八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神は後悔し、心を痛められた」 2013年7月28日の礼拝

2013年09月05日 | 2013年度~
創世記6章1~22節

  さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
  当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
  「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。

  これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
  この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。
  「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
  あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
  次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
  見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
  わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
  ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。



  ノアの洪水と箱舟の物語は、聖書の中でも最も有名な物語のひとつです。しかし、洪水伝説は、聖書以外にも、古代世界でいろいろのところで伝わっていたことが、考古学の発掘調査で発見された粘土板などでわかっています。
  たとえば、イスラエルのメギドという古代都市の遺跡からも、メソポタミア地方(今のイラク)の洪水伝説の粘土板が発見されています。
  それらの洪水物語と聖書の洪水物語には類似点があり、なんらかの関連性があったと推測できます。しかし、聖書の洪水物語と古代の洪水伝説は、ただ似ているのではありません。聖書の洪水物語は、唯一神信仰に基づいていること、洪水の原因は人間の罪によること、難を逃れた人々は、自分の知恵や力によるのではなく、神の恵みによることなどが強調されていることが、大きな特徴です。
  今日の聖書の箇所に「神が後悔し、心を痛められた」とあります。神は全知全能であり、すべてをあらかじめご存じのはずです。その神が、後悔することなど考えられません。どういう事なのでしょうか。
  「後悔する」と訳されている言葉は、他のところで、「慰める」と訳されています。ですから、「神は慰める」と訳してもよいのですが、それでは意味が繋がらないので、「後悔する」となっているのです。
  創世記5章29節に「レメクは、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」とあります。ここでの「慰め」と同じ言葉です。また、「苦労」という言葉も出てきますが、6章6節の「神は心を痛めた」と同じ言葉で、「苦しめる」という意味です。
  神は人間の罪に対し、厳しい罰をくだします。しかし、機械的に、また、無感情にそれを行っておられるのではありません。神が人間を罰するとき、ご自分をも苦しめておられると、聖書は告げているのです。
  神は、預言者アモスを通して、次のようにおっしゃいました。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」(アモス3:2)。
  神は、ご自分がお選びになった者を愛されます。それ故に、罪を犯すその人の責任は、とても重いのです。神は愛するが故に、その罪を見過ごしにすることができず、愛する者を罰せられるのです。そして、愛する者を罰する神は、ご自身苦しんでおられるのです。「神は後悔し、心を痛められた」という言葉には、罪に対する神の怒りと、それでも私たち人間を愛する神の愛という、相反するように思える神の御心が示されているのです。同様のことは、人間の罪に対する神の審きと、私たち罪人を赦す神の愛の両方を、神の独り子である主イエス・キリストが十字架につけられた出来事に見ることができます。
  さて、8節に「ノアは神の恵みを得た」とあります。ノアが洪水による滅びを免れたのは、神の恵みによるのです。この所で、聖書は、ノアが義しい人であったので滅びを免れたとは言っていません。ノアは周囲の人々と比べると義しい人間であったでしょうが、聖書は、それを救われた理由にしてはいないのです。神の恵みによる救い。これが聖書全体を貫いて、私たちに告げられている救いなのです。
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