八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「死刑判決を受けるイエス」 2020年8月2日の礼拝

2020年08月24日 | 2020年度
詩編109編16~20節(日本聖書協会「新共同訳」)

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。
 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。
 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
   主はこのように報いられる。


マタイによる福音書27章15~26節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


  ローマから派遣されていたユダヤ総督ピラトは、ユダヤの有力者たちから訴えられていた主イエスを裁判することになりました。ピラトは主イエスが無実の罪で訴えられたことを察しました。しかし、ユダヤの王と名乗り暴動を起こそうとしていると訴えられている以上、そのまま釈放することも出来ません。訴えを退けたなら、訴えた有力者たちが暴動を起こしかねません。そこで、ピラトは一般の民衆に声をかけました。民衆の希望する囚人を一人釈放することにして、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」と尋ねたのです。
  バラバの本名はイエスで、他の福音書には人殺しをして投獄されていたとあります。ピラトは、主イエスと同じ名前のバラバを引き出し、当然人殺しをしたバラバを死刑にし、ユダヤの有力者たちから訴えられた主イエスを釈放することが出来ると考えたのです。しかし、有力者たちは、民衆を扇動し、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうように説得しました。民衆はその口車に乗り、主イエスを死刑に処するように叫び出しました。
  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言って、最後の抵抗を試みましたが、もはや民衆は理性的に行動することが出来ず、「十字架につけろ」と叫び続け、暴動の危険すら起こってきました。仕方なく、ピラトは主イエスに死刑判決を下します。その時、ピラトは群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言い放ちました。ピラトがそのように言い、責任放棄を試みましたが、責任を逃れたわけではありません。死刑判決をし、十字架刑に処した事実はかわりません。「ポンテオ・ピラトの下に十字架につけられ」と二千年にわたり、キリスト教会はその事実を言い続けています。
  しかし、ここで、私たちは、主イエスの十字架の出来事は、これまで、何度も主イエスの口から予告されていたことを思い起こさなければなりません。それは、単に未来を予知していたということではなく、神の御計画をあらかじめ告げておられたということです。すなわち、主イエスが十字架に架けられることは神の御心であったということです。それは、十字架の上で流される主イエスの血潮によって全ての人々を救う目的があるのです。その意味では、人殺しとして投獄されていたバラバがピラトの裁判によって釈放されたことは、象徴的な出来事であったと言えるでしょう。バラバは決して無罪ではありませんが、しかし、主イエスが十字架に架けられることで、死刑をまぬがれたのです。私たちも罪がないわけではありませんが、主イエスが十字架に架けられ、真の裁判官である神は、主イエスの故に、私たちを赦すと宣言してくださったのです。神は、主イエ スの十字架の死と私たちの罪の赦しに責任を持ってくださっているのです。


「ユダヤ人の王なのか」 2020年7月26日の礼拝

2020年08月17日 | 2020年度
イザヤ書9章5~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神
 永遠の父、平和の君」と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し
 平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

マタイによる福音書27章11~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。


  主イエスの裁判を行うピラトの名前は、27章1節においてはじめて登場します。ピラトは、ローマの皇帝から直々に派遣されたユダヤ総督で、有能な人物であったと言われます。当時のユダヤは、自治を許されていましたが、反乱が起きやすいことから、ユダヤ総督が地中海沿岸のカイザリヤに常駐していました。過越の祭りの時は、外国から多くのユダヤ人が集まり、ちょっとしたトラブルから暴動に発展しやすいということで、エルサレムに数百人の兵士を連れて来ることにしていました。ピラトの役目は、とにかくもめ事が起こらないようにすることだったのです。そのピラトの下に、ユダヤの最高法院の議員たちから訴えが出されたのでした。
  ピラトは主イエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問い質しました。ユダヤの議員たちの訴えを確認しているのです。
  主イエスは、自らユダヤ人の王と名乗ったことはありませんでしたし、訴えた議員たちもそのことは承知していました。彼らのねらいは、主イエスを殺害することでした。ユダヤ人同士でもめることがないようにするために、ピラトの手によって、裁判という合法手段によって主イエスを殺害させるために、あのような訴えを出したのです。
  ユダヤの宗教の問題であれば、ピラトは裁判を行いません。ピラトに裁判を行わせ、死罪にするためにはどうしても政治問題でなければならなかったのです。そこでユダヤ人たちが訴えた罪状は、主イエスがユダヤ人の王と名乗り、クーデターを行おうと画策したということだったのです。ですから、ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と罪状の確認したのです。ピラトが「ユダヤ人の王」と言ったのは、ただそれだけの理由でした。しかし、マタイ福音書にとって、主イエスがユダヤ人の王であることは、重要なことでした。たとえ、主イエスご自身が自らそう名乗らなかったとしても、主イエスこそはまことにユダヤの王であると言いたかったのです。
  マタイ福音書は、主イエスがお生まれになった時、東から来た占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたと記しています。その時、ヘロデ大王がユダヤを統治していたにもかかわらずです。マタイ福音書は、真のユダヤの王は主イエスだと言おうとしたのです。
  ユダヤ人の王というのは、単に民族の王ということではありません。神の民の王ということです。ユダヤ人の祖先アブラハムに与えられた「地上の氏族はすべて、あなた(アブラハム)によって祝福に入る」と言われた神の使命を受け継ぎ、それを成就する、そういう存在として「ユダヤ人の王」という言葉が用いられているのです。マタイ福音書は、主イエスの系図から始まっていますが、その系図がアブラハムから始まっていることも、神が全ての人々を救済するという御計画と深く関わっているのです。
  神が、人類救済のための働きを続けてこられた歴史を、主イエスは、「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(マタイ13:17) と告げられました。主イエスの十字架と復活の出来事は神 の歴史の頂点であると、私たちに力強く証ししているのです。



「イエスの血の代価」 2020年7月19日の礼拝

2020年08月13日 | 2020年度
ゼカリヤ書11章10~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは「好意」というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした。その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。わたしは「一致」というわたしのもうひとつの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした。

マタイによる福音書27章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
  そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」



  マタイ福音書26章の最後では、大祭司の屋敷で行われた主イエスの裁判と平行して、ペトロが「イエスを知らない」と、三度にわたって否定した出来事が記されていました。続く27章には、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダの最後が記されています。
  裁判で主イエスの有罪の判決が下ったことを知ったユダが、主イエスを捕らえる手伝いをして得た代金を、祭司長や長老たちに返そうとし、しかし受け取ってもらえず、追い返されてしまいます。
  ユダが代金を返そうとしたのは何のためでしょうか。そんなことをして、いったん有罪と決まったことがひっくり返ると思ったのでしょうか。もちろん、裁判の結果は、そんなことでひっくり返るはずもありません。そのことはユダも十分知っていたはずです。お金を返すことで、主イエスが受けた有罪判決が、自分と関わりがなかったと思いこもうとしたのでしょうか。少しでも気持ちが軽くなればと思ったのかも知れません。しかし、返そうとした代金は突き返され、「罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」という後悔の言葉も、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放されてしまい、ユダは、とうとう自殺をしてしまいます。
  「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言い放った祭司長たちや長老たちの言葉は、「ナザレのイエスの死は、我々には責任がない」ということを意味しています。主イエスの裁判に関わったわけですから、そんなことはないはずですが、誰かの死に責任を負いたくない気持ちはよく分かります。
  27章24節では、ピラトも同じ言葉で言い放っています。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」。これに対し、民衆は「その血の責任は、我々と子孫にある。」と答えます。
  誰も責任を持とうとしない「お前たちの問題」は、いったい誰の問題だと聖書は言おうとしているのでしょうか。聖書は、主イエスの十字架はもはや人間の問題ではなく、神の問題であると告げているのです。すなわち、その責任を、人間ではなく、神が背負ってくださっているのです。なぜなら、神は全ての人間を救うために、罪の贖いとして御子を十字架につけられたからです。
  イスカリオテのユダは、主イエスを引き渡すために銀貨30枚を手に入れました。血の代価です。命の代価とも言えます。しかし、ユダの場合と反対に、神は、主イエスの十字架で流された血によって私たちを買い取ってくださいました。Ⅰペトロ1:18~19の「あなたがたが贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、キリストの尊い血による」と言われているとおりです。キリストの血、命という代価によって買い取られたのですか、私たちは神の所有です。それ故、私たちは救われた喜びと神の栄光を現すのです。(Ⅰコリント6:20)



「ペトロの呪いの言葉」 2020年7月12日の礼拝

2020年08月03日 | 2020年度
箴言30章7~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

 二つのことをあなたに願います。
 わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
 むなしいもの、偽りの言葉を
   わたしから遠ざけてください。
 貧しくもせず、金持ちにもせず
 わたしのために定められたパンで
   わたしを養ってください。
 飽き足りれば、裏切り
 主など何者か、と言うおそれがあります。
 貧しければ、盗みを働き
   わたしの神の御名を汚しかねません。


マタイによる福音書26章69~75節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。


  主イエスが大祭司の屋敷で裁判を受けていたその時、その屋敷の中庭にペトロが入り込んでいました。福音書は、ペトロがこの成り行きを見ようとしていたと説明しています。いったんは主イエスを見捨てて、他の弟子たちと逃げ出したペトロでしたが、勇気を振り絞って後を付けてきたのです。しかし、主イエスを奪い返そうとしたわけではありません。主イエスご自身には、はじめから逃げるつもりが無いことは、ゲツセマネでの様子でよく分かっていました。まさに成り行きを見届け、その最後の場面を目に焼き付けておこうとしたのです。
  ペトロにとって、主イエスの最後の様子を見届けることは、これまでの主イエスとの約3年にわたる生活を振り返ることでもありました。その3年間をただ懐かしむというのではなく、この3年間に何か意味があったのだろうかと、振り返ったのです。主イエスに召され、希望に満ちた王国を夢に見てきました。しかし、それは突然夢破れ、失望のどん底にたたき落とされてしまいました。主イエスの最後の様子を見届けることによって、自分のこれまでの行動の結末を見届けようとしたのです。
  ペトロが中庭に座っていた時、ひとりの女中がペトロを見て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言い出しました。ペトロは即座にそれを打ち消し、門の方へそそくさと逃げ出しました。そこにいた別の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と言いだしたので、再びそれを打ち消しました。すると、他の人々がやってきて、「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉づかいで分かる」と言いました。
  当時、ガリラヤの人々には独特の訛りがあったようで、それを指摘されたのです。士師記12章5~6節に、ガリラヤではありませんが、ある土地の訛りによって、敵味方の区別をしたことが記されています。
  女中たちの言葉を打ち消したペトロの言葉そのものが、ガリラヤ出身であることを証明したのです。ペトロは呪いの言葉を用いて「そんな人は知らない」と誓い始めました。誓う時に呪いの言葉を使うことは当時よくあることでした。この時のペトロにとっては、主イエスの成り行きを見届ける余裕はありません。何とかこの場から脱出することで、頭がいっぱいだったのです。
  ペトロが「そんな人は知らない」と誓った時、鶏が鳴きました。その時、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主イエスの言葉を、ペトロは思い出しました。そして、外に出たペトロは、激しく泣き出しました。「たとえ、一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなどとは言いません」と言った自分の言葉の虚しさと、今この時、「イエスを知らない」と誓って、主イエスを裏切ってしまった思いから涙を止めることができなかったのです。
  ルカ福音書は、この時の出来事について、ペトロが「知らない」と誓い、鶏が鳴いた時、主イエスの言葉を思い出し、主イエスを振り返ると、ペトロを見つめる主イエスの視線にぶつかりました。ペトロが否認すると予告した主イエスは、「あなたの信仰が無くならないように祈った」と仰いました。ペトロを見つめる主イエスのまなざしは、「私はあなたを知っている。私はあなたのために、今祈っている」と語っているのです。後日、復活された主イエスはペトロや他の弟子たちに現れ、キリストの証人として、再起させました。