天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

空海は生きている

2011-10-13 | Weblog
 空海は、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を贈られています。
 空海の名前よりも、弘法大師の名前の方が
 親しみがあるかも知れません。

 本名は、佐伯真魚(さえきのまお)で、
 774年(宝亀5年)に生まれています。
 唐に渡り、密教を日本に伝えた事で知られています。
 空海は、835年(承和2年)3月21日(現在の暦では4月22日)、
 かねて弟子達に告げていたように、入定したと言われています。
 この場合の入定は宗教的な瞑想に入った事とされ、
 現在でも高野山奥ノ院の霊廟で
 空海は禅定を続けているとされています。
 このため、高野山では、朝夕の2回、
 維那(いな)と呼ばれる僧侶を先頭にして、
 食事が運ばれています。
 更に、年に1度入定した日に、衣服も届けられています。
 霊廟がどのようになっているか興味がありますが、
 維那を務めた者は、他言しない決まりのため、
 現在も一般には不明のままになっています。

 今昔物語に、東寺長者であった観賢が
 霊廟を開いたという記述があります。
 921年(延喜21年)、「弘法大師」の諡号を贈られた事を
 報告に行った際、
 霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたとのことです。
 観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り、
 衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印したとの事です。

 しかし、一方において、空海は火葬されたとの説もあります。
 その論拠とされるのが「続日本後記」で、
 淳和上皇が高野山に下した院宣には、
 空海の荼毘式に関する件があるそうです。
 また、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に、
 空海を荼毘に付したと取れる記述があることも、
 根拠の一つになっています。
 もし、火葬されていたとなると、
 今に伝わる高野山の行事は何なのかと言う事になりますが・・・。

 弘法大師に関する言い伝えは、全国各地にあります。
 弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となったといった、
 弘法水の伝承をもつ場所は全国で千数百件にのぼるといわれています。
 霊験あらたかな伝承には、弘法大師が絡む事が多くなっています。
 そのような事から考えると、
 空海は依然として、高野山の奥深くで、瞑想していると考える方が、
 ロマンがあるような気がします。
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋草俊 | トップ | キケロ »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (井頭山人)
2018-02-16 21:49:11
今から12年前ですか。バスのツアーで高野山を訪れました。奈良国立博物館の国宝展が目玉のツアーでした。バスは夜道を高野山に上り、その日は宿坊に泊まり、ふろにも入れたのでした。次の日は早朝から高野山を巡りました。むかしここは父が、集団んで参拝に出掛けたところです。陸軍予備士官学校が群馬県相馬ヶ原に在った。そこの同期生や戦死された方の慰霊の為に訪れたらしい。私が歩いた参道には相馬ヶ原予備士官学校戦没者の大きな石の供養碑が立っていました。父はここに来たのか!と思いました。

そうですね、空海は今も奥の院で瞑想の最中にあると云う説明でした。然し天然居士さんがお書きの様に六国史(日本書紀、続日本紀、日本後記、続日本後記、日本文徳天皇実録、日本二代実録)の中の、続日本後記の中の一条に空海の荼毘に付いての記述がある。史実は荼毘に付されたと云う事です。

しかし、今から1300年近いあの時代にこんな凄い日本人が居たのだと思うと我々はモット元気を出しても好いですね。その著作の全体を精読した事など無いのですが、それでも彼の全集は出て居ます。筑摩書房版の全集が手に入り易いと思うが、抄本は市販されている。筑摩書房からは文庫版で全集の抄本が出されているようです。三教指帰、秘密曼荼羅十住心論、般若心経秘鍵、ウン字義、性霊集、秘蔵宝ヤク、などが主な物でしょう。

性霊集は名文の塊なのですが、栃木県人だからでしょうか?特に感動的なのは性霊集の中の「勝道上人を讃する文」です。読まれれば分るでしょうが、この文章から空海の真直ぐで謙虚な人間が流れ出しているような感じがします。御存知のように、勝道上人は日光男体山の開山者で生まれは真岡市の仏生寺と云われていて、今は真言宗豊山派の若い住職が住まわれて居ます。また、小さな山一つ隔てた西には親鸞上人の専修寺があり、専修寺から北に700mの所には二宮尊徳が復興に奮闘した桜町陣屋が在ります。

勝道上人は仏生寺でうまれ、たぶん下野薬師寺で正式の僧侶となる学問と訓練を受けたのだろうと思います。空海と勝道は直接出会った事がないが、然し同じ時代の人でした。弘法大師空海は、今でも奥の院で瞑想に入っていると信じられています。それ故、毎朝大師に食事の支度をしているようです。1200年間一日も欠かさず続けて居るという事は、如何に彼の感化力が絶大で有ったかを証明して居る気がします。もう生きた空海には出会えないとするなら、彼の残した稀有の著作の中に、真の声を聞くことが出来るのではないか?という希望もあります。
返信する
有難うございました。 (天然居士)
2018-02-27 16:58:22
井頭山人さん コメント有難うございました。

実は、一昨日東京の国立博物館で開催されている、「仁和寺と御室派のみほとけ」で、
国宝になっている空海の「三十帖冊子」を見て来たばかりでした。
空海唐に渡った際に、
現地で経典などを写して持ち帰ってきたものです。
携帯できる小型の冊子本で、空海は生涯手元に置いていたと考えられています。
几帳面な字で書き留められていました。

空海の著作は、まだ読んだ事がなく、その内容などは、他の書物から知るばかりですが、
読んでみたいと思いました。

高野山にも行った事がなにので、行ってみたいと思っています。
返信する
Unknown (井頭山人)
2019-09-05 18:23:43
是非、一度は行かれたら好いと思います。秋が好いかも知れません。宿坊に泊まります。
返信する
有難うございました (天然居士)
2019-09-19 17:37:10
井頭山人さん 再度のコメント有難うございました。

はい、なるべく早く行けるよう考えてみます。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事