八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の時を見る」 2018年5月27日の礼拝

2018年06月28日 | 2018年度
イザヤ書7章10~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
  しかし、アハズは言った。
 「わたしは求めない。
 主を試すようなことはしない。」
  イザヤは言った。
 「ダビデの家よ聞け。
 あなたたちは人間に
   もどかしい思いをさせるだけでは足りず
 わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
 それゆえ、わたしの主が御自ら
   あなたたちにしるしを与えられる。
 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
 その名をインマヌエルと呼ぶ。
 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで
 彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
  その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

マタイによる福音書16章1~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

  マタイ福音書12章38~42節には、今日の聖書の箇所と同じように、しるしを見せて欲しいと要求する人々のことが記されています。12章で登場した人々が要求したしるしというのは、主イエスが神から遣わされたという証拠を見せて欲しいということで、具体的には奇跡を起こすことを要求しています。しかし、今日の16章で人々が求めているのは「時のしるし」です。2~3節で朝夕のことが語られ、「時代のしるしは見ることができないのか」と言われていることからも、それは明らかです。
  旧約聖書には「終わりの時」について記されています。それは「主の日」とも呼ばれ、神の裁きの時として記されています。特に有名なのは、マラキ書3章23節で「わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とあります。人々は恐れながらもこの日が来ることを願っていたのです。16章の「天からのしるし」は主なる神が来られる「時のしるし」ということです。
  しかし、この「時のしるし」を求めてきた人々は、本当にそのことを知りたかったのではありません。彼らは主イエスを罠にかけようと、議論を仕掛けてきたのです。彼らはファリサイ派とサドカイ派の人々でした。信仰的、政治的に全く正反対の立場の人々です。その人々が一緒にやって来たのは、共通の敵である主イエスを罠にかけようという魂胆があったからです。「時のしるし」について、主イエスがどのように答えようとも、反撃しようと結託していたのです。「イエスを試そうとして」というのは、そういう意味です。
  主イエスは「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答え、彼らの要求を退けられました。「よこしまで神に背いた時代の者たち」とは、ここではファリサイ派とサドカイ派の人々のことですが、彼らに限ったことではありません。この言葉は、マタイ福音書を読んでいる私たちにも警告として向けられています。「あなた方は、神の時をわきまえているのか。その時のしるしをしっかり見ているのか」と問いかけているのです。
  神の時ということについて、ルカ福音書は「今日」という言葉をよく用います。マタイ福音書は、すべての人々を救うという神のご計画を旧約聖書に見、歴史を通して神が働いておられることを告げます。そして、主イエスの到来は、その神のご計画の成就であると証するのです。旧約聖書を引用する時、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」という言い方を繰り返すのは、そのためです。
  主イエスはファリサイ派とサドカイ派の人々を残して立ち去られました。しかし、私たちに対しては、聖書を通して、またこの礼拝を通して、「今こそ、あなたのために備えられた神の時、救いの時である」と、なお呼びかけておられます。この「時」を見失ってはなりません。

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「弁護者であり真理の霊」 2018年5月20日のペンテコステ礼拝

2018年06月18日 | 2018年度
民数記11章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。
  宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

ヨハネによる福音書14章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。


  ヨハネ福音書13~17章は、いわゆる最後の晩餐と呼ばれている場面で、四つの福音書の中でもっとも詳しく描かれています。13章で食事の様子が記され、残りの14~17章は、弟子たちに対して語られた主イエスの教えになっています。その中で、主イエスはご自分が弟子たちの前から去って行くこと、また聖霊が弟子たちに遣わされる事が告げられています。
  主イエスが去るというのは、この最後の晩餐の後、主イエスが捕らえられ、翌日には十字架にかけられることを意味しています。この時の弟子たちには、そのことは知りようのないことでしたが、それが起こった時、弟子たちが動揺し、恐れ、絶望することを見越し、聖霊が遣わされることをあらかじめ告げられたのです。
  主イエスは聖霊について「弁護者」、「真理の霊」と表現しました。「弁護者」と訳されている言葉は「傍らに立つ人」という意味で、裁判を受けている被告人の傍らに立って弁護する人のことです。口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。また、聖霊が「真理の霊」と呼ばれるのは、神の御心を明らかにするからです。14章26節で「聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせる」と説明されているとおりです。
  こうして、主イエスが十字架にかけられることは、はじめから計画されていた神のご計画であること、そして、弟子たちも決して見放されないことを明らかにされたのです。
  聖霊を弁護者、真理の霊と告げる場面は、15章26節にも出てきます。そこでは、弟子たちが受ける迫害について語られており、その時も聖霊が守り導いてくださると約束されています。しかし、主イエスは迫害から逃れる手段を告げてはいません。弟子たちが迫害を受けるのは、彼らが神の側に立っているのに対し、迫害する人々は神に敵対しているからだと説明されています。
  迫害は神の御心を明らかにする時であること、すなわち伝道の機会であることが告げられます。「その時、聖霊が何を語るべきかを示してくださる」と、主イエスが以前から弟子たちに語っておられました。(マルコ13:11、ルカ12:11~12、他)
  神のご計画は、すべての人々を罪とその悲惨から救うことです。そのために神の独り子が遣わされ、十字架において罪の贖いをなさいました。弟子たちとそれに続くキリスト者、すなわちキリストの教会は、その神の恵みの御業を証するために立てられたのです。その教会の働きは、目に見えるところでは人間の業ですが、実は目に見えないところで働く聖霊の業なのです。
  神のご計画により、私たちは救われています。すなわち、私たちの救いのために、主イエスが十字架にかかられ、神のご計画を悟らせるために聖霊が遣わされ、私たちは神を信じる者へと変えられました。そして今、その神の恵みを宣べ伝えよと、私たちを周囲の人々に遣わされているのです。

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「空腹の人々への憐れみの奇跡」  2018年5月6日の礼拝

2018年06月04日 | 2018年度
民数記11章18~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一か月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ。」
  モーセは言った。「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」

マタイによる福音書15章32~39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。


  マタイ福音書15章32~39節は「四千人の給食」と呼ばれる奇跡物語で、14章13~21節の「五千人の給食」の記述と似ています。
  このとき主イエスの周りにいた群衆は、29~31節で主イエスに病を癒してもらった人々でした。その状況も五千人の給食の時と似ています。おそらく、このような出来事が何度かあったのでしょう。福音書は主イエスがその度ごとに人々癒し、また飢えを癒されたことを告げているのです。
  マタイ福音書は、五千人の給食の場合は「彼らを深く憐れんだ」と、主イエスの様子を記し、今回の四千人の給食の場合は、主イエスの言葉として「群衆がかわいそうだ」と記しています。「深く憐れむ」と「かわいそう」と訳されている言葉は原語では同じ言葉で、元々内蔵を意味する言葉です。強い感情を言い表すときに、私たちは「断腸の思い」という言い方をすることがありますが、それと同じように、強い憐れみの感情を表しているのです。すなわち、主イエスが奇跡を行われたのは、人々を深く憐れむ心から出た行為だということです。福音書は、奇跡という出来事を伝えるだけではなく、主イエスが人々を深く憐れまれ、彼らを窮状から助けるために行動されたことを強く訴えているのです。
  かつて、主イエスは「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」とおっしゃいました。しかしそれは、食べる物、飲む物がどうでも良いという意味ではありません。続けて「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要であることをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とおっしゃったことからもそのことは明らかです。
  実際、今回の四千人の給食の奇跡において、人々や弟子たちが訴える前に、主イエスの方から「彼らがかわいそうだ」とおっしゃって、奇跡を行われました。主イエスから癒しを受けた人々の必要を、主イエスは知っておられ、直ちに行動されたのです。
  37節の「人々は皆、食べて満腹した」は、これほど大勢の人々がいたにもかかわらず、主が与えてくださったパンから漏れた人がいなかったことを告げています。
  イスラエルの家の失われた羊のところにおいでくださった主エスが、その一人ひとりを救うために、癒し、養ってくださいます。そして今、私たちにも深い憐れみのまなざしを向け、みもとに招いてくださり、ご自分の羊として癒し、養ってくださいます。主の招きの声に応え、みもとに集まり、養われつつ、神の国へと歩みましょう。


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