八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「命をもたらす霊の力」 2021年7月4日の礼拝

2021年07月29日 | 2021年度
イザヤ書1章18~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

 論じ合おうではないか、と主は言われる。
 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
 雪のように白くなることができる。
 たとえ、紅のようであっても
 羊の毛のようになることができる。
 お前たちが進んで従うなら
 大地の実りを食べることができる。
 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。
 主の口がこう宣言される。


ローマの信徒への手紙8章1~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


  使徒パウロは、ローマ6章3節以下で、キリスト者はキリストに結ばれる洗礼を受けたと語り、罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きていると教えています。強力な罪の力には、どんなに頑張っても抵抗できず、組み伏せられてきました。この強力な罪の力を、どんなにあらがおうともそれから自由になることができないという意味で、パウロは「罪と死の法則」(8:2)と表現しました。その罪と死の力から解放してくださったのが主イエス・キリストです。神が私たちをキリストにしっかりと結びあわせてくださったことによります。パウロはこれを「命をもたらす霊の法則」と呼び、罪と死の法則から私たちを自由にするほど強力であると言うのです。
  神の律法は、私たちに神の御心にかなって義しく生きることを要求します。しかし、私たちはそのように生きることができません。そのため、律法は、私たちに罪人としての自覚しか与えないのです。そこで神は私たちのために、御子をお遣わしになり、十字架による罪の贖いをしてくださったのです。こうして、神は、私たちを罰することなく、罪を取り除いてくださいました。律法の要求を、私たちに代わり、人となられた御子イエス・キリストが満たしてくださり、あたかも私たち自身が律法の要求を満たしたかのようにしてくださったのです。
  「肉に従って歩む者」とは、キリストを信じない人を指していますが、誰か他の人のことを考えるのではなく、キリストを信じる前の自分自身のことだと考えるべきでしょう。「肉に従う」というのは、罪と死の法則に仕えていること(ローマ7:25、8:2)です。ですから、「肉」という言葉を「罪」という言葉に置き換えると、よく分かります。「罪に従って歩む者は、罪に属することを考え」、「罪の思いは死であり」、「罪の思いに従う者は神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」、「罪の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」。これに対し、「霊に従って歩む者」とは、キリストに結ばれている人、すなわちキリスト者です。キリストに結ばれているので、私たちには、命と平和があり、神と御子に喜ばれることをいつも願っています。「神の霊」、「キリストの霊」とは聖霊のことです。聖霊は私たちに信仰を与え、神の御心にかなう生活をさせ、御心にかなう人間へと成長させてくださるのです。
  使徒パウロは、9節で「神の霊があなたがたの内に宿っている限り」と語りましたが、それは聖霊が私たちに宿っているという意味です。さらに、聖霊は「キリストの霊」と言い換えられ、さらに10節では「キリストがあなたがたの内におられるならば」と語っています。他の手紙でも「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りました。このように、使徒パウロが、「私たちの内に聖霊が宿る」と言っているのは、私たちが神秘的・超自然的体験をすることを強調したいのではありません。11節では「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が繰り返されています。聖霊を理解する上で、「イエス・キリストが復活された」ということが最も重要なことだということを意味しています。私たちキリスト者に宿る聖霊は、私たちを復活のキリストに結びあわせているのです。それ故に、キリストと共に生きるのです。




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「キリストを証する旧約聖書」 2021年6月27日の礼拝

2021年07月27日 | 2021年度
創世記22章18節(日本聖書協会「新共同訳」)

  地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

ヨハネによる福音書5章39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。


  主イエスがおっしゃった「聖書」というのは、旧約聖書のことです。主イエスの時代にはまだ新約聖書はありませんでした。ちなみに「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の呼び方で、同じ旧約聖書を使っているユダヤ人は単に「聖書」、「律法と預言者」、あるいはタナク(律法、預言者、諸書)と呼んでいます。
  新約聖書の中の諸文書は、主イエスの時代より少し後に少しずつ書かれていきましたが、新約聖書という一つのまとまったものになるのにさらに数世紀かかりました。この新約聖書が成立したことにより、キリスト教会は旧約聖書を旧約聖書と呼ぶようになりました。
  旧約とか新約という言葉は「古い契約」、「新しい契約」という意味です。出エジプト記24章に記されている神とイスラエルとの間に立てられた契約がまずありましたが、その契約をイスラエルが破ったと預言者エレミヤが非難し、「しかし新しい契約を結ばれる時が来る」と告げました。その預言通りに、新しい契約が主イエス・キリストによって結ばれました。その主イエス・キリストについて記されているのが新約聖書です。
  先ほど言いましたように、旧約聖書は主イエスより前の時代に記されました。ですから、当然主イエス・キリストの名前は出てきません。そのような旧約聖書がキリスト教会にとって必要でないとする人が現れたことがありました。それに対し、旧約聖書は必要であると主張する人々もあり、その根拠の一つとされたのが今日のヨハネ福音書5章39節です。旧約聖書を排除しようとした人は退けられ、現在のキリスト教会のように旧約聖書と新約聖書を一つの聖書として位置づけられました。
  さて、先ほども言いましたように、旧約聖書には主イエスの名前は出てきません。では、主イエスがおっしゃった「聖書はわたしについて証しをしている」というのはどういう意味なのでしょうか。旧約聖書の何が、主イエスを証ししているのでしょうか。それをいくつか確認することが大切ですし、旧約聖書がキリスト教会に必要な書物であることを証明することになります。
  まず契約ですが、これは先ほど説明しましたので、今はそれだけにとどめときます。第二に、贖罪です。旧約聖書には、罪を犯したとき、罪の償いとして犠牲がささげ、それにより罪が赦されるとされています。しかし、これは繰り返し行わなければならず、その意味では不完全でした。主イエス・キリストが十字架にかけられたことは、完全な贖罪として神が御計画なさったものでした。贖罪の動物は傷のないものでなければなりませんでした。すべての人間は罪人であり、その意味でいけにえにふさわしくない傷を持つ存在でした。ですから、たとえどのような人間が十字架にかかろうとも、完全な贖罪とはならないのです。そこで、神はご自身の独り子を地上に送り、罪のない人間として生まれさせ、十字架におかけになったのです。こうして、神は人間を罪から救われたのです。旧約聖書は、この神の御計画をあらかじめ伝えることによって、主イエス・キリストを証しているのです。

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「恐るべき罪の力」 2021年6月20日の礼拝

2021年07月22日 | 2021年度
イザヤ書59章15~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。
 主は正義の行われていないことを見られた。
 それは主の御目に悪と映った。
 主は人ひとりいないのを見
 執り成す人がいないのを驚かれた。
 主の救いは主の御腕により
 主を支えるのは主の恵みの御業。
 主は恵みの御業を鎧としてまとい
 救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい
 熱情を上着として身を包まれた。
 主は人の業に従って報い
 刃向かう者の仇に憤りを表し
 敵に報い、島々に報いを返される。
 西では主の御名を畏れ
 東では主の栄光を畏れる。
 主は激しい流れのように臨み
 主の霊がその上を吹く。
 主は贖う者として、シオンに来られる。
 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると
 主は言われる。

ローマの信徒への手紙7章7~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


  パウロは「罪から解放されている」(6:18、22)、「律法から解放されている」(7:6)と語ってきました。罪と律法から解放されて、今は神との強く確かな関係の中にあり、その結果、永遠の命にあずかっているのです。
  こうしてみると、あらためて罪と律法とが密接な関係にあることが分かります。3章20節では「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」とまで言っていました。このように言われると、律法は悪いものなのかと言いたくなるのではないでしょうか。パウロもこのように言う人があると考えたのでしょう。「律法は罪であろうか」と自らに問います。そして「決してそうではない」と断言します。そして、罪と律法との関係を詳しく見ていきます。まず、律法によらなければ罪を知ることはなかったということを指摘します。律法は悪どころかむしろ聖であり、善いものだと言います。律法は神から与えられたものですから、確かに聖であり、善いものであるに違いありません。
  では、私たちが律法によって救われないのは何故なのでしょうか。それは、律法は何が善であり、何が悪かを指し示しますが、私たち自身に善を行う力がないからです。パウロはその例として「むさぼるな」という十戒の言葉をとりあげます。律法は、むさぼることが悪いことだと示し、私たちは律法によってむさぼることが悪いことだと知ります。ところが、むさぼることが悪いことだと知っているにもかかわらず、自分の中にむさぼろうとする心が生じてくるのです。むさぼろうとする行為をある程度制御することはできるでしょう。しかし、繰り返し心の中に生じてくる「むさぼりたい」という思いを完全になくすことができません。こうなると、何が善で何が悪かを指し示す律法は、次に律法を手にしている私たち自身が悪であることを指し示すようになります。
  律法そのものは確かに悪いものではありません。本当の黒幕は、私たちを虜にしている罪なのです。罪は、私たちに悪を行わせようとして律法までも用いるのです。罪の力は、これほどまでに強力なのです。律法によって、罪が邪悪であり、死をもたらすものであることを明らかにしたとも言えます。
  こうして「律法によっては、罪の自覚しか生じない」(3:20)ということになるのです。律法は私たちの救いになるどころか、かえって救われることのない罪人であり、惨めな人間だということを明らかにしました。
  パウロが本当に言いたいことは、罪の恐ろしさということではありません。確かに罪の力は大きく、私たちには太刀打ちできません。しかし、その罪の力から私たちを解放し、罪と死から救われているということを言いたいのです。その救いをローマ書3章21節から7章6節までずっと語ってきたのです。罪の恐ろしさを語ることにより、それほどまでに恐ろしい罪の力から救われた喜びと私たちを救ってくださった神に感謝し、讃美したいのです。パウロは、罪の力と恐ろしさを語りましたが、すでに主イエス・キリストに救われていることを思い、思わず文章の途中で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(3:25)と感謝の言葉を述べずにはいられませんでした。
  パウロは、罪の力と恐ろしさを語ってきましたが、8章1節以下で、その罪よりももっと強力な神の救いを語っていきます。



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「命に至る実を結ぶ」 2021年6月13日の礼拝

2021年07月19日 | 2021年度
詩編58編12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 人は言う。
 「神に従う人は必ず実を結ぶ。
 神はいます。
 神はこの地を裁かれる。」


ローマの信徒への手紙7章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。


  6章15~23節で、パウロは奴隷制度という当時の社会制度を用いて、神との関係、罪との関係を説明してきました。神の奴隷になったことで、罪との関係は切り離され、罪に対して自由になっている。罪の奴隷であった時には死がその報酬だったのに対し、神の奴隷となった今は、永遠の命が賜物として与えられている。神の奴隷であるということは義の奴隷、すなわち神から義と認められているのであるから、聖なる生活をするようにと勧めるのです。
  このように、罪から解放されていると語ってきたパウロは、今度は律法から解放されていると告げます。それが7章1節以下です。律法については、これまでにも語られてきました。しかし、何故、今、またここで律法のことが語られるのでしょうか。それは、以前に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じない」(3:20)と言い、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるため」(5:20)と言っていたからです。それは言い換えると今日の7章5節の「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいた」ということになります。律法と罪との関係がとても強いのです。罪から解放されたというのであれば、律法はどうなるのかという問題に行くのは必然といえます。しかも、律法は神から与えられたもので、律法は悪なのかという問題もあります。ただし、この問題は7章7節以下で扱うことになります。パウロは、今ここでは、「律法から解放されている」ということだけに焦点を合わせて説明していきます。
  結婚は、男女の二人の関係の確かさを示しています。結婚した相手が生きている間、別の人間と関係を持つことは許されません。しかし、結婚の相手が亡くなったなら、別の人間と新たな関係を持つことができます。パウロは、これを比喩に用い、私たちはキリストに結ばれたことにより、律法に対して死んだ者となり、律法から解放されていると説明するのです。パウロがこう説明するのは、「神に対して実を結ぶようになるため」(7:4)であり、「霊に従う新しい生き方」(7:6)をするようにと勧めるためなのです。かつては「死に至る実を結ぶ」生活をしていましたが、今はキリストに結ばれて命に至る実を結ぶようにされている。それにふさわしく生活するようにと言いたいのです。こうして「善が生じるために悪をしよう」(3:8)とか、「恵みが増すようにと、罪にとどまるべき」(6:1)などの屁理屈を退けるのです。


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「罪の奴隷から神の奴隷に」 2021年6月6日の礼拝

2021年07月17日 | 2021年度
イザヤ書62章1~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
 エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
 彼女の正しさが光と輝き出で
 彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
 諸国の民はあなたの正しさを見
 王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
 主の口が定めた新しい名をもって
   あなたは呼ばれるであろう。
 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
 あなたの神の御手の中で王冠となる。
 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
 あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
 あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
 あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
 主があなたを望まれ
 あなたの土地は夫を得るからである。
 若者がおとめをめとるように
 あなたを再建される方があなたをめとり
 花婿が花嫁を喜びとするように
 あなたの神はあなたを喜びとされる。


ローマの信徒への手紙6章15~23節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。


  「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」(5:20)と、パウロは言いました。しかし、この言葉の上げ足をとるかのように「恵みが増すようにと、罪にとどまろう」(6:1)という人があったようで、パウロはそれを否定しました。また、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(5:14)とパウロが言うと、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してもよいのではないか」(6:15)と考える人があったようです。このように、自分に都合の良いように考える人がいたということでしょう。もちろん、パウロはこの考え方を否定します。そのために奴隷という言葉を用いて説明します。
  当時の奴隷は、生涯奴隷であり続けるとは限らず、自由になる方法がいくつかありました。たとえば、奴隷が給金をためて神殿(この場合異教の神殿ですが)に必要な額の金額を渡し、この神殿に祀られている神の奴隷なりたいと申し出ます。神殿の神官は、その奴隷の主人と交渉をし、合意を得たなら、奴隷は神殿で祀られている神々の奴隷となり、人間の主人から自由になるというわけです。パウロは、これを用いて説明するわけです。罪の奴隷であった私たちは、神に買い取られたことにより、罪から自由になったというのです。それで「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」(6:16)と言うのです。
  奴隷という言葉に抵抗を感じることもあるかもしれません。不自由で、がんじがらめに束縛されているイメージが強いことは否めません。
  宗教改革の時代、エラスムスという人が「自由意志論」という本を書き、人間には善を選ぶことも悪を選ぶこともできる自由な意志があると主張しました。それに対し、マルチン・ルターは「奴隷意志論」を書き、人間には自由な意志はないと主張しました。自分が自由だと思っているとき、実は罪の奴隷になっており、自分の力で善を選択することはできないと言うのです。そのような人間が罪の奴隷状態から解放されるのは、神の奴隷になる以外にはないと言うのです。ここにこそ、真実の自由がある。ルターは、ローマ書によって導かれ、このように主張したのです。
  神の奴隷と言いましても、神に従順であるという意味で、このように言われるのであって、神から過酷に扱われるということではありません。それは罪の奴隷である時と神の奴隷である時では全く異なるのです。罪は私たちを苛酷に扱い、しかも最終的に死をもたらすのに対し、神が恵みとして与えてくださるのは永遠の命です。それ故、神の奴隷であることは、私たちに生きる喜びを与えるのです。
  このような神の恵みを与えらえている私たちが、罪の支配下にあるような生き方をすべきではないことは明らかでしょう。むしろ、神に喜ばれる生活をすることこそ、私たちにふさわしいのです。



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