<2010.12.10>
{韓国 釜山} 玩月洞の教会・・・・・。
性売買禁止特別法施行前は賑わっていた通りもすっかりと静かになっているようです。
<玩月洞の始まりは・・・・・・>
江戸時代 朝鮮政府が対馬藩に交易の為の居留地を釜山に認めていました。
居留地の出入りには書類と確認が必要で、女性の釜山上陸は認めていませんでした。
臨時の交易の為の場所であって生活の場所では無いとしていたのです。
石垣で囲った居留地内に 男だけが短期間交代で住む殺風景な場所でした。
明治9年になり江華島条約で釜山が開港になると、監督官( 近藤眞鋤)が置かれました。
居留地内を日本人は自由に出入りができるようになりました。
日本人女性で最初に釜山の地を踏んだのは 釜山に赴任した書記官の妻が同行したことが始まりです。
東莱府の役人は驚いて退去を要求したのです。開港条約で日本人なら居留地内に
立ち入りは自由であるとして拒否し女性の釜山滞在は既成事実になりました。
以後女性の渡航が始まり釜山の商人たちも家族がいっしょに住む事ができるようになりました。
明治15年には芸妓取締規則ができ釜山の料亭で芸者や舞妓が接待することができる鑑札を発行しました。
明治35年7月居留地内の外れ(富平町特別区)に特別料理屋営業の許可が監督官から出ました。
特別料理屋とは娼婦を客席に侍らすことができる料理屋で内地の貸席と同じものです。
これが釜山の遊郭の起源になります。
上野安太郎は京釜鐵道が起工されると、呉服や食料品をもって現場を回り行商を行っていました。
監督官の出した特別料理屋の許可を聞くとただちに行動にでたのです。有力な競争者が出る前に、広島に渡り遊女を10数名雇って初代「安楽亭」を開きました。
これが釜山で最初の遊郭です。
3階建ては緑町遊郭に移転寸前に新築された2代目の「安楽亭」です。
広い空地に中に建てられたので人目を引きました。
富平町は遊郭が緑町に移転後にこの建物付近から発展していきました。
その後「第一楼」「菊福楼」「菊水楼」・・・などが富平町の通称「地獄小路」を中心に次々特別料理店(遊郭)が開業していきました。
同年11月には 全部で7軒の特別料理屋が開業していました。遊女は総数で280名になっていたのです。
明治40年 釜山理事庁は風紀上の取締りを強化するため市街地から離れた山裾の場所に遊郭を選定してそこの中だけの営業を認めることになりました。
3年以内に移転するよう命令しました。
残った建物は釜山居留民団が買い取り、通常料理店や、旅館に転売することになりました。
買収価格で多くの問題が出たのは当然です。3年の予定が5年かかりました。
明治45年1月 緑町遊郭が誕生しました。15戸の料理屋が営業を始めました。
釜山の人口増加に合わせて遊郭も規模が大きくなっていきました。
大正3年:1丁目19戸:2丁目15戸昭和14年の統計も同数の楼があります。
敗戦で占領軍の米軍はすべての日本人に着替えなどの手荷物だけを持ってだけで、残りすべての財産を置いて帰国する命令を出しました。
緑町遊郭も一時消えました。しかし残った建物を利用して韓国人が売春宿を始め、町名も「玩月洞(ウォンウォルドン)」と代わりました。
朝鮮戦争で避難民が押し寄せ人口が10数倍になると売春宿も規模が大きくなりました。
その後 いろいろあったようですが途中経過は省略いたします。
地名も「忠武洞」に代わりました。
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