拠り所、神にこそ、何ものにも揺り動かされない確かさがある。
  「神が私たちと共にいてくださる」というのは、旧約から新約を貫いている信仰です。どのような力にも勝り、どのような悪い状況も良きに変えられ、全てを把握し、全て御心に適う方向へと導いてくださる。その神が私たちと共にいてくださるのです。
  神が共にいてくださるというのは、ただ近くにいてくださるというだけではありません。私たちのために行動してくださる神であり、私たちが直面している悪状況の中で、その存在をはっきりと示してくださるということでもあります。
  揺れ動く世界、混乱した状況を、詩人は見ています。そのような中で、決して揺らぐことのない神を仰いでいるのです。このように、詩人は神に全くの信頼を寄せています。神が決して揺らぐことのない方であることを知っているからであり、その神が、私たち信仰者を決して見捨てることがないと確信しているからです。その確信はどこから来るのかと言いますと、神が信仰者に対して契約を結んでくださっているというところにあるのです。
  契約は、信頼を決して裏切らないという目に見えるしるしです。人間の世界では、契約があるにもかかわらず裏切られるということがあります。しかし、神は、ご自身がなさった契約を違えることは決してなさいません。人間が神を裏切ることはあります。しかし、神はいったん約束されたことを反故にすることはありません。もちろん、そのことに甘えてはいけませんが、神は契約を忘れたり、破ったりすることはないということが重要です。詩人が神を信頼する根拠はここにあるのです。信じない者にはつまずきの石、妨げの岩ですが、信じる私たちには、失望することのない確かな土台なのです。(ローマ9章33節)


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