私は火災事故の犠牲者の冥福を祈り忌み地巡りをすることにした。用水路を越えて西へ行くと江戸期の役人村である。
尾道往還を通り水道局前の旧土手道(現在のバス通り)に出る。近年の再開発(分譲マンションの建設など)によって周辺の環境は大きく変わろうとしている。
尾道往還土手の外を磔塲といふ、宗休公御代の斬罪塲なり。當時も此所より西之方、靑木かはなの北へ少々よりて前地と云所にて斬罪を行るゝなり。磔、獄門なとかゝりたる事はなし。右の御代、荼毘所も此邊なりしか、西風の時は御城内へ匂ふ故、三吉村へ被替。
『備陽六郡志』
福山藩公設の御仕置場が榎木峠にあったのは有名な話だが、水野家時代初期、西の役人村にも2ヶ所置かれていたとの記述を歴史書で見つけた。地元の(似非)郷土史家は何故かこの事実に目を瞑る、城下町研究で近世警察による治安維持は決して外すことは出来ないはずなのに。磔場は鷹取川(廃川となった)と芦田川本流との間の湿地帯を指すものと思われる。菅茶山がまとめた『福山志料』には次のように書かれている。
試砲塲
葦田川ノ内前地ト云所ニアリ水漲ラサルトキハ沙原ナリ
土手道を更に北西へと上って行くと神島橋東詰に至る。薬師堂が建っている辺りが青木端と言い伝えられる。当時と今とでは堤防の規模や川の流れが若干異なるものの磔場および斬罪場の位置は大まかに推定出来よう。少数の義民のことばかり語り大多数の仕置された極悪人(盗賊・火付けなど)を無視する備後の歴史教育はやはり異常である。
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