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寮管理人の呟き

備後福山藩の御仕置場跡

今から数年前に専故寺絡みの石造物が深津高地にあることを私は長尾寺(ちょうびじ)の住職から聞いた。文化年間に三吉村に移り境内に首塚が祀られていたこと、福山空襲で寺が焼け落ち再興されなかったこと、残った石塔が深津高地に戻されたことを知る人は殆どいない。なぜなら郷土史研究家がタブーとしてあえて言及を避けてきたからである。

専故寺の光明真言曼荼羅碑

私は歴史書を読み解くのと同時に複数の人間から聞き取りを行った。そして元々寺があった場所は現西深津町(蓮池川より東方)であることを悟った。

攝手(取)山、專故寺 淨土宗、智恩院末寺
開基、專故和尚。延寳、天和の比迄は小地の庵にして地中に火葬屋ありし町人の火葬塲なりとぞ。洞林寺湛譽和尚の時、水野勝種君の御母堂、月悤院の願ひによりて寺となりしとなり。其先庵もなき中は斬罪塲なりしを、斬罪塲を榎木嶝へ移し、其跡に小庵を營みしと云。

『西備名區』


淨土宗 攝手山 普益院 專故寺 京都智恩院末寺
開山 順譽上人、專故和尚 
無縁常念仏の寺なり。當時火屋の所は斬罪塲にて、今本尊のおはします須彌壇の下ハ千人壺といひて死罪のものゝ骸、倒れもの、乞食なとの死しけるを捨る所なり。斬罪塲千人壺ともに榎木峠へ替られて後、專故和尚、庵を結て念佛を行せられけるか、專故和尚遷化のゝち、延寳、天和の比、口稱坊と云もの隔屋念佛を修行し、福山洞林寺世湛譽上人を中興開山とす。其比水野勝種公の御實母、月窓院殿。御祖母、清春院。洞林寺の檀那にておはしけるゆへ、勝種公の御聞に達し、程なく寺となりぬ。其以前ハ專故庵といひける故、寳永、正德の比迄も深津の庵といひけるなり。

『備陽六郡志』

福山藩の御仕置場跡地は私が調査しただけでも5,6ヶ所あるのだが、それらに共通する点は主要な街道沿い(または近く)に設置されていたということだ。罪人の亡骸を領民や通行人に見せること(獄門台)は犯罪の抑止力になったと思われる。

大山共用墓地周辺の地図

大山共用墓地の北側より西深津町3丁目の市営住宅を望む

卒塔婆と光明真言曼荼羅碑(地図の赤い丸)の先(北側)で道は蛸の足のように放射状に広がる。水色の矢印の方向へ進み坂を下り始めると民家の前に小さな祠(地図の橙色の丸)が見える。

地中から出てきたという仏頭

祠の中に祀られているのはお地蔵さんではなく仏頭だ。角さんのポーズをして佇んでいると坂下から眼光の鋭い老婆が現れた。気まずい状態を解消しなければ、と思い口を開いた。

「この仏頭は一体何なんですか」

婆さんは「道路を整備した時に土の中から出てきたのをこうして祀っとる」と言った。「専故寺絡みですな」と返したくなるのを堪えてただ頷いておいた。長居は無用と判断して祠から離れたが、途中で振り返ると老婆はイタチのように消え失せていた。

坂下より大山共用墓地を望む

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