詩編110編1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
わが主に賜った主の御言葉。
「わたしの右の座に就くがよい。
わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
敵のただ中で支配せよ。
あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
主はあなたの右に立ち
怒りの日に諸王を撃たれる。
主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち
広大な地をしかばねで覆われる。
彼はその道にあって、大河から水を飲み
頭を高く上げる。
マタイによる福音書26章57~68節(日本聖書協会「新共同訳」)
人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
あなたたちはやがて、
人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る。」
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
旧約のエジプト脱出を記念する過越の夜、大祭司の手の者たちは、主イエスを大祭司の屋敷へ連行して来ました。そこで裁判を行うためでした。集められた人々は「祭司長たちと最高法院」の全員です。
最高法院というのは、ユダヤの最高議会で、ローマからユダヤ地方の自治を許されている組織です。議長を務めるのは大祭司です。彼らがこれから行おうとしている裁判も彼らに委ねられていた権限でした。ただし死刑を執行することは認められていません。それはローマから派遣されているユダヤ総督の権限です。
この主イエスに対する裁判は、異例なことばかりでした。まず、夜に行われたこと、また正式な場所ではなく、大祭司の屋敷で行われたこと、そしてはじめから死刑にしようと偽証が求められたことなどです。当時の裁判のやり方としては、あり得ないことでした。ある人が、これを闇の法廷と呼んでいるほどです。
大祭司による裁判は、最高法院を招集しており、証言に基づいて行われようとしていました。すなわち、律法に従って裁判が行われたという体裁をとろうとしたのです。しかし、実際には、この裁判の全てがゆがめられていました。最高法院の裁判は、本来神の憐れみを示し、罪の赦しへと導くものでしたが、逆に、罪に定め、死刑にする目的で行われたのです。
最高法院には死刑にする権限がありませんでしたので、実際にはローマのユダヤ総督に訴え、そこで死刑を確定し、執行することになります。
さて、最高法院の裁判の中で、何人もの人が偽証しましたが、証言があわないため、思うように裁判が進みません。しびれを切らしたように大祭司が立ち上がり、主イエスに問いただします。「お前は神の子、メシアなのか」。主イエスはそれに対し、「それはあなたが言ったことです」と答えられました。
マタイ福音書において、この問答は重要でした。大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という言葉は、かつてペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」とほとんど同じで、マタイ福音書が特に意識していたと言えます。
主イエスはペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と仰いました。ペトロとは反対に、大祭司は主イエスを信じていませんでしたが、同じ言葉で主イエス問いかけたのです。マタイ福音書はペトロも大祭司も主イエスに対して完全に正しい認識を持っていたわけではありませんが、それにもかかわらず、神は彼らを用いて主イエスに対する正しい呼び方を示してくださったのです。これは、この福音書を読む私たちのための福音書記者の力強い証しです。そして、このゆがめられた裁判においても、神が働いておられることを告げています。しかも、その御心は主イエスを死から救うのではなく、むしろ、十字架へ向かわせることにありました。そして、この御子の十字架によって、全ての人々を救うのです。
わが主に賜った主の御言葉。
「わたしの右の座に就くがよい。
わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
敵のただ中で支配せよ。
あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
主はあなたの右に立ち
怒りの日に諸王を撃たれる。
主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち
広大な地をしかばねで覆われる。
彼はその道にあって、大河から水を飲み
頭を高く上げる。
マタイによる福音書26章57~68節(日本聖書協会「新共同訳」)
人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
あなたたちはやがて、
人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る。」
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
旧約のエジプト脱出を記念する過越の夜、大祭司の手の者たちは、主イエスを大祭司の屋敷へ連行して来ました。そこで裁判を行うためでした。集められた人々は「祭司長たちと最高法院」の全員です。
最高法院というのは、ユダヤの最高議会で、ローマからユダヤ地方の自治を許されている組織です。議長を務めるのは大祭司です。彼らがこれから行おうとしている裁判も彼らに委ねられていた権限でした。ただし死刑を執行することは認められていません。それはローマから派遣されているユダヤ総督の権限です。
この主イエスに対する裁判は、異例なことばかりでした。まず、夜に行われたこと、また正式な場所ではなく、大祭司の屋敷で行われたこと、そしてはじめから死刑にしようと偽証が求められたことなどです。当時の裁判のやり方としては、あり得ないことでした。ある人が、これを闇の法廷と呼んでいるほどです。
大祭司による裁判は、最高法院を招集しており、証言に基づいて行われようとしていました。すなわち、律法に従って裁判が行われたという体裁をとろうとしたのです。しかし、実際には、この裁判の全てがゆがめられていました。最高法院の裁判は、本来神の憐れみを示し、罪の赦しへと導くものでしたが、逆に、罪に定め、死刑にする目的で行われたのです。
最高法院には死刑にする権限がありませんでしたので、実際にはローマのユダヤ総督に訴え、そこで死刑を確定し、執行することになります。
さて、最高法院の裁判の中で、何人もの人が偽証しましたが、証言があわないため、思うように裁判が進みません。しびれを切らしたように大祭司が立ち上がり、主イエスに問いただします。「お前は神の子、メシアなのか」。主イエスはそれに対し、「それはあなたが言ったことです」と答えられました。
マタイ福音書において、この問答は重要でした。大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という言葉は、かつてペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」とほとんど同じで、マタイ福音書が特に意識していたと言えます。
主イエスはペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と仰いました。ペトロとは反対に、大祭司は主イエスを信じていませんでしたが、同じ言葉で主イエス問いかけたのです。マタイ福音書はペトロも大祭司も主イエスに対して完全に正しい認識を持っていたわけではありませんが、それにもかかわらず、神は彼らを用いて主イエスに対する正しい呼び方を示してくださったのです。これは、この福音書を読む私たちのための福音書記者の力強い証しです。そして、このゆがめられた裁判においても、神が働いておられることを告げています。しかも、その御心は主イエスを死から救うのではなく、むしろ、十字架へ向かわせることにありました。そして、この御子の十字架によって、全ての人々を救うのです。