八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「大祭司による裁判」 2020年7月1日の礼拝

2020年07月27日 | 2020年度
詩編110編1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

わが主に賜った主の御言葉。
「わたしの右の座に就くがよい。
わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。
敵のただ中で支配せよ。
あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。

主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
主はあなたの右に立ち
怒りの日に諸王を撃たれる。
主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち
広大な地をしかばねで覆われる。

彼はその道にあって、大河から水を飲み
頭を高く上げる。

マタイによる福音書26章57~68節(日本聖書協会「新共同訳」)

  人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
 あなたたちはやがて、
   人の子が全能の神の右に座り、
 天の雲に乗って来るのを見る。」
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。



  旧約のエジプト脱出を記念する過越の夜、大祭司の手の者たちは、主イエスを大祭司の屋敷へ連行して来ました。そこで裁判を行うためでした。集められた人々は「祭司長たちと最高法院」の全員です。
  最高法院というのは、ユダヤの最高議会で、ローマからユダヤ地方の自治を許されている組織です。議長を務めるのは大祭司です。彼らがこれから行おうとしている裁判も彼らに委ねられていた権限でした。ただし死刑を執行することは認められていません。それはローマから派遣されているユダヤ総督の権限です。
  この主イエスに対する裁判は、異例なことばかりでした。まず、夜に行われたこと、また正式な場所ではなく、大祭司の屋敷で行われたこと、そしてはじめから死刑にしようと偽証が求められたことなどです。当時の裁判のやり方としては、あり得ないことでした。ある人が、これを闇の法廷と呼んでいるほどです。
  大祭司による裁判は、最高法院を招集しており、証言に基づいて行われようとしていました。すなわち、律法に従って裁判が行われたという体裁をとろうとしたのです。しかし、実際には、この裁判の全てがゆがめられていました。最高法院の裁判は、本来神の憐れみを示し、罪の赦しへと導くものでしたが、逆に、罪に定め、死刑にする目的で行われたのです。
  最高法院には死刑にする権限がありませんでしたので、実際にはローマのユダヤ総督に訴え、そこで死刑を確定し、執行することになります。
  さて、最高法院の裁判の中で、何人もの人が偽証しましたが、証言があわないため、思うように裁判が進みません。しびれを切らしたように大祭司が立ち上がり、主イエスに問いただします。「お前は神の子、メシアなのか」。主イエスはそれに対し、「それはあなたが言ったことです」と答えられました。
  マタイ福音書において、この問答は重要でした。大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という言葉は、かつてペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」とほとんど同じで、マタイ福音書が特に意識していたと言えます。
  主イエスはペトロに「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と仰いました。ペトロとは反対に、大祭司は主イエスを信じていませんでしたが、同じ言葉で主イエス問いかけたのです。マタイ福音書はペトロも大祭司も主イエスに対して完全に正しい認識を持っていたわけではありませんが、それにもかかわらず、神は彼らを用いて主イエスに対する正しい呼び方を示してくださったのです。これは、この福音書を読む私たちのための福音書記者の力強い証しです。そして、このゆがめられた裁判においても、神が働いておられることを告げています。しかも、その御心は主イエスを死から救うのではなく、むしろ、十字架へ向かわせることにありました。そして、この御子の十字架によって、全ての人々を救うのです。


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「捕らえられたイエス」 2020年6月28日の礼拝

2020年07月20日 | 2020年度
列王記下6章15~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

マタイによる福音書26章47~56節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。



  「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 この言葉に呼応するかのように、群衆を引き連れたイスカリオテのユダが現れました。ユダは「先生、こんばんは」と言って接吻します。これが彼の引き連れてきた群衆への合図だったのです。
  弟子が先生に対し接吻をして挨拶することは、当時のユダヤではごく自然の習慣でした。また、「こんばんは」という挨拶はもともと「喜べ」という意味で、祝福する言葉でした。裏切る時、人は親しさと愛情を装います。それゆえ、裏切るその姿はおぞましいと言えます。
  主イエスを捕らえようとする人々に、弟子たちが立ち向かいます。しかし、主イエスは弟子たちに「必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言って、抵抗することを止めます。また、群衆にも無抵抗の意志を示し、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」とおっしゃいました。
  マタイ福音書は、主イエスの奇跡など多くの出来事と共に、「これは預言者を通して言われていたことが実現するためだった」と繰り返し説明してきました。しかし、今回は、特に主イエスご自身の言葉としてその言葉が記されています。預言者が語ったことというのは、単に預言者が未来を預言し、それが当たったということではありません。むしろ、これらの出来事は神の御計画であり、その御計画通りに、これらの出来事が起きたと告げているのです。すなわち、全ての出来事において、神ご自身が御計画なさり、神ご自身が働いておられると告げているのです。
  「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と聖書は告げます。しばらく前まで、主イエスを守るためには命を捨て来る覚悟があるとまで言っていたにもかかわらずです。確かに彼らは臆病ではありませんでした。命を捨ててでも主イエスをもる覚悟はあったでしょう。しかし、主イエスが何の抵抗をする様子がなく、むしろ進んで捕らえられようとする姿に、弟子たちは絶望や虚しさを感じたのです。今まで主イエスに従ってきたのは何のためだったのか。全くの無意味だったという気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。意味があると確信している時には、どんなに苦労しようとも、また命の危険があろうとも、やり遂げようと頑張ります。しかし、自分たちが守ろうとしている主イエスご自身に、その気持ちが全くないと分かると、弟子たちの勇気もやり遂げようとする意志も微塵となって消え去り、主イエスを見捨てて逃げ去るしかなかったのです。
  このような弟子たちの弱くもろい姿を笑うことは簡単かも知れません。しかし、私たちが弟子たちの立場におかれた時、それでも彼らを笑うことが出来るでしょうか。主イエスは、ご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを笑うことも恨むこともしません。弟子たちには、主イエスが復活なさった出来事の目撃者となり、それを証しする使命が与えられていることを知っておられたからです。
  主イエスは、全ての人々の救いのために、神の御計画をやり遂げなければならないという決意をもって十字架への道をさらに一歩進まれたのです。

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「ひとり祈られるイエス」 2020年6月21日の礼拝

2020年07月13日 | 2020年度
詩編102編4~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの生涯は煙となって消え去る。
 骨は炉のように焼ける。
 打ちひしがれた心は、草のように乾く。
 わたしはパンを食べることすら忘れた。
 わたしは呻き
 骨は肉にすがりつき
 荒れ野のみみずく
 廃虚のふくろうのようになった。
 屋根の上にひとりいる鳥のように
 わたしは目覚めている。

 敵は絶えることなくわたしを辱め
 嘲る者はわたしによって誓う。
 わたしはパンに代えて灰を食べ
 飲み物には涙を混ぜた。
 あなたは怒り、憤り
 わたしを持ち上げて投げ出された。
 わたしの生涯は移ろう影
 草のように枯れて行く。


マタイによる福音書26章36~46節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」


  一般に「最後の晩餐」と呼ばれている過越の食事を終え、主イエスと弟子たちはエルサレムの町の外に出、オリーブ山の中腹にあるゲツセマネというところにやってきました。主イエスがたびたび祈りをされていたと思われる場所で、この時も、主イエスは祈るために来られたのです。
  福音書には、主イエスがたびたび一人で祈っておられたことを記しています。ゲツセマネにと到着した時、主イエスは弟子たちにも祈るように勧め、主イエスは彼らから少し離れた所で祈り始めました。はじめから一人で祈るつもりだったのです。
  弟子たちを伴ったのは、祈る主イエスの姿とこの後の主イエスが捕らえられる出来事を目撃させるためでした。しかし、弟子たちはその「時」が迫っていることを知らないままその場にいました。疲れのためか、彼らはいつしか眠り始めてしまいます。主イエスが、二度ばかり、起こしに来ますが、睡魔に勝てません。
  主イエスが三度目に弟子たちを起こしに来ました。彼らを叱るためではなく、「時が来た」と告げ、これからの出来事をしっかり心に刻みつけさせようとしたのです。その出来事を目撃することで、神が独り子を十字架におかけになり、全ての人を救う神の御計画がついに成就することを、弟子たちが悟り、その出来事を宣べ伝えていくことになるのです。ゲツセマネは、神の救いの出来事が、弟子たちの目に明らかになる最初の場所となったのです。この時、弟子たちはまだそのことを悟っていませんでしたが、後に、重大な局面を迎えていたと気づくことになります。
  また、この時の主イエスの祈りの言葉「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」の意味を、その時には悟ることが出来ませんでしたが、後に、十字架へと歩まれる主イエスの苦悩の祈りであったことを悟ったのです。
  かつて、エルサレムに入る直前、二人の弟子たちが、主イエスに「御国の権威を受けた時、我々二人をあなたの左右に配してください」と願った時、主イエスは彼らに「私の飲む杯を飲むことが出来るか」と尋ね、彼らは「出来ます」と答えたことがありました。主イエスはご自分が十字架につけられることを言っておられたのですが、弟子たちにはその意味が分かりませんでした。後に、主イエスが十字架にかかられよみがえられた後、弟子たちは、ゲツセマネでの主イエスの祈り思い起こし、あの時、主イエスが仰った「私の飲む杯」は、神の御計画のために十字架にかかることだったと気づいたのです。
  主イエスは、眠っている弟子たちを起こし、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と告げました。主イエスは、弟子たちに「戦うために行こう」と仰ったのではありません。「全ての人の救いのために、私が十字架にかかるべき時が近づいた」と仰ったのです。
  主イエスが伝道を開始した時、「天の国は近づいた」と仰いました。この言葉は主イエスの十字架と復活の出来事において成就しました。そのため、主イエスは十字架への歩みから引き返すことの出来ない時点で、「時が近づいた」と宣言し、弟子たちに「これから起こる神の救いの出来事の目撃者となれ」という思いで、「立て。さあ、行こう」とうながしているのです。



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