詩編109編16~20節(日本聖書協会「新共同訳」)
彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
貧しく乏しい人々
心の挫けた人々を死に追いやった。
彼は呪うことを好んだのだから
呪いは彼自身に返るように。
祝福することを望まなかったのだから
祝福は彼を遠ざかるように。
呪いを衣として身にまとうがよい。
呪いが水のように彼のはらわたに
油のように彼の骨に染み通るように。
呪いが彼のまとう衣となり
常に締める帯となるように。
わたしに敵意を抱く者に対して
わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
主はこのように報いられる。
マタイによる福音書27章15~26節(日本聖書協会「新共同訳」)
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
ローマから派遣されていたユダヤ総督ピラトは、ユダヤの有力者たちから訴えられていた主イエスを裁判することになりました。ピラトは主イエスが無実の罪で訴えられたことを察しました。しかし、ユダヤの王と名乗り暴動を起こそうとしていると訴えられている以上、そのまま釈放することも出来ません。訴えを退けたなら、訴えた有力者たちが暴動を起こしかねません。そこで、ピラトは一般の民衆に声をかけました。民衆の希望する囚人を一人釈放することにして、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」と尋ねたのです。
バラバの本名はイエスで、他の福音書には人殺しをして投獄されていたとあります。ピラトは、主イエスと同じ名前のバラバを引き出し、当然人殺しをしたバラバを死刑にし、ユダヤの有力者たちから訴えられた主イエスを釈放することが出来ると考えたのです。しかし、有力者たちは、民衆を扇動し、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうように説得しました。民衆はその口車に乗り、主イエスを死刑に処するように叫び出しました。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言って、最後の抵抗を試みましたが、もはや民衆は理性的に行動することが出来ず、「十字架につけろ」と叫び続け、暴動の危険すら起こってきました。仕方なく、ピラトは主イエスに死刑判決を下します。その時、ピラトは群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言い放ちました。ピラトがそのように言い、責任放棄を試みましたが、責任を逃れたわけではありません。死刑判決をし、十字架刑に処した事実はかわりません。「ポンテオ・ピラトの下に十字架につけられ」と二千年にわたり、キリスト教会はその事実を言い続けています。
しかし、ここで、私たちは、主イエスの十字架の出来事は、これまで、何度も主イエスの口から予告されていたことを思い起こさなければなりません。それは、単に未来を予知していたということではなく、神の御計画をあらかじめ告げておられたということです。すなわち、主イエスが十字架に架けられることは神の御心であったということです。それは、十字架の上で流される主イエスの血潮によって全ての人々を救う目的があるのです。その意味では、人殺しとして投獄されていたバラバがピラトの裁判によって釈放されたことは、象徴的な出来事であったと言えるでしょう。バラバは決して無罪ではありませんが、しかし、主イエスが十字架に架けられることで、死刑をまぬがれたのです。私たちも罪がないわけではありませんが、主イエスが十字架に架けられ、真の裁判官である神は、主イエスの故に、私たちを赦すと宣言してくださったのです。神は、主イエ スの十字架の死と私たちの罪の赦しに責任を持ってくださっているのです。
彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
貧しく乏しい人々
心の挫けた人々を死に追いやった。
彼は呪うことを好んだのだから
呪いは彼自身に返るように。
祝福することを望まなかったのだから
祝福は彼を遠ざかるように。
呪いを衣として身にまとうがよい。
呪いが水のように彼のはらわたに
油のように彼の骨に染み通るように。
呪いが彼のまとう衣となり
常に締める帯となるように。
わたしに敵意を抱く者に対して
わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
主はこのように報いられる。
マタイによる福音書27章15~26節(日本聖書協会「新共同訳」)
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
ローマから派遣されていたユダヤ総督ピラトは、ユダヤの有力者たちから訴えられていた主イエスを裁判することになりました。ピラトは主イエスが無実の罪で訴えられたことを察しました。しかし、ユダヤの王と名乗り暴動を起こそうとしていると訴えられている以上、そのまま釈放することも出来ません。訴えを退けたなら、訴えた有力者たちが暴動を起こしかねません。そこで、ピラトは一般の民衆に声をかけました。民衆の希望する囚人を一人釈放することにして、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」と尋ねたのです。
バラバの本名はイエスで、他の福音書には人殺しをして投獄されていたとあります。ピラトは、主イエスと同じ名前のバラバを引き出し、当然人殺しをしたバラバを死刑にし、ユダヤの有力者たちから訴えられた主イエスを釈放することが出来ると考えたのです。しかし、有力者たちは、民衆を扇動し、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうように説得しました。民衆はその口車に乗り、主イエスを死刑に処するように叫び出しました。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言って、最後の抵抗を試みましたが、もはや民衆は理性的に行動することが出来ず、「十字架につけろ」と叫び続け、暴動の危険すら起こってきました。仕方なく、ピラトは主イエスに死刑判決を下します。その時、ピラトは群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言い放ちました。ピラトがそのように言い、責任放棄を試みましたが、責任を逃れたわけではありません。死刑判決をし、十字架刑に処した事実はかわりません。「ポンテオ・ピラトの下に十字架につけられ」と二千年にわたり、キリスト教会はその事実を言い続けています。
しかし、ここで、私たちは、主イエスの十字架の出来事は、これまで、何度も主イエスの口から予告されていたことを思い起こさなければなりません。それは、単に未来を予知していたということではなく、神の御計画をあらかじめ告げておられたということです。すなわち、主イエスが十字架に架けられることは神の御心であったということです。それは、十字架の上で流される主イエスの血潮によって全ての人々を救う目的があるのです。その意味では、人殺しとして投獄されていたバラバがピラトの裁判によって釈放されたことは、象徴的な出来事であったと言えるでしょう。バラバは決して無罪ではありませんが、しかし、主イエスが十字架に架けられることで、死刑をまぬがれたのです。私たちも罪がないわけではありませんが、主イエスが十字架に架けられ、真の裁判官である神は、主イエスの故に、私たちを赦すと宣言してくださったのです。神は、主イエ スの十字架の死と私たちの罪の赦しに責任を持ってくださっているのです。