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寮管理人の呟き

福山市草戸町5丁目12・福山護国神社跡地に残る神橋

福山市体育館前の御影石製の橋はもともと福山護国神社建設の際に造られたものだ。水路の上に架かる橋の先に護国神社の社殿を配置したという。

神橋

 福山護国神社は、沖野上町の廃川地内に建設されることになった。これまでは福山招魂社といい、明治元年(一八六八)に旧藩主阿部正桓が野上神社の境内に創建し、維新とその後の西南の役の戦死者を祀った。日清、日露戦争の戦死者の霊を祀り、明治二六年福山公園に移築している。
 この福山招魂社を移す新しい福山護国神社は、備後一円の浄財を集め、昭和一七年四月二万坪の廃川地に着工した。…

 境内に大鳥居二基が設置され、神社正面に御影石の神橋(反り橋)がかけられ、護国神社本殿もほとんど完成し竣工検査直前であった。しかし、まだコモのようなものでスッポリと覆われたままで、人目には触れずじまいの昭和二〇年八月八日夕刻アメリカ軍の空襲の標的にされ幻の神社となった。
 焼けていなければ、今の体育館はなく、競馬場の所は総合運動公園となっており、競馬場(昭和二四年九月第一回開催)はできていなかったかもしれない。また、焼けた跡地には昭和二六年国民体育大会のため、福山市民球場ができた。プロ野球もここで公式戦を行った。石の反り橋を渡って県民の球団広島カープの応援に行ったが、その後野球場は竹が端に新しくつくられ今はない。しかし、神橋は現存し名残の橋となっている。かつての神社の存在を示す石橋の独りごと、「たとえ神社が焼け残ったとしても平地であり、森もないところでは殺風景になったのでは…」渡る人影も少ないまま不釣り合いに取り残されて寂しそうである。
 跡地には、市立体育館が昭和四三年建設され今日に至っている。
 さて、幻の社となった福山護国神社は、福山城背の阿部神社を改築し合祀され、備後護国神社として昭和三三年三月再建され、春季慰霊大祭(備後招魂祭)、秋季の例大祭(一〇月二三日)として執行されている。

『福山市多治米町誌(平成五年・一九九三年)』

福山空襲被災地域図

現在松浜町2丁目のリーデンローズ(ふくやま芸術文化ホール)1Fで福山空襲写真パネル展が開催中である(最終日は8月15日)。福山空襲被災地域図の大パネルを見て幻の護国神社と運動公園の位置などを確認して欲しい。アメリカ軍の空爆がいかに正確でしかも木造家屋(民家)の延焼を主目的にした非人道的行為であったことがよく分かるはずだ。

リーデンローズ

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