本年(2016年)4月2日(土)と3日(日)、橿原神宮で神武大祭が営まれた。2日は10時から「御鎮座記念祭と翁舞奉納」(内拝殿)、11時半から「横綱土俵入り(鶴竜関)」(外拝殿)、正午から「国栖奏(くずそう)」、3日は10時から「神武天皇2600年大祭」(内拝殿)。天皇皇后両陛下は2日の夕刻に橿原市に入られ、3日に橿原神宮を参拝される。その関係で3日は正午から参拝ができなくなる。で、私は2日にお参りすることにした。
この日は晴天で桜も満開。少し早め(9:30頃)に着いて桜を見物した。ここは境内の南に広がる「深田池(ふかだいけ)」。神宮のHPには《南神門広場の南方に明るい静かな水面が広がっています。面積は約4万9500㎡(約1万5000坪)。対岸までの遊歩道が整備されています》とある。
3日の2600年大祭(3,000人規模)に備え、イスが準備されていた。外拝殿から内拝殿を望む
早めに着いたので、境内はひっそりとしている。日差しは温かいが、日陰に入ると結構寒い。外拝殿(げはいでん)で待っていると、ほどなく神職が一列に並んで南神門から入って来られた。
向かって右端は、久保田昌孝宮司
一行は外拝殿を通り抜け、広場から内拝殿へ。この奥に幣殿(へいでん)と本殿がある。参拝者は外拝殿から眺めるしかない。望遠レンズを持参して正解だった。
まずは「御鎮座記念祭と翁舞奉納」。式典が始まる10時になっても参拝者は20~30人と少なかったがその後、徐々に人が集まってきた。神職らがゆっくりと神饌(しんせん)などをお供えしているのが見える。
次に巫女さんの舞が始まった。神さま(本殿)に向かって舞うので、参拝者には基本的に背中を見せることになる。くるりと振り返った瞬間にシャッターを押した。
衣装も鮮やかな巫女さんの舞が終わると、次に翁舞(おきなまい)が始まった。男性の神職が翁の面をつけて舞う。奈良豆比古(ならづひこ)神社(奈良市奈良阪町)の翁舞は3人で舞うが、こちらは1人だ。
祭事が終わり内拝殿から引き上げる神職たち。トップ写真とも
祭事が終わって、神職らが引き上げた。いよいよ11時半から鶴竜関による「横綱土俵入り」(太刀持ちは豊ノ島関、露払いは正代関)だ。だんだん人が増え、外拝殿は立錐の余地もなくなった。外拝殿からはお尻しか見えないのだが…。翌日(4/3)の読売新聞奈良版が《四半世紀ぶり「ヨイショ!」》の見出しで報じていた。
写真は読売新聞から拝借
こちらは神宮のHP「橿原だより」から拝借
橿原市の橿原神宮外拝殿(げはいでん)で2日、翌日に営まれる祭神・神武天皇2600年大祭を祝って、大相撲の横綱鶴竜が奉納土俵入りを行った。午前11時半頃、鶴竜関は国宝姫路城をあしらった化粧まわしで登場。神職からお祓はらいを受けた後、本殿に向かって力強く雲竜型の土俵入りを披露すると、見守っていた参拝者らから「ヨイショ」の声が上がった。
横綱が引き上げるところを撮ってみた。周りにはスゴい人垣ができていた
同神宮での奉納土俵入りは1990年4月の神宮御鎮座100年記念大祭での千代の富士と北勝海以来26年ぶり。鶴竜関は「歴史ある橿原神宮で奉納でき、非常に名誉なこと。神宮の壮大さも実感しました」と語った。参列した奈良市の会社社長中谷昌紀さん(58)は「迫力ある素晴らしい土俵入り。大祭にふさわしい」と喜んでいた。
私も一緒に「ヨイショ!」の声をかけた。横綱土俵入りは、四股で悪いものを踏み鎮めるということなので、地鎮祭と同じ意味があるのだ。
土俵入りが終わると、潮が引いたように人がいなくなってしまった。しかしこのあと正午から肝心の「国栖奏」が内拝殿で行われる。「内拝殿は遠くて見えにくいなぁ」と思っていると、神職から「皆さん、内拝殿前まで行っていただいても結構ですよ」との有り難いお言葉、これはラッキー! 20~30人ほどの善男善女が集まり、内拝殿のすぐ手前、テント下の椅子席(翌日の大祭用の席)に座らせていただいた。
神職あとに楽人が続く
笛などを演奏しながら到着
国栖奏とは何か。吉野町のHPによると《国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます》。
私は2010年の平城遷都1300年祭のとき国栖奏を見たが、遠くてよく分からなかった。今回は、まん前でじっくり拝見できるのだ。日本大百科全書(ニッポニカ)「国栖奏くずそう」によると、
楽器は三宝に載せ、一旦お供え
古代部族「国栖」の歌舞。『日本書紀』応神(おうじん)天皇19年には、吉野行幸のおりに、その地の土着民、国栖が献上物を持って訪れ、歌を詠み終わって口を打ち仰ぎ咲(わら)うさまが記されているほか、『古事記』にも「口鼓(くちつづみ)を撃(う)ち伎(わざ)を為(な)し」たとある。
祝詞の奏上が始まった
吉野国栖のこの独特の所作は、後の豊明節会(とよあかりのせちえ)をはじめとする諸節会に参勤して奏された国栖舞、あるいは国栖奏ともいわれる風俗歌舞の起源を示すものであろう。
お供えしていた楽器をたばる(賜る)
国栖奏は、大嘗祭(だいじょうさい)、諸節会などの朝廷の大儀に重要な役割を果たすようになったが、国栖のなかには平安時代になると山城(やましろ)国(京都府)綴喜(つづき)郡に移住させられた者もあった。摂関政治の時代に入ると、しだいに国栖の参勤がとだえ、12世紀なかばには楽所(がくそ)の楽人が代奏を勤めるようになったが、室町時代以降はこれも行われなくなり、国栖奏は廃絶した。
今日、昭和初年に雅楽の多忠朝(おおのただとも)がまとめたといわれる国栖奏が、奈良県吉野郡吉野町浄見原(きよみはら)神社の旧1月14日の例祭に行われている。
「1月、エンエー」と声が上がる。これを順に12月までやるのだ。少しずつ向きが変わるので、これは四方八方(360度)ということなのだろう。足すと「12」になるし。エンエーは「遠栄」か。そういえば「人民の遠栄(幸福)」というフレーズもあった。
終わって沓(くつ)を履くとき、足がしびれてなかなか履けない楽人がおられた。これはお気の毒だったが、大変さがよく分かった。
私はこれを最後に帰途についたが、15時半過ぎには天皇皇后両陛下が近鉄橿原神宮前駅に到着された。読売新聞(4/3付)《両陛下、橿原考古学研究所で土器の復元作業見学》によると、
天皇、皇后両陛下は2日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年の式年祭のため、奈良県橿原市に入られた。両陛下は午後3時半過ぎ、市民ら約1200人が出迎える近鉄橿原神宮前駅に到着。その後、県立橿原考古学研究所で、平城京跡から出土した土器の復元作業などを見学された。破片をパズルのように組み合わせる作業員たちに、両陛下は感心し、「大変な作業ですね」などとねぎらいの言葉をかけられた。3日は、同市内の神武天皇陵で式年祭に臨まれる。
この写真は、4/2の奈良テレビニュースの画面
4月3日は本番の「神武天皇2600年大祭」だが、これは招待者しか参列できない。当日の様子を日本経済新聞(4/4付)「両陛下、神武天皇陵を参拝 2600年式年祭」から紹介しておく。
天皇、皇后両陛下は3日午前、奈良県橿原市の神武天皇陵を参拝された。同日は日本書紀の神話で初代神武天皇が没したとされる日から2600年(新暦換算)にあたり、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」の山陵の儀が行われた。随従皇族として秋篠宮ご夫妻も参拝された。100年ごとに行われる式年祭は1916年(大正5年)以来。
写真は天皇陛下と秋篠宮さま(神武天皇陵前)。北海道新聞(4/4付)のサイトから拝借
この日午前、皇居・宮中三殿では式年祭の皇霊殿の儀が行われ、両陛下の名代として皇太子ご夫妻が拝礼された。雅子さまが宮中祭祀(さいし)に臨まれたのは2009年1月7日の「昭和天皇二十年式年祭の儀」以来7年ぶり。両陛下は同日午後、神武天皇陵に隣接する橿原神宮に参拝、同神宮崇敬会館宝物館を視察された。
桜満開の橿原市で行われたビッグイベントだった。市内では「春の神武祭」(4/11~17)、橿原神宮では「文華殿」の春季特別公開(4/25~6/19)が始まる。畝火山口神社では春の大祭(4/16)がある。今年は、橿原市から目が離せない。
この日は晴天で桜も満開。少し早め(9:30頃)に着いて桜を見物した。ここは境内の南に広がる「深田池(ふかだいけ)」。神宮のHPには《南神門広場の南方に明るい静かな水面が広がっています。面積は約4万9500㎡(約1万5000坪)。対岸までの遊歩道が整備されています》とある。
3日の2600年大祭(3,000人規模)に備え、イスが準備されていた。外拝殿から内拝殿を望む
早めに着いたので、境内はひっそりとしている。日差しは温かいが、日陰に入ると結構寒い。外拝殿(げはいでん)で待っていると、ほどなく神職が一列に並んで南神門から入って来られた。
向かって右端は、久保田昌孝宮司
一行は外拝殿を通り抜け、広場から内拝殿へ。この奥に幣殿(へいでん)と本殿がある。参拝者は外拝殿から眺めるしかない。望遠レンズを持参して正解だった。
まずは「御鎮座記念祭と翁舞奉納」。式典が始まる10時になっても参拝者は20~30人と少なかったがその後、徐々に人が集まってきた。神職らがゆっくりと神饌(しんせん)などをお供えしているのが見える。
次に巫女さんの舞が始まった。神さま(本殿)に向かって舞うので、参拝者には基本的に背中を見せることになる。くるりと振り返った瞬間にシャッターを押した。
衣装も鮮やかな巫女さんの舞が終わると、次に翁舞(おきなまい)が始まった。男性の神職が翁の面をつけて舞う。奈良豆比古(ならづひこ)神社(奈良市奈良阪町)の翁舞は3人で舞うが、こちらは1人だ。
祭事が終わり内拝殿から引き上げる神職たち。トップ写真とも
祭事が終わって、神職らが引き上げた。いよいよ11時半から鶴竜関による「横綱土俵入り」(太刀持ちは豊ノ島関、露払いは正代関)だ。だんだん人が増え、外拝殿は立錐の余地もなくなった。外拝殿からはお尻しか見えないのだが…。翌日(4/3)の読売新聞奈良版が《四半世紀ぶり「ヨイショ!」》の見出しで報じていた。
写真は読売新聞から拝借
こちらは神宮のHP「橿原だより」から拝借
橿原市の橿原神宮外拝殿(げはいでん)で2日、翌日に営まれる祭神・神武天皇2600年大祭を祝って、大相撲の横綱鶴竜が奉納土俵入りを行った。午前11時半頃、鶴竜関は国宝姫路城をあしらった化粧まわしで登場。神職からお祓はらいを受けた後、本殿に向かって力強く雲竜型の土俵入りを披露すると、見守っていた参拝者らから「ヨイショ」の声が上がった。
横綱が引き上げるところを撮ってみた。周りにはスゴい人垣ができていた
同神宮での奉納土俵入りは1990年4月の神宮御鎮座100年記念大祭での千代の富士と北勝海以来26年ぶり。鶴竜関は「歴史ある橿原神宮で奉納でき、非常に名誉なこと。神宮の壮大さも実感しました」と語った。参列した奈良市の会社社長中谷昌紀さん(58)は「迫力ある素晴らしい土俵入り。大祭にふさわしい」と喜んでいた。
私も一緒に「ヨイショ!」の声をかけた。横綱土俵入りは、四股で悪いものを踏み鎮めるということなので、地鎮祭と同じ意味があるのだ。
土俵入りが終わると、潮が引いたように人がいなくなってしまった。しかしこのあと正午から肝心の「国栖奏」が内拝殿で行われる。「内拝殿は遠くて見えにくいなぁ」と思っていると、神職から「皆さん、内拝殿前まで行っていただいても結構ですよ」との有り難いお言葉、これはラッキー! 20~30人ほどの善男善女が集まり、内拝殿のすぐ手前、テント下の椅子席(翌日の大祭用の席)に座らせていただいた。
神職あとに楽人が続く
笛などを演奏しながら到着
国栖奏とは何か。吉野町のHPによると《国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し、朗々とした歌翁の声とともに、舞翁の振る鈴の音が冷えきった空気にこだまして、参拝の 人たちの胸に古代の息吹をよみがえらせてくれます》。
私は2010年の平城遷都1300年祭のとき国栖奏を見たが、遠くてよく分からなかった。今回は、まん前でじっくり拝見できるのだ。日本大百科全書(ニッポニカ)「国栖奏くずそう」によると、
楽器は三宝に載せ、一旦お供え
古代部族「国栖」の歌舞。『日本書紀』応神(おうじん)天皇19年には、吉野行幸のおりに、その地の土着民、国栖が献上物を持って訪れ、歌を詠み終わって口を打ち仰ぎ咲(わら)うさまが記されているほか、『古事記』にも「口鼓(くちつづみ)を撃(う)ち伎(わざ)を為(な)し」たとある。
祝詞の奏上が始まった
吉野国栖のこの独特の所作は、後の豊明節会(とよあかりのせちえ)をはじめとする諸節会に参勤して奏された国栖舞、あるいは国栖奏ともいわれる風俗歌舞の起源を示すものであろう。
お供えしていた楽器をたばる(賜る)
国栖奏は、大嘗祭(だいじょうさい)、諸節会などの朝廷の大儀に重要な役割を果たすようになったが、国栖のなかには平安時代になると山城(やましろ)国(京都府)綴喜(つづき)郡に移住させられた者もあった。摂関政治の時代に入ると、しだいに国栖の参勤がとだえ、12世紀なかばには楽所(がくそ)の楽人が代奏を勤めるようになったが、室町時代以降はこれも行われなくなり、国栖奏は廃絶した。
「○月、エンエー」の声を受け、鈴を鳴らしながら舞う
今日、昭和初年に雅楽の多忠朝(おおのただとも)がまとめたといわれる国栖奏が、奈良県吉野郡吉野町浄見原(きよみはら)神社の旧1月14日の例祭に行われている。
「1月、エンエー」と声が上がる。これを順に12月までやるのだ。少しずつ向きが変わるので、これは四方八方(360度)ということなのだろう。足すと「12」になるし。エンエーは「遠栄」か。そういえば「人民の遠栄(幸福)」というフレーズもあった。
終わって沓(くつ)を履くとき、足がしびれてなかなか履けない楽人がおられた。これはお気の毒だったが、大変さがよく分かった。
私はこれを最後に帰途についたが、15時半過ぎには天皇皇后両陛下が近鉄橿原神宮前駅に到着された。読売新聞(4/3付)《両陛下、橿原考古学研究所で土器の復元作業見学》によると、
天皇、皇后両陛下は2日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年の式年祭のため、奈良県橿原市に入られた。両陛下は午後3時半過ぎ、市民ら約1200人が出迎える近鉄橿原神宮前駅に到着。その後、県立橿原考古学研究所で、平城京跡から出土した土器の復元作業などを見学された。破片をパズルのように組み合わせる作業員たちに、両陛下は感心し、「大変な作業ですね」などとねぎらいの言葉をかけられた。3日は、同市内の神武天皇陵で式年祭に臨まれる。
この写真は、4/2の奈良テレビニュースの画面
4月3日は本番の「神武天皇2600年大祭」だが、これは招待者しか参列できない。当日の様子を日本経済新聞(4/4付)「両陛下、神武天皇陵を参拝 2600年式年祭」から紹介しておく。
天皇、皇后両陛下は3日午前、奈良県橿原市の神武天皇陵を参拝された。同日は日本書紀の神話で初代神武天皇が没したとされる日から2600年(新暦換算)にあたり、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」の山陵の儀が行われた。随従皇族として秋篠宮ご夫妻も参拝された。100年ごとに行われる式年祭は1916年(大正5年)以来。
写真は天皇陛下と秋篠宮さま(神武天皇陵前)。北海道新聞(4/4付)のサイトから拝借
この日午前、皇居・宮中三殿では式年祭の皇霊殿の儀が行われ、両陛下の名代として皇太子ご夫妻が拝礼された。雅子さまが宮中祭祀(さいし)に臨まれたのは2009年1月7日の「昭和天皇二十年式年祭の儀」以来7年ぶり。両陛下は同日午後、神武天皇陵に隣接する橿原神宮に参拝、同神宮崇敬会館宝物館を視察された。
桜満開の橿原市で行われたビッグイベントだった。市内では「春の神武祭」(4/11~17)、橿原神宮では「文華殿」の春季特別公開(4/25~6/19)が始まる。畝火山口神社では春の大祭(4/16)がある。今年は、橿原市から目が離せない。
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