八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「惨めさを知り、慰めを知る」 2021年1月31日の礼拝

2021年03月29日 | 2020年度
詩編137編1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 バビロンの流れのほとりに座り
 シオンを思って、わたしたちは泣いた。
 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
 わたしたちを捕囚にした民が
   歌をうたえと言うから
 わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

 どうして歌うことができようか
 主のための歌を、異教の地で。

 エルサレムよ
 もしも、わたしがあなたを忘れるなら
   わたしの右手はなえるがよい。
 わたしの舌は上顎にはり付くがよい
 もしも、あなたを思わぬときがあるなら
 もしも、エルサレムを
   わたしの最大の喜びとしないなら。


コリントの信徒への手紙 二 1章3~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

  宗教改革の時代につくられたハイデルベルク信仰問答は、キリスト教信仰について書かれた本です。この本の特徴の一つは、「生きている時も、死ぬ時も、ただ一つの慰めは何か」という言葉から始まっていることです。そして、その慰めはまず自分の罪と惨めさを知ること、第二に、この罪と惨めさから神が救ってくださったことを知ること、第三に、どのようにして神に感謝する生活をするかを知ることが大切だと教えています。そして、ハイデルベルク信仰問答はこの流れに沿って書かれていきます。このハイデルベルク信仰問答から、今回の説教題を「惨めさを知り、慰めを知る」としました。
  罪とその惨めさを知ることの大切さは、ローマの信徒への手紙にも現れています。1~3章において人間の罪について語られていますが、そこでは「罪」という言葉はほとんど使われておらず、その罪から生じている悲惨な状態を示しています。そして、その罪と悲惨に捕われているすべての人間を神が救うために神の独り子イエス・キリストを遣わしてくださったと告げるのです。このように見てきますと、ローマの信徒への手紙はハイデルベルク信仰問答と同じ流れに沿って書かれていることがわかります。
  罪とその惨めさについて、故国から追われた状態と説明した人がいます。詩編137編は、バビロン捕囚によって故国を失った詩人の詩で、まさにその悲痛さが伝わってきます。故国から追われた状態は、罪を犯したアダムとエバが楽園から追い出された絶望と惨めさとも重なってきます。この罪と惨めさを味わう人は、故国をあこがれ、帰ることをひたすら願うのです。故国へ帰ることができない絶望に落とされながらもなお、故国を慕い求める。それが詩篇137編の詩人です。
  ハイデルベルク信仰問答が、まずこの罪とその惨めさを知ることの大切さを説くのは、私たちの住む世界は神が用意されたエデンの園ではなく、むしろ神の裁きを目前にしているソドムの地であると示そうとしているのです。ソドムに住んでいたロトはその町が罪深い町と知っていながらそこから出ることをためらっていましたが、天使に促され、ようやく町を脱出しました。
  この時のロトと同じように、罪と惨めさから逃れよ、とハイデルベルク信仰問答は語り、幸いと喜びに至る道が私たちの目の前に用意されていると告げているのです。そして、それを「慰め」という言葉を用いて語るのです。
  その「慰め」は、神が私たちのために遣わしてくださった救い主イエス・キリストによってもたらされました。この「慰め」は惨めさから私たちの目をそらさせるような気休め程度のものではありません。なぜなら、キリストは私たちを罪から救ってくださり、罪から生じる惨めさからも解放してくださるからです。
  とは言え、この「慰め」の中にいる実感がないのはなぜでしょうか。それは、捕囚の地バビロンを居心地よく思っているからです。多少の不満があっても住み慣れた土地という思いがあるからではないでしょうか。私たちが住む世界はまさにそのようなバビロンの地となっているのです。かつて捕囚の地にあったユダヤ人に故国があったように、私たちにも帰るべき場所があります。それが神の都です。私たちを神の都へと導いてくださるキリストはいつも私たちと共にいて、守り、養ってくださいます。神の都へ向かう道は決して平たんなものではなく、険しく困難に満ちています。しかし、それらもまた、私たちをそれを通して訓練しようとする神の御手の中にあります。それ故、導いてくださる神にいつも目を向け、守られ慰められていることを確認していくことが大切です。そして、神の都への途上、共に同じ道を歩む兄弟姉妹がいます。神が私たちを慰めてくださるように、私たちも互いに慰め励ましあうことが大切なのです。



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「神から与えられる義」 2021年1月24日の礼拝

2021年03月27日 | 2020年度
イザヤ書43章21~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしはこの民をわたしのために造った。
 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。
 しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばず
 イスラエルよ、あなたはわたしを重荷とした。
 あなたは羊をわたしへの焼き尽くす献げ物とせず
 いけにえをもってわたしを敬おうとしなかった。
 わたしは穀物の献げ物のために
   あなたを苦しめたことはない。
 乳香のために重荷を負わせたこともない。
 あなたは香水萱をわたしのために買おうと
   銀を量ることもせず
 いけにえの脂肪をもって
   わたしを飽き足らせようともしなかった。
 むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ
 あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた。
 わたし、このわたしは、わたし自身のために
 あなたの背きの罪をぬぐい
 あなたの罪を思い出さないことにする。


ローマの信徒への手紙3章21~26節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。


  これまで、すべての人が罪人であると論じてきたパウロは、21節において「神の義が示された」と言います。こうして、これまで語ろうとしてきたローマ書1章17節の「福音には、神の義が啓示されている」という本題に入ります。3章21節の「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」は、まさにこれまで語ろうとしていた本題に入ったことを示しています。
  パウロはこの本題に入るまで人間の罪について語ってきました。その中で、神から与えられた律法についても語りました。律法は神の民であるユダヤ人に与えられた神の戒めです。これを守ることによって神から義と認められます。しかし、ユダヤ人はこれを守ることができませんでした。ましてや異邦人もこれを守ることはできません。こうして、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪のもとにある」(ローマ3:9)と結論せざるを得ず、律法についても「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」とまで言い切ったのです。
  しかし、この律法についてはそれだけではなく、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」(ローマ3:21)と、パウロは言います。すなわち、律法にはもう一つの役目があると言い、それが預言者と共に神の義を証することだというのです。この場合、「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。主イエスも「聖書は私について証しするものだ」(ヨハネ5:39)と宣言されました。
  パウロは、これまですべての人間は罪の下にあると語ってきました。しかし、21節以下で、そのすべての人間がキリストによって義とされると告げます。それは、神の力によるのであり、恵みであると言います。キリストは、罪を償う供え物となってすべての人間を罪から解放したのです。こうして、キリストによる神の義が示され、私たちに与えられたのです。
  神の義は、神の正しさであり、その正しさの前にすべての人間は罪人であるとされ、神の裁きに立たされていました。神の義の前に、私たちすべての人間はただただ恐怖におののくしかありませんでした。しかし、キリストによる神の義は、私たちを恐怖に陥れるものではなく、私たちを喜びに満たす恵みの贈り物だったのです。私たちの想像をはるかに超えるこの神の義は、それ故に「福音」、喜びのメッセージと呼ばれるのです。
  この救いにあずかるためには、キリストを神から遣わされた救い主であると信じ告白すること以外に道はありません。律法の要求するすべてをキリストが満たしてくださったからです。それ故に「キリストは律法の目標であり、信じる者すべてに義をもたらす」(ローマ10:4)と言われるのです。




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「正しい人は一人もいない」 2021年1月17日の礼拝

2021年03月22日 | 2020年度
詩編32編1c~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 いかに幸いなことでしょう
 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
 いかに幸いなことでしょう
 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 わたしは黙し続けて
 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
 御手は昼も夜もわたしの上に重く
 わたしの力は
   夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ

 わたしは罪をあなたに示し
 咎を隠しませんでした。
 わたしは言いました
 「主にわたしの背きを告白しよう」と。
 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
   赦してくださいました。


ローマの信徒への手紙3章9~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
 「正しい者はいない。一人もいない。
 悟る者もなく、
 神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。
 ただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓のようであり、
 彼らは舌で人を欺き、
 その唇には蝮の毒がある。
 口は、呪いと苦味で満ち、
 足は血を流すのに速く、
 その道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。
 彼らの目には神への畏れがない。」
  さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。


  「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」(ローマ3:9)と、パウロは言います。
  パウロは、1章18節から人間の罪と悲惨について語ってきましたが、これまで「罪(ハマルティア)」という言葉を使ってきませんでした。3章9節で初めてこの言葉を使っています。「罪」という言葉を使わずにその罪の状態にある悲惨さを語ってきたのです。「罪」という言葉は法や規則、また慣習に背く状態をイメージしやすく、地域が変わればそれらの法や規則,慣習は違ってきます。そうしますと、何が罪であるかということも違ってくることがあります。そういう理由から、パウロは「罪」という言葉を避けていたのかもしれません。
  パウロは「罪」という言葉を使わずに、その罪について語ってきました。神と人間との関係がゆがめられているということ、それ故に、人間どうしの関係も歪んでおり、あらゆる悲惨な状態が生じていると語りました。さらには、それを正そうとする人間もゆがめられた状態の中にあり、自らを正すことができないでいる。それは神から律法を与えられているユダヤ人も同様であると言います。そこから、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と結論するのです。
  10~18節は、旧約聖書の詩編からの引用です。罪の状態にある人間の悲惨さが歌われており、1章18節からパウロが語ってきたことです。いつの時代も人間は悲惨な状態に置かれてきました。
  19~20節で再び律法について語っています。律法は神から与えられた正しさの基準です。律法を知らない異邦人はもちろんのこと、律法を与えられているユダヤ人も神の裁きを免れることはできないというのです。
  律法は、それを所有しているだけでは意味がありません。その律法に即して生活してこそ意味があるのです。しかも、「完全に」実行しなければならず、「ほとんど実行している」というのでは意味がありません。私たち人間社会のことだけを考えるならば、「ほとんど実行している」ということにも意味があるでしょう。しかし、パウロがこれまで語ってきた人間の悲惨ということを考えると、全く不十分なのです。そして、ユダヤ人でさえも律法を完全に実行することはできませんでした。それゆえ、「全世界が神の裁きに服する」と言い、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」とまで言うのです。こうして、9節の「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」ということを再確認することになったのです。
  しかし、これは、1章16節の「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であることを言うための序章でしかありません。すなわち、すべての人が、キリストによってのみ救われることをパウロは伝えたいのです。




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「誠実な神と不誠実な人間」 2021年1月10日の礼拝

2021年03月15日 | 2020年度
イザヤ書5章18~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

 災いだ、むなしいものを手綱として、罪を
 車の綱として、咎を引き寄せる者は。
 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ
 早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。
 その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。
 そうすれば納得しよう。」
 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は
 彼らは闇を光とし、光を闇とし
 苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
 災いだ、自分の目には知者であり
 うぬぼれて、賢いと思う者は。
 災いだ、酒を飲むことにかけては勇者
 強い酒を調合することにかけては
   豪傑である者は。

 これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し
 正しい人の正しさを退ける。
 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし
 炎が枯れ草を焼き尽くすように
 彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。
 彼らが万軍の主の教えを拒み
 イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。

 それゆえ
   主は御自分の民に向かって激しく怒り
 御手を伸ばして、彼らを撃たれた。
 山々は震え
   民のしかばねは芥のように巷に散った。
 しかしなお、主の怒りはやまず
 御手は伸ばされたままだ。

ローマの信徒への手紙3章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
  「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
  裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。


  2章18節以降、使徒パウロは人間の罪について語ってきました。しかし、罪を語ることが目的ではなく、1章16~17節に記されている「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力。福音には、神の義が啓示され、初めから終わりまで信仰を通して実現される」ということを語ることが目的なのです。
  使徒パウロがずっと人間の罪について語ってきたと申し上げました。3章1~8節も人間の罪について語っています。しかし、「罪」という言葉は使われていません。実は「罪」と訳されているハマルティアという言葉は、3章9節で初めて登場します。パウロは人間の罪について語りながら、他の言葉を使って説明しているのです。今日の1~8節では「不誠実」、「不義」、「偽り」という言葉を使っています。注目していただきたいのは、「神の誠実」に対して「人間の不誠実」が、「神の義」に対して「人間の不義」が、「神の真実」に対して「人間の偽り」というように、対比されていることです。つまり、ふつう「罪」という言葉は、規則を破ったということに対して用います。聖書でもそのように説明されることが多いですが、1~8節においては、そのような説明の仕方はしていません。神と人間との関係というところから説明しているのです。人間の罪とは何かということを考える時、神との関係から考えるということはとても重要です。しかし、それ以上に重要なことは、神が誠実な方であるということです。
  「誠実」という言葉はピスティスという言葉で、人間が主語の時には「忠実」、「信仰」と訳され、神が主語の時は「誠実」と訳され、口語訳では「真実」と訳されていました。信頼を裏切らないという意味です。
 神の誠実とは、神が私たちに約束してくださったことは必ず実現し、何があっても約束を違えないということです。これに対して人間は、たびたび誓いや約束を破ってきました。これを不誠実と言っているのです。そして、人間が不誠実あるにもかかわらず、神の私たちに対する誠実は変わることがないとパウロは言うのです。これは旧約時代から預言者たちが語ってきたことでもありました。
  パウロは人間の罪、しかもどれほど罪深いかということを語ってきました。しかし、それは人間の罪を指摘し、断罪することが目的ではありません。むしろ、罪深い私たちに対して神は私たちにしてくださった約束を実行してくださるまことに恵み深く慈悲深い方であることを伝えようとしているのです。
  私たちはこのような神に救われているのです。この恵み深い神を信頼し、神の誠実(ピスティス)に応えて、神に忠実な(ピスティス)者として歩みましょう。


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「神の民への警告」 2021年1月3日の礼拝

2021年03月13日 | 2020年度
イザヤ書5章1~2節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
 そのぶどう畑の愛の歌を。
 わたしの愛する者は、肥沃な丘に
   ぶどう畑を持っていた。
 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り
 良いぶどうが実るのを待った。
 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。


ローマの信徒への手紙2章17~29節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。


  パウロは「あなたはユダヤ人と名乗り」と言っていることから、ローマの教会の中のユダヤ人キリスト者を相手に語っているように見えます。実際、そうなのでしょう。しかし、それはユダヤ人という民族を批判しているというのではありません。ユダヤ人は神の民です。神の民でありながら、神を証していないことを批判しているのです。24節の「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」は、そのことを言っています。
  パウロが17~29節で取り上げているのは律法と割礼です。律法は神から与えられた戒めであり、割礼は神の民のしるしとして身に傷をつけるものです。
  23節までで、律法を持っていながら律法を実行していないと批判しています。「『盗むな』と説きながら、盗むのか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫するのか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのか」。実際このような人もいたのかもしれません。律法を厳格に守るために数多くの戒めを次々につくっていきましたが、それは、完全に守れないときの言い訳に利用されることも多かったようです。福音書の中にはそのような例が示されています。もちろん、すべてのユダヤ人が戒めを破っていたわけではないでしょう。厳格に守ろうとした人も多くいたに違いありません。パウロが言う律法を実行していないというのは、まったく実行していないということではなく、完全に守ることができていないということです。これは第三者の立場から言っているのではなく、パウロ自身の経験から言っているのです。パウロは「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と言い、しかしローマ書7章では、心の中まで戒めを守り切れていない現実を吐露しています。パウロが言う律法を実行するというのは、部分的に守るというのではなく、完全に、しかも神に心の中を見られても完全に律法を守っていると示すことができるという意味なのです。そうすると、自分自身はもちろんすべてのユダヤ人は完全に律法を守っているとは言えないということなのです。ですから、「律法によってはだれ一人義とされない」(ガラテヤ2:16、ローマ3:20)と、パウロは言うのです。
  それでは、誰も神の御心にかなうように律法を行うことができないのであれば、神の民であろうと異邦人であろうと、すべての人間には全く希望がありません。パウロはそういうことを言いたいのでしょうか。もちろんそうではありません。私たちすべての人間には不可能なことでも、私たちに代わって律法を完全に実行し、その功績を私たちに与えてくださる方がおられると言いたいのです。それが主イエス・キリストです。パウロは「キリストは律法の目標」(ローマ10:4)と言います。口語訳では「律法の終わり」と訳されていました。律法の要求するところを完全に満たしてくださるという意味です。ここに希望があるのです。
  割礼について、ユダヤ人は神の民のしるしとして誇っていました。しかし、割礼は、神が約束の保証として与えてくださったもので、自らを誇るものではありません。神を証する者であることのしるしであり、神を信じていない人々に神の恵みを伝える使命を与えられていることを自覚するためのものなのです。律法を守らなければ、割礼には意味がないと言われるのはそのためです。私たちは割礼をしていませんが、キリストによって救われたことを証するという使命を与えれている神の民です。神の御名が人々にほめたたえられるよう証しましょう。


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