武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

万華鏡のような街(作品紹介776)と 素のわたし

2024-05-31 20:03:57 | Weblog

この絵は、1階のアトリエに持ち込まれて、棚の上に飾られていました。

クレパスで描かれていますが、塗り残しというものが全くなく、

表面は非常にフラットに仕上がっています。

自身がクレヨンで絵を使って描いたのを思い出して見ると、

紙の凹凸によって、ザラッとした感じが出ていました。。

クレパスを何度も塗り重ね、ギューと押し付けると完璧に隙間を無くすことはできますが、

部分だけに終わっていたことを思い出します。

ある程度塗りこめていっても、今度は重い感じになったりする。

その上クレヨンは、失敗すると修正すると色が濁るのです。

そう思うと、武内はなかなかの熟練者だ。

描き方として、下書きというものをしないというのも、不思議なこと。

この絵は、街の絵だと思いますが、

ひっくり返ったこうもり傘の形と三角の縞の形は、隕石のようで、

「何にかが、降ってきてる。」と、絵の前で呟きながら、

絵の裏を見ました。

裏には、白い紙切れに「飛行する街」と書いてあった。

タイトルを知ると、ますます謎めく。

わたしとしては、「万華鏡のような街」だとぴったりくるな、と思いながら絵の前で考えていました。

だから、ブログのタイトルなわけです。

 

作者である武内の近況の写真があります。

↑こちら

散歩に行く一番近い公園にて。

遠くを見ています。

こういう人が、ハチャメチャな絵を描いています。

 

 

長くブログを休んでいました。

かなり重症な風邪を引いてしまい、頭はボ~としているし、

物を持てば、落とすし、無理して銀行に行くと、引き出したお金を持ち帰るのを忘れるしで、碌でなし状態。

途中でお金を持ってないことに気がついた時は、気が遠くなった。

しかし、取り忘れていたお金は、銀行が預かってくれていて、なんとかセーフ。

日本だからお金は無事返ってきたと思います。

家に帰ってから、何度こう言ったことか。

風邪を引いたからといって、する事なす事に過失がつきまとうことはないと思うのですが、

今回は、そのようなことがつきまとい、

お茶を飲もうと思って入れて、「さあ、飲もう。」と思って、湯のみを持った途端、

指に力が入っていないのか、膝の上にこぼす。

その上、精神のほうも、“嫌々病”といってもいいぐらいで、

「ご飯作るの嫌」

「買い物、行きたくない。」

「ピー(我家の猫)、わたしをこき使わないで!」

「ヒロク二さん、話かけないで。答えるのに気力使うから。」

こんな調子。

それなのに、ヒロク二さんからは、

「さほり、具合悪いからって家にばかりいてはいけない。日に当たらないとダメだ。」と言われ、

散歩に連れ出される。

わたしが、ヒロク二さんに常日頃言っていた言葉が、自分に返ってきているという・・・。

そう、散歩に連れ出していたわたしのことを、鬼とか言っていたのですが、

歩いているうちに体力がついて、身体が楽になってきたのを実感している夫は、

今、散歩が気持ちいいみたい。

無理やり連れ出され、一緒に行くと、

「さほり、色々教えてくれてありがとう。それに付いてきてくれて。」と、言ってくれる。

元気な時なら、「そうよ~!」と相槌を打つかもしれない。

しかし、「ハ~、しんど~。」と重い身体の時に限って、感謝の言葉を聞くというアンバランスさ。

内心、わたしは嫌がっているからね。

わたし達は、シーソーの関係に似ている。

なんかいつも揃わない。

 

この度の重度の風邪は、わたしにとって変な精神作用があり、

武内の奥様ということから気持ちは離れ、

“ただのわたし”つまり、素のわたしに近づいているようなのです。

簡単に言うと、肩書きがなくなった感じに似ているでしょうか?

役割はあるので、それはしていますが、

気持ちが白紙状態に近くなった感じで、何かをリセットしています。

ヒロク二さんは、白紙のようなわたしと今出会っているのですが、

あまり気がついていません。

家から歩いて45秒のところに、たばこや日用品、食料いろいろなものが売っているお店があり、

具材がたくさん入っている“冷凍の鍋焼きうどん“を買い、晩御飯にだしました。

「あ~、これでやれやれ。」と思っていると、

時間が経ってから、「今日の晩飯はしないの?」と言われ、吃驚!

「鍋焼きうどんを食べたでしょ?」と言うと、

「あれが、夕食?」と言い、

今度は、ヒロクニさんが吃驚。

やっと、こういう手抜きが出来たのが、非常に新鮮。

ヒロク二さんは、文句も言えず階下に下りていきました

わたしがリセット状態のせいか、いつものパターンをくり返しませんでした。

いつもだと、何故うどんは晩御飯にならないのかという理由を聞かされるハズなんです。

それがなくて、ホッとしたのでした。

その他に、子供の頃の時間を思い出すことが多く、

「元々のわたしというのは、どんなことを思い、考えていてたのか?」等と言うことを、よく考えているようです。

こういう感覚に襲われるのも、60代なんだろうか?

そのせいで、物を落としたり、お玉を鍋のヘリで叩いたりしてしまうのか?

叩いているのに気がつかなくて、ヒロク二さんから乱暴モノと注意されました。

味噌がお玉から離れなかったから、やっていたんですが、

軽蔑の眼差しで睨むのです。

 

 

そんな日常を送りながら、珍しいものを見つけました。

↑赤い実が生っていて、ベリーの木?と思っていました。

↑ベリーの木にしては、棘がない。

そして、熟れた黒っぽくなった実をちぎって食べた。

甘酸っぱい味で、ベリーのような甘さはない。

これは、調べると「桑の実」というのが分かり、初めて見た植物。

よく通る道の端に、植わっているのですよ。

 

このことをヒロク二さんに報告すると、

「何でも口にいれるんじゃない。」と注意を受けました。

「毒だったどうするんだ。」と。

今、わたしは、大人の分別を無くしているようです。

 

 

今日は、書く気力がたまってきたようで、ブログを描きました。

“素のわたし“とは、「自分とは何か?」という問いに似ているように思います。

まだまだ、入り口というところ。

きっと「心の旅」をするんでしょうね。

今日は、読み応えはなかったかもしれないと内心思っておりますが、

最後まで、読まれた方、

ありがとうございます。感謝!

 

 

 

 

 

 

 

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凝視(作品紹介775)と アッシャー家の崩壊を読んで

2024-05-06 15:49:57 | Weblog

この絵は、家の柱に貼ってありました。

まず思ったのは、「この絵って、縦向けでしたっけ?」という事。

よく見たら、「カンテ」という文字と、サインが横になっているじゃないですか!

横だと、

↑横だと、このように見えます。

縦向けに貼ってあったということは、この方がいいと思っているのでしょう。

確かに、横向きにみるより、縦向けに見た方が、宇宙人?に目力を感じます。

「カンテ」というのは、大阪にあり、阪急中津駅の近くにあります。

随分前に、この本店で個展をさせて頂きました。

その時に、描いたものになります。

20年以上前の作品です。

この絵の緑色にインパクトを感じ、新緑の季節に合っているかもしれないと思い紹介する事にしました。

宇宙人の横には、蝉の顔が描かれているようにも思え、怪奇幻想という言葉も浮ぶが、

エイリアンの出現と思えば、近代映画のような印象も。

油性のマジックを使っています。

宇宙人の緑色の中に、黄色い線を残しているのが、小憎らしい。

オシャレな宇宙人なのかもしれません。

外国のコミックにも思えるところがあって、POPな作品です。

 

 

この絵のことを怪奇幻想と書きましたが、

このブログを書く前に、エドガー・アラン・ポーの短編集を読んでいました。

ヒロク二さんがいつも話題にする「アッシャー家の崩壊」をまず読み、次に「黄金虫」を。

後は、ページ順にという具合に。

私達の間で「アッシャー家の崩壊」がどういうふうに話題になっているかと言うと、

ヒロクニさんは、いきなり、「来るんだよ。妹が・・・。階段を上って来るんだよ。」と言いだすことから始まります。

「そしてね、階段から足音がするんだよ。ギシギシって音がね。」と言い、

「死んだ妹が階段を上ってくる音でね。」と続けて言い、

「その妹が扉の前にきて、その時に扉が開くんだ。」と言った後、黙っている。

そして、わたしの顔を見ながら、

「それは、まぎれもなく妹で、それが兄にのしかかるんだ。」と、また続け、

「怖いねぇ~。」と言う。

顔の表情と手でゼスチャーをまじえて、怖さを演出してくれるのですが、

これを見ているほうが、特異な気持ちになれるという代物。

私の中では、幽霊物語になっていました。

こういうイメージを持ちながら、「アッシャー家の崩壊」を読みました。

ヒロク二さんの話で、恐怖小説のようなイメージを持っていましたが、

耽美的なところも往々にしてあり、「怪奇幻想」という言葉がぴったりきます。

語り手である友人がその曰くのある城と友人を訪ね、城に着いたところから陰鬱さが始まります。

物語が進むにつれ、城の内部の描写があり、陰鬱さが重ねられ、恐怖が深まっていく。

恐怖の虜になっている城主の特異な耽美的な美意識と、恐怖がワンセットになり、

訪ねている友人の心にもそれが侵食していく描写で、恐怖が高まります。

恐怖の正体は、「死」。

妹が死んだと思った城主は、妹を棺に入れ、墓地には行かず、

地下のかつて爆発物を入れていた倉庫に運びこみ、棺桶の鍵をかけ、地下の扉に鍵をかける。

その後、城の中で足音がするようになるのです。

城主は、妹を生き埋めにしたと言い出したりしますが、真相は分かりません。

ヒロク二さんの言うように、「それは、まぎれもなく妹で、それが兄にのしかかるんだ。」となった時、

その兄も死ぬ。

取り残された友人は、城が揺れ始め、その恐怖で外に出ると、

城は、割れ崩れ、沼に飲み込まれていきます。

沼の様子を見ながら、ただ独りそこに取り残される。

静けさの漂う中、尋ね人であった友人が独り残されている情景で物語は終わります。

エドガー・アラン・ポーは、アメリカ人なのですが、作風はヨーロッパを思わせます。

文章は簡素で分かり易い部分もありますが、

物や人物についての描写は装飾的でゴシックロマンの小説を読んでいるような気になるが、

“ロマン”という部分は薄いので、ゴシック小説の輪郭が浮き出ているという感じがした。

「アッシャー家の崩壊」は、陰鬱な沼が、わたしの心には象徴的に残りました。

ヒロク二さんは、階段の足音らしいが、

冒頭から登場する沼が、「死」、もしくは「滅び」を象徴していたようなように思いました。

次の「黄金虫」は、愉快な雰囲気を隠し持ちながら、話が展開されます。

「黄金虫」は、推理小説の原型といえる作品で、暗号を解くという推理がはじめて世に登場した小説らしく、

これは、読みながら、何度か読者は騙されます。(笑)

読むものは、ここに登場する「黄金虫」の班のありようがドクロに似ていることや、

黄金の色をしている珍しいものだという描写で、この昆虫に意識がいく。

登場人物の中で、それに囚われる人物がいて、

すっかり「黄金虫」に囚われてしまい、意外な結末に驚かされます。

推理小説という分野を開拓したエドガー・アラン・ポーは、

アメリカよりもヨーロッパで人気があったそうです。

ポーの影響や、時代の流れで探偵小説が、イギリスで花咲くのはこの後です。

 

ここで終われば、書評ということになるのだろうけど、

ヒロク二さんとわたしは変なゴッコをしていました。

ヒロク二さんとわたしだけが受ける笑いにはまることに。

わたしが2階にいると、ゆっくりと階段をギシギシいわせながら、ヒロク二さんが上ってくるのです。

「アッシャー家している。」と思ったわたしは、

「怖いじゃない。マデリン姫が上ってきたのかと思った。」と言うと、

「リジーア」と言って、ポーの小説の登場人物になって、変な顔しているのです。

(注:死んだ妻の虜になっている男の話で、リジーアはその妻)

こうやって、2人で笑っていると、

私達夫婦は、お互いが娯楽になるという、究極を極めているのかもしれません。

 

 

散歩は、ヒロク二さん頑張っています。

また、家からトアロード通りまで、行きました。

また、ジャズ喫茶木馬に。

↑いつもここに着いた時は、疲れているようです。

しかし、この後もっと疲れることになるのですが・・・・。

電車に乗らず、歩いて家まで帰りました。

この日は、9722歩に。

そして、道々私達は、言い争いながら帰るという・・・・。

疲れているせいか、聞き捨てなら無いことばかり言うので、争っていました。

わたしのことを「鬼」とか言ってましたわ。

 

よく行く公園は、シロツメクサが満開。

↑花がどんどん増え続けています。

この木の幹を見ながら、なんて言う木だろう?と疑問に思っています。

この地は、木が多いので、木の種類が気になるようになりました。

 

↑タンポポです。

このように写真に撮りたくなったタンポポは、はじめてです。

このありように、宇宙を感じました。

(大げさ)

タンポポは、刺繍やデザインに多く取り入れられている花です。

葉のギザギザの形も特徴があります。

植物は美の恩恵を与えてくれる素敵な存在だと、いつも思います。

 

 

今日は、絵も写真も緑尽くしになったと思います。

今日は、ヒロク二さんからの影響で読んだ、エドガー・アラン・ポーの小説のことを書きました。

小説における新しい分野を開拓した、先駆者です。

ヒロク二さんからは、「意外と“詩”がいいし、多いと思うよ。」と、アドバイスしてくれました。

いろいろなことを知っている人です。

散歩は歩数を伸ばす、身体に負荷がかかるぐらいすると、体力はつくようです。

以前と違い、階段を勢いよく登っているようで、

降りたり登ったりの行動が多くなりました。

小部屋を書斎にするとか言って、動いています。

やっと、運動が癖ついてきたようで、やいやい言った甲斐があった。

言うのも疲れるのですが・・・ね。

今日もブログを最後まで読まれた方、ありがとうございます。

 

 

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おもちゃ箱(作品紹介774)と 私的家計の節約。

2024-04-27 13:50:14 | Weblog

この絵は、A2サイズになります。

その為に、スマホで写真を撮りました。

今まで使っていたカメラは、動きが鈍くなって時々写真が撮れないというありさま。

スマホで写真を撮りましたが、やや光ってしまいます。

0円の機種変更のスマホなので、写真性能がいまいち。

このような事情がありますが、

なんとか実物に近い色合いをパソコンにて補正しています。

 

トリコロールな色合いで、サーカスのテントのような形が中央にあります。

武内の絵でよく言われる「おもちゃ箱をひっくり返したような」と

言う形容が当てはまる絵ではないかと思います。

黒のクレヨンで描かれたホースのような、バネのような形が、

首を振るおもちゃを連想させます。

また、テントの形の下には、2本の支えのようなものがあり、

それが足にも思えたり。

そう思うと、人物画立っているように見え、

顔がくっきりと認識され、人間ではない「何か」がいる。

そう思いながら、周りの形を1つ1つ見ていくと、

けっこう愛らしい形がうごめいている。

左上の円の部分は、目があり、宇宙の1部のようでもある。

また、右上のチューブの近くにある赤い形は、羽根を広げた鳥?羽根を広げた人?

という感じの形だ。

右下には、植物のような形もある。

いろいろな形が織りなす「おもちゃ箱」

そんなふうに絵を見て頂けたら、嬉しく思います。

 

今、財布の中身が、1,348円だ。

この金額で、4月30日まで乗り切りたいと思っています。

4日間の辛抱です。

今日は、画家の妻の家計対策編ということを書きます。

まず、いつも月初めに使うお金、一ヶ月分を財布に入れます。

そして、残ったらいいな・・、と思う額を財布の中で決めた部分に分けます。

(これが、残らないのですが・・・)

以前は、家計簿なるものを簡単に付けていましたが、

今は、特別な出費だけを記録に残すことにして、細かいことは省いています。

ヒロク二さんは、煙草もよく吸うし、甘いものも好きだし、暖房はガンガンかけるしで、

わたしから言うと「金食い虫」だ。

日常的にお金がかかる。

だから、わたしは「甘いものぐらい控えろよ。」と叫んでしまう。

それは、おやつを食べるのに加速度がついている時だ。

それを見ているうちに、おやつを自分は食べないことにした。

(時々、少量食べる程度)

だから、おやつ代はほとんどがヒロク二さんだ。

洋服は、靴から服までサイズが同じ女友達が、「良かったら着て」と言って、

大きな紙袋にドサッと持ってきてくれるので、それが凄く役に立って、あまり服も買わない。

服を買う時は、「これ、欲しい!どうしても手に入れたい!」と、

かなり強い思いのものを買う。

日常では、服は4段階に分かれていて、

家にいる時の汚れてもいいような服装、

買い物に行く時の見ておかしくない程度の服装、

阪急電車にのる場合の服装、

公の場とか、オシャレをしたという意識の服装に分かれている。

最近は、「まあ、いいか」と思うことが増え、

家の服装で買い物に行ってしまうこともよくあり、緊張感が抜けている。

わたしが洋服を貰うと、ヒロク二さんはチェックしにきて、

「このブラウス着てもいい?」とか言う。

なんか、いじましい。

最近、母にそっくりになっていっているわたしは、

時々化粧品が欲しい。

かなり写りの悪い写真があって、それを見せると

かなりの人が「うっ。」と言う顔をし、笑ったのがいた。

それから、努力でなんとかなる部分は改善しようとしている。

特に薄付きで自然に見える下地とかファンデーションは、どれか?

しかし、若い時から適当な化粧しかしてこなかったせいか、

何を買っていいか、何が自分に合うのかいまいち分からない。

Youtubeで見て、どれがいいのか研究している。

60代は、厚塗りはいけないというのだけが分かったこと。

これがいいかもしれないと言う商品を選び出し、

安くで買おうとメルカリとかを見ると、

いいであろう商品というのは、あまり出品されないし、

出品されても定価に近かったり、すぐ売れてしまうみたいだ。

ということで、来月の予算に組み込むわけです。

スーパーでは、ちらしを見て買いに行くことはしません。

行った時に安くなっているものや、肉や魚はまとめて買うと安い時があり、

その時に「いいな」と思ったものを買います。

そして、冷凍しておく。

食費にお金がかかっていると危機を感じた時は、牛肉を買うのをやめる。

ヒロク二さんが、好きなのですが、おやつ代もあるから、

身から出たサビだと思え!と思いながら、牛肉の前を通りすぎます。

スーパーのカゴが山盛り一杯になっているにもかかわらず、

7,000円ぐらいで収まったら、「よしよし、いいぞ!」と思い、よくやったと思う。

以前は、すぐ10,000円越えていましたが、こんなわざが出切るようになった。

こうやって、節約ぎみにして、なんとか画材にもつなげていきます。

また、節約ぎみにして、必要なものはすぐ買いたい。

今、財布の中身が、1,348円ですけど、

冷凍庫に肉や魚があります。

買い時と思った時のものです。

あと4日は、十分に持つでしょう。

こうやって、期間を決めてお金のやりくりをしています。

思った“おかず”が出てこないとヒロク二さんは文句を言う時がありますが、

そんな時、

「あなた、飢えてないだけでも感謝よ。」と言ってやります。

結婚してから、お腹がすいてしょうがないという経験はありません。

画家という職業なのに、飢えたことがないなんて、

ラッキーだと思うのです。

その他にも、恵まれていると思う事がたくさんあります。

そう思うと、今自分がここにいるという瞬間にも、感謝しなくては・・と思うのです。

やはり、こうやって書きながら、

この瞬間わたしもどこかで不満に思っている心があることにも気がつきました。

身の丈にあったお金の使い方を心がけているつもりですが、

化粧品などを見ていると、身の丈にあってない商品が欲しいと思うこともあって、

どこかで欲がめらめらと燃えているようです。

「もう、あきらめろ」とか、「老いの覚悟を決めよ」とか、そんなところだ。

さあ、瞑想でもして気持ちをニュートラルにしなくては・・・。

 

 

今日は、やりくりの話から、意外にも

自分をとりまく環境に感謝する流れになりました。

お金は本当はもっと使いたいのですが、諸事情で節約生活です。

しかし、この生活で必要なものとそうでないものが、

より分けられることがうまくなったと思います。

食べることで言えば、やや粗食なものを食べることになり、

それで健康を維持していると思う。

節約ということで、外食というものも殆どしません。

ヒロク二さんは、健康診断受けると、やや貧血ぎみらしいが数値に異常なし。

恐るべき身体。

薬も殆ど飲んでいない。

わたしはややコレステロール値が少し高いぐらい。

(遺伝らしい)

健康であるということが、一番大切かもしれないと思います。

健康であれば、すべてよし!

そう思うと、文句は言えません。

最近、ヒロク二さんは歩きを頑張っています。

それで、日常的に文句を言うのをやめてくれたら、なお素晴らしいのですが・・・。

わたしもヒロク二さんに、多くを望まないよう慎む事にしないと。

多くを望むから、ヒロク二に文句を付けたくなる。

とりあえず、健康でいてくれるということに、感謝だ。

 

今日は、わたしの節約術。

決まりは財布に入れるお金と一ヶ月という期間のみ。

後は、臨機応変に。

買わない、買うを調整するだけ。

しかし、うまくいかない月もあったり、凄くうまく行く時もある。

それで、相殺されることも。

ゆるくですが、基本から離れずのやり方です。

何か参考になればいいのですが、どうなんでしょうね。

今日も、最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

最後はつつじの花。

↑買い物へ行く途中の道にて。

今、つつじがあちらこちらで満開に。

道を歩いていると、つつじの花の匂いでむせます。

香水のような匂いで、けっこうきつい・・・。

こういう経験も初めて。

 

 

 

 

 

 

 

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男と女の夢想(作品紹介773)と 散歩あれこれ

2024-04-19 10:17:06 | Weblog

アクリル絵具使用。

この絵は、夏に描いたのだろうか?

スイカが描き込まれているので、そんなことを思いました。

「giRL」という文字の上に、跳ねている女の子がいる。

目を閉じている表情のためか、静かに滑るような雰囲気だ。

「MAM」という文字の右には、四角い顔をした男が呆れ顔でいる。

口は、一直線で表現され、思いを噛み締めているという感じ。

遠目に見ると、女の子の顔のまわりの暗い青の部分は、

海原と夜の空に思え、そこだけが空間が抜けている。

(色が深く暗いから、奥行きがあるように感じる)

画面の構成は、キュビズムのように捻じ曲げられ、

太陽や赤い惑星、建物がランダムに配置されてはいるが、

夜の静かな海に気が付くとロマンティックな絵にも思え、

恋する頃の不思議な感情を思い出します。

恋をすると感情が平常ではなく、異変を起す。

この絵にある、建物、太陽、惑星、木、すいか、夜の海という組み合わせ。

奇妙なイメージが湧く。

唐突に“すいか“があるというのは、可愛くもあり、

少女の頃の不可解な感覚と言ってもいいだろうか。

そして、絵の強引な構成も特異な感じだ。

絵の中に無理やりギュッとモチーフが詰め込まれ、

空間が斜めなったり、天井から下の向きになっていたりして、輪を描いています。

その隙間から、海が見える。

女の子が、目を閉じているせいか、夢での出来事にも思え現実感がない。

恋をする不思議な時間にも似ている。

恋をした時のエネルギーは、日常とは異なる世界を導き、

破滅の道か?ハッピーエンドか?

行く末が気になるところだ。

過去に、思いつきで特異な行動をしたことがあるわたしは、

この異日常の行動をしたことがあります・・・・・。

そして、不愉快な奴と思われた。

その悲しさよ。

そう、この絵には、恋した人のハチャメチャな思考、

そんな片鱗を感じています。

タイトルは、「男と女」でいいでしょうね。

 

暖かな日が続くようになり、寒さに弱いヒロク二さんも動くようになり、

運動も兼ねて、散歩をしています。

街へ出ると、歩いてしまうのではないかと思い、

地下鉄で三ノ宮に出て、画材を買い、その後は散歩という流れになりました。

やはり、街に出ると自然に歩き、人にも会いたくなるようで、あちらこちらへと。

神戸のトアロード筋にある「木馬」というJAZZ喫茶へ行こうとなり、歩いた。

ところが、毎日の散歩の歩数では身体は思ったより動きが伸びなくて、

途中で休みながら、行く羽目に・・・。

店の扉を開けた時は、どんなにホッとしたか。

↓JAZZ喫茶「木馬」でのヒロク二さん。

顔が疲れています。

眉もハの字になってしまって・・・。

その後、旧知の顔を見て、談話していました。

この日は、7657歩。

普段は、3000歩止まりなので、いつもの倍歩いたということだ。

 

普段よく行く場所は、殺風景な公園なのですが、意外と親子連れの多い公園。

↑シロツメクサが生い茂り、緑が広がっている。

座るところもなくて、うさぎの形の石が1つあるだけ。

鉄棒が3個。

後は、大きな木がランダムにそびえている。

だけど、見晴らしがいい。

↑シロツメクサをこうやってじっくりと見るのは久しぶりだ。

子供の頃、四葉のクローバーをよく探したことを思いだす。

ちょっと踏みつけられている場所の方が、

見つかり易いという統計を子供ながら導きだしたことなども思い出される。

延々とクローバーに関わっていた時期がありました。

子供の頃は、時間の観念が違うのかもしれない。

今は、そんな事していたらすぐ日が暮れてしまうし、そんな悠長な時間を取る気がしない。

そんな気持ちがないのです。

つまらない大人になったような気もします。

 

公園はもう1つ行く所があって、図書館の近くになります。

↑公園の高台から見下ろした所。

このあたりは、楠木町といいます。

そのせいか、本当に楠木が多くて、それも大きな幹のものが多い。

松やつつじも多く植えてありますが、

圧倒的に楠木が目立っています。

↑同じ高台から。向きが変わりました。

変わった桜の名前が付いていましたが、失念しました。

これは、山の方を向いています。

神戸は、海と山がありますので、海側、山側という言い方で方向を示します。

今日は、この公園にヒロク二さんを連れていきました。

神戸はヒロク二さんが幼少暮らした所なので、いろいろ案内してもらえると思っていたのですが、

何故か、わたしが連れまわすことに・・・・。

ヒロク二さんが言うには、

「私が知っている神戸はもうないんだよ。随分様変わりしていて、よく勘違いをしている。

 マンションなんてなかった頃だから。

 頭の中の風景は、しもた屋なんよ。」

ということらしい。

連れていく前に、1人でふらっと歩いて、下見をしています。

今日は、2人で公園の坂道を上っていると、

「おい、本当は1人じゃなくって、男と会っているんじゃないか!」って、

嬉しそうに言うのです。

近頃、劣化が激しくて、母に凄く似てきているわたしに、

そんな心配するなんて・・・。

目の下のたるみも二段になっているというのに・・・・。

もう、「あなただけが、そんな事言ってくれるのよ。」と思うと、

感謝するわ!

「ありがとう。あなた!」

いつまでも、色恋の気分を無くさないところは、夫の凄さだ。

 

 

では、最後に散歩中に見つけた「あざみ」の写真を。

↑道の間の隙間から出ているアザミを見つけました。

花が小さいので、ノアザミなのかもしれません。

葉はひどく尖っていて、触るとチクチクします。

以前の住まいの場所では、アザミが自生することはなかったので、

見つけた時、新鮮な感覚でした。

アザミの下にカラスノエンドウの花が見え、蔓を伸ばしています。

カラスノエンドウが群生して伸びていくさまも好きだ。

それを見ると、新緑の季節の到来を感じます。

カラスノエンドウで笛を作って、よく鳴らしましたが、もう作り方を忘れてしまいました。

その頃より、随分時間が流れたということだ。

わたしがこのように感じるという事は、ヒロク二さんにとっての時間の流れもあるということで、

どんな感じなんだろう?と思うのでした。

 

植物を見ていると、子供の頃の記憶やら感傷やら、いろんなものを思い出していました。

代わり映えのしない野草や雑草に近い植物は、

子供の頃の時間を思い出させてくれるようです。

懐かしい気持ちにというのでしょうか。

懐かしい風が吹きぬけたような感じでもありました。

 

今日は、散歩あれこれになりました。

まだまだ、ヒロク二さんを鍛えないといけない!(笑)と思っております。

都会に近い所に住んでいますが、意外と公園があって驚いています。

細道は入り組んでいて、迷路のようだし。

考えられないぐらい細い通路のような道もあって、変なスリルを感じます。

まだまだ、行ったことがない道が気になる毎日。

神戸散策に励みたい。

では、このへんで終わりたいと思います。

ブログを最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エネルギー(作品紹介772)と 桜と好々爺

2024-04-11 14:03:51 | Weblog

この絵は、アトリエ(仕事部屋)に貼られてるもの。

水が激しく飛び散っているさまにも思えます。

画材は、クレヨンと鉛筆。

階下に行くと、まず目にこの絵が飛び込んできます。

ガラッと引き戸を開けると、なにやらガツンと頭をやられたような衝撃が、脳に走る。

これは、最新作。

どうも武内は、歳をとっても“枯葉”のようにならず、

エネルギーで押し切りそうだ。

86歳になるのですが・・・・。

この「グミ」(お菓子のこと)みたいな形は、よく描いていたのを覚えています。

この形が人のようになったものもありました。

空中に浮いているものもありました。

今回は、対になっていて、よく見ると性別があって男女の違いを感じます。

武内の絵には、女の子(渦巻きヘヤー)や、自画像らしき男性がよく登場しますが、

男と女、恋人または夫婦のような2人の人物もよく登場します。

この絵はそのパターンにあてはまると思う。

この絵を見て、何?というのは分からないけれど、

エネルギーを出している瞬間とか、エネルギーを可視化したものであるのは確か。

見た瞬間に受けるものがある。

弱々しいものじゃない。

当人は、決して力の強い人でもなければ、精神がいつも強いという人でもない。

どちらかと言うと、ロマンティストで軟弱なタイプでもあるけれど、野蛮なところがある。

この野蛮な部分が発揮されたのではないかな?と思います。

“枯葉”にはなれない武内。

しかし、“濡れ落ち葉”にはよくなります。(妻からの弁)

 

 

気温も高くなり、散歩日和。

部屋に篭もりがちのヒロク二さんを連れ出して、

近所の入り組んだ細道を歩いています。

公園のほうを歩くと、お母さんに連れられて、楽しそうに歩いている親子がいました。

歩くのが楽しいと言う年齢なのか、

トットトト、と前のめりになりながらある一定の距離まで歩くと、

振り返りお母さんの所まで手を上げて抱き付きにいっている男の子がいました。

可愛いな、と思って見ていると、

ヒロク二さんは、「やあ!」と言って、その子に挨拶するのですが、

得体のしれない(普通の人には見えない)お爺さんは怖かったらしく、

お母さんのほうへ駆け込んでいきました。

わたしは、「今はおかしな人が多いから、知らない人に声をかけられたら注意しなさいって教えられていると思うよ。」と言った。

まじまじとヒロク二さんを見て、

不審者のような印象を受けてしまうだろうな・・・と、その風貌を見た。

この日は、子供が通る度に、「やあ!」と声をかけるので、

横にいながら、目で「大丈夫よ。」と言い、

頭を下げつつ子供達とすれ違った。

主人も随分変わったな、と思った瞬間でした。

実は、わたし達の家は、幼稚園と隣接していて毎日、子供の声が聞こえて来る。

よく子供の声がうるさいという住人がいるらしいが、

子供の元気な声は、そんなに気にならなくて、保父さんの声の方がやたら耳につく。

保父さんは、子供用の言葉のせいか、なにか変なトーンがあって、

聞いているとおかしい。

しかし、大変そうだ。

だから、子供の声がうるさいという人の気がしれない。

子供に声をかけるヒロク二さん。

なんか平和な感じで、好々爺になったという感じがした。

その公園を降りると、川沿いに桜並木があり、とても桜が美しかった。

天気が薄くもりだったのが残念でしたが・・。

↑この川は、神戸市にある宇治川になります。

↑桜は満開といったところ。

川の横は住宅街。

↑下の方へ垂れ下がる枝。

川底をバックに桜が雲のように。

↑房のように付いている花

 

↑これは、川を上っていったところ。

 

↑いつも思うのですが、桜の花の薄ピンクの色に黒い幹が見えるのは美しい。

くもりは陽射しの心配をしなくていいという利点がありますが、

空が青かったら、もっといい写真が撮れただろうに・・、と思うと残念。

桜を見ると、「西行」が桜が好きだったのを思い出す。

世を捨てたのにこんなに桜狂いで大丈夫だろうか?と思うぐらい好きだったという(笑)

こうやって、イメージを膨らまして、桜を見ていました。

ところが、「桜は、そんなに好きじゃない。」とヒロク二さんに言われてしまって、

途中から1人で花見をしていました。

桜の花は、幽玄的で花びらが散る姿も、はかない美しさがあって好きなわたし。

ヒロク二さんは、今日紹介したような絵を描く人なので、桜とは相性が悪いのかもしれない。

ちょっと・・・・・・。

今、階段をおりて、「どんな花が好き?教えて。」と聞いてきました。

百合と薔薇だそう。

百合は、谷間に生えている百合で匂いのするものがいいと。

確かに、桜とは随分イメージが違う花が好きなようです。

つかの間、好々爺になったヒロク二さん、平和的でした。

しかし、いつ豹変するか分からないから、あまり期待してはいけないと自分に言い聞かせています。

今日は、穏やかな日常の一コマでした。

こういう日もあるのですね。

今日も最後まで、お読み頂いた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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春の風(作品紹介771)と ジャネーの法則

2024-04-04 18:41:45 | Weblog

薄いピンクと霞がかかったような雰囲気が、いいと思って選びました。

桜が咲いているような雰囲気で。

仮面を持った少女が飛び跳ねています。

その他に3人の人物らしき形があります。

上の方にある形は、走る勢いのせいで、建物の柱に頭をぶつけている人物がいる。

下の左には、星のアンテナを立てている人物が佇み、

右には、バンザイをして走っているような人物、

その周りを囲む水色の形は、肩をいからせたロボットみたいだ。

そして、風が吹く。

今、桜がやっと咲き始めました。

入学式にも桜が咲いているでしょう。

わたしの記憶の中では、小学校1年の入学式の帰り、

桜の木の下で写真を撮ったことが思い出されます。

一張羅のワンピースを着ていました。

臙脂色のビロードの生地に、胸元にビーズとレースが付いているワンピース。

緊張しつつも嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで子供心に複雑な思い。

そんな時に風が吹いて、頭上に桜の花びらが舞う。

思い出しながら、「桜の咲く入学式」というのは、

なかなかいいと思いました。

今年は、そんな入学式になる子で一杯でしょう。

桜の頃の入学式、これはとても風情があるよね、とそんなことを考えました。

 

さて、わたしの思いはこうなんですが、

描いた当人は、こんなことを思っていないと思う。

この絵はボールペンで描かれているので、消すという行為は出来ません。

最初は、大きい画面で、街の絵を描こうとしていたと思います。

それが途中からうまくいかなくなった。

どこか失敗した部分が出来てしまったのだと思うのです。

そして、その絵を分割した。

そして、自分がいいと思う部分を残す。

その断片に色鉛筆とアクリル絵具で彩色する。

さらに、気に入らないところを削ぎ落とす。

こういう過程で、作られた作品だと思います。

長年、武内の絵を見てきているので、

ボールペンで描かれたモチーフの大きさで、なんとなく分かるのです。

もともと大きい紙に描いたものだろうと。

最初から、この大きさの小さな画面に描く場合だと、絵が細かくなるはず。

その上、画面の端の残し方がいつもと違う。

そういうことから、読み取れるのです。

どうしても気になる部分は、破り捨てたくなかったのでしょう。

その気になる部分は、少女と仮面の部分と推察する。

少女と仮面のフォルム(形)が一体になっていて、

カーブが流れるようになりながら、足のように思える形は意表をついていて、

残しておきたかったんだと思います。

だから、この絵を描きながら、桜のことを思ったりは全くしていないという訳です。

食下がるように試行錯誤を繰り返して、頭は画面上のことで一杯だったと。

そう考えると、上記の絵に寄せた桜の文章は、わたしの妄想ということだ。

わたしは、最近立派な「妄想家」になっていっているのかもしれない。

時々、自分でも「よーやるな」と思うことが、増えていっているのです。

じかし、イメージを膨らませていく過程は、面白く、

絵を見ていろいろ想像するのは、自由でいいと思うのです。

それぞれの人が、それぞれの思いがあって、

絵を見る自分と対話するのがいいと思うのです。

絵を見ながら、季節と相まって、わたしの中で桜が浮上したという事。

そこから湧き起こった「桜の花と入学式」の思いが、

わたしの中では大切なのよね。

それと、この絵にある風。

ふんわりしていて、どうしても春を感じてしまいます。

 

 

そんな春の日常は?と言うと、

未だ、頭が働かなくて、いつまでも調子がでない。

さあ、「これを片付けてしまおう!」と本の整理をし始めると、

急に眠気が襲ってきて、

「ここまで眠いのだったら、ちょっと寝た方がいいかも。」と思って、

横になると意外なほど寝てしまっている。

すると、夕食の準備の時間だ。

また、別の日は、ヒロク二さんが朝から、「今日は、歩くんでしょう。」と、

着替えて玄関に立っていた。

その顔を見たら、すごく変なのです。

怒っているようにも見えるし、何か不都合に耐えているような表情。

わたしは昼からと思っていたので、

「ちょっと待って。化粧してくる。日焼け止めを塗っておかないといけないから。」と言って、

準備をして1階に下りると、

今度は、ヒロク二さんが寝てしまっている。

昼過ぎになると、制作をはじめていて、服装も股引姿になっていました。

昨年の今頃は、引っ越し先を考えていて、

家探しにあっちこっちの不動産屋に駆け込んでいました。

それを思い出し、今年はちょっとホッとしているのかもしれないと思ったり。

しかし、常に眠気があり、やろうと思うことがはかどらない。

もう、年々1年があっという間で時間が過ぎるのが早い。

この前、引っ越したばかりのような気分だ。

6月が来ると、引っ越して1年が経つことになる。

この時間の感覚が怖い。

子供の頃と違い年を取ってくると、時間が経つのが早く感じられる。

この時間が早く過ぎる感覚のことを「ジャネーの法則」と呼んでいるのを知った。

19世紀の心理学者が発案したそうです。

こういう事らしい。

1歳の時に感じた1年を1/1とすると、2歳の時の1年は1/2となり1歳の時の2倍速く感じるようになるということ。

時間の早さは、年齢に比例すると。

また、これに抗うには、子供のように新しいことを始めるのがいいと、書いてあった。

その他には、年を取ってくると、身体の代謝低下に加えて、新しい体験の不足や、

さらに、未来への期待感が低下していることが、時間が早く感じる要因なんだとも。

同じことの繰り返しも、時間を短く感じさせているということらしい。

また、新鮮な体験や感情の高まりが少ないと、時間は早く過ぎるように感じると。

そう思うと、決まった時間に決めたことをするように、心がけているのはいけない?

わたしは、基本、規則正しい生活を心がけているつもり。

そうしないと、シャキッとしないと思って。

以前、ヒロク二さんから、

「規則正しい生活は嫌だ。」と言われたことがあります。

この発言、驚きでした。

「自由でいたい。」とのたまった。

また、「子供みたいだ。」と、ヒロク二さんのことを言う人がいます。

ということは、わたしと違ってヒロク二さんは時間の流れが遅いのかもしれないと思ったのです。

歳の差婚なので、25年という歳の差があります。

一緒にいて、30年以上経ちますが、精神的にはわたしの方がどんどん歳をとり、

ヒロク二さんはあまり変わらないとしたら、

うまくつりあっているのかもしれない。

そう考えると、ヒロク二さんを見習ったら、時間の経過が遅くなるのかもしれないと思うのでした。

しかし、そういう生活は疲れそうだ。

また、ヒロク二さんのような女にはなりたくないという事もある。

ヒロク二さんは、絵も新しいスタイルをいつも模索しているらしく、

同じような絵は描かない。

ある程度したら、次のスタイルが出てくる。

自分で、新しい刺激を見つけているということか?

夫は、86歳のわりには時間が遅く過ぎていっているのだと思いました。

そう思うと、恐るべし夫だ。

変人だし・・・・。

自分のことを考えている内に、

わたしの場合は、やろうと思っていることがはかどっていないという、

心理的背景があって、時間が特に早く感じるのだと思い当たりました。

なんとか、これを越えなくっちゃと思いますが、なかなか。

もう、壁になってるのかも。

春の空気に揺られるように、ゆらゆらしていると気持ちが安らぎますが、

ものごとが進まないのが難点。

ヒロク二さんから、用事をいいつけられると、「えっ!なんていった?」と答え、

うやむやにします。

 

 

今日は、ピンク尽くしということで、

あじさいのような色のビオラで終わりたいと思います。

↑ビオラなのですが、あじさいのような花色。

時間が経つと、ピンクの色が薄くなっていって、

花びらが、白に近い薄い水色に変化していきます。

不安定なビオラなんでしょうが、「あじさい」の風情。

種を継いで植えるビオラは、驚きがあって育てていて面白い。

ヒロク二さんに「あじさいみたいでしょ。」と言って、

2人で笑っていました。

 

今日は、薄いピンクのイメージが文章を書きながらしていました。

ほんわりと、春の思いにひたっていただけたら、嬉しく思います。

書いている内容が変だから、思えない?

そういうことは、ありえると思っています。

このようなブログを最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

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幾何学的な街(色鉛筆作品紹介770)と春のビオラ

2024-03-28 14:50:59 | Weblog

記号と幾何学模様が組み合わさった絵。

手前にある斜線が入った水色の部分がL字になっている。

手前にあるのは船なんだと思います。

そして、奥の目玉のある水色の部分と赤と黒の部分は、

対岸にある建物でしょう。

直線的な線で構成しています。

黒で描かれた線も太く、細く、その中間の線幅と、

はっきり区別するように描いていることから、

遠くから見ると空間を感じます。

モダンな街の絵ということか?

但し、目玉のある建物は蛙の顔のように見え、

モンスターのようでもあり、キャラのようにも思え、

何故か愛嬌を感じます。

当人は、普段、大真面目な顔をして描いているのが常なので、

この部分をキャラとは、まったく思っていなさそう。

ある意味くそ真面目だからこそ、出切るのかもしれません。

絵に対しては、異様に真面目で息苦しいところがあります。

言動は、人をからかったり、ふざけたりしますが・・・。

黒い部分も色鉛筆の黒色を使用。

鉛筆は使用せず、色鉛筆のみで描いています。

色鉛筆の黒というのは、

鉛筆と違い光らないので、重厚な感じの仕上がりになります。

この性質もうまく利用している作品だと思う。

 

 

 

やっと風が春めき、桜が咲くのを楽しみな季節になった。

ところが、どういうわけか頭がまったく働かない。

それは、昨日の27日がひどく、ブログを書こうと思っても、

ひたすら脳の中は白紙状態。

夕食のメニューすら決めかねるありさま。

こういう日って、とても珍しい。

1階のアトリエにいるヒロク二さんはというと、

↑いそいそと玄関の扉が開き、足音がしていたと思ったら、

ビールを買いに行っていたようだ。

鉛筆を握り締めていない時は、くつろぎモードのようで、

絵を点検していました。

近くに、おやつや飲み物、たばこ、酒、軽食、日用品を売っているショップがあるので、

病院の売店に行くノリで、よく行っている。

(入院したら、やたら売店に行くのがヒロク二さん)

ビールを買ってきたようです。

写真を見て気がついたというわたしもまぬけ!

このようにくつろぎムードでした。

わたしは、やっと花が咲いたビオラの点検へ。

↑毎年、「咲かせたい!」「種を継いで温存したい!」という黄色のビオラ。

黄色にグレーの部分があるのが、気に入っているのですが、

手前のは茶色と黄色の2色に分かれたものが混じっています。

↑こちらは、茶色のビオラと思って植えつけた鉢。

茶色のものにブッチ(花の中央の黒い部分のこと)が入ったのが咲きました。

真黄色の花と紫と黄色の2色に分かれた花が混じっています。

茶色の花は、継いだ種によっては、紫と茶色に分かれるのです。

↑ビオラをアップで。

同じタイプの種をまいてもいろいろな花が咲きます。

↑濃い赤茶と黄色のビオラ。

猿顔タイプのビオラ。

間が抜けたビオラなのですが、それなりに気に入っています。

↑アラカルトと称して、いろいろなタイプを植えつけた鉢。

黄色とブルー、白で爽やかな色合い。

↑こちらもアップで。

少しづつ違う花達。

今年は、どのタイプの花の種を採取しようかな、と考え中。

 

春の初めは、わたしは頭が真っ白。

ヒロク二さんはビールを飲んでくつろぎモード。

夕食のメニューの取り合わせが、おかしなことになりそうな予感。

来週は、桜が咲きそう。

近くの川沿いに桜並木があります。

それを楽しみに過ごすことにしようと思います。

花の美しい姿は、人の心をなごませてくれます。

だから、春は嬉しい。

 

嬉しい季節なのに、頭が働かないというのは悲しいような・・・。

はやく頭がまともになって欲しいと思い」ます。

昨日は冗談で、唐辛子のビンに、話かけました。

「あなたは唐辛子ですよね。

 こんにちは。

 今日は出番がなくって、悪かったですねぇ。

 わたしは、あなたのことが好きですよ。

 わざわざ、あなたを買いに成城石井にまでいったのよ。

 分かった?」

と、唐辛子の瓶に語りかけていると、ヒロク二さんが見ていました。

ヒロク二さんの顔を見ながら

「あっ、今ね。唐辛子に話しかけてたの。

 頭がおかしいのよ。

 もう、この家の住人は、すべておかしいのよ。

 そう思わない?」

と、言うとヒロクニさんは、ニヤニヤ笑ってました。

春なのでしょうか?

今日もブログにお付き合い下さりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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放電(スクラップブックより紹介769)と ロアルド・ダール(マチルダはちいさな大天才)

2024-03-19 18:25:23 | Weblog

コミックのような作品。

絵の下の貼られた部分を見て、いろいろ集めているのね、と思う。

うまい具合に絵の大きさに合っています。

マジックと色鉛筆を使用。

この絵を見た時、描かれた部分も印刷されたような表面で、

自分の絵をコーピーしたものを貼っているのか?と思ったぐらい。

「放電してるじゃない!」と思い、

ビリビリする感じをこの絵から感じ取っていました。

このふざけた感じのする絵、なんか憎めません。

わたしは、武内に振り回されている妻で、怒り心頭することもありますが、

最終的に「憎めない人・・。」と思ってしまい、

トホホ・・、と思いながら笑って仲直りしてしまいます。

そういう武内の性格というか、性向を物語っているような気がするのです。

わたしにとっては、当人そのもの。

武内の立場からいうと自画像だと。

やはり、絵は作者の分身なのかもしれない。

黒に浮かびあがる線は、赤色だけでなく、青色が添えられていて、

それが電気がビリビリしているような感じを出している。

プラスとマイナスの2極の原理なのか?

そう思って描いていないことだけは確かだ。

選択は瞬時で、勝手に手が動いているから。

この絵にもスピード感があり、そうでなかったらこの絵は出来ていない。

遊びというか、実験といってような作品のせいか、スクラップブックに貼られていました。

先回の「スクラップブックより紹介768」に続き、今日もスクラップブックからの紹介です。

 

 

近頃、要領が悪いせいか、やろうと思ったことが進んでいない。

早起きしたらいいか?と思っても、

春眠暁を覚えずといった具合で寝るのが気持ちが良い。

春のような暖かい日が訪れてからは、

寒さに対抗して気合を入れていたのが緩んだようで、ぼんやりしている時がある。

図書館へ行くのに新しい散歩道を教えてもらったので、

明日は図書館へ本を返しに行こうと思っている。

そんな中、ちょっと印象に残った本があります。

「マチルダは小さな大天才」ロアルド・ダール著。

この作者は、映画にもなった「チョコレート工場の秘密」の作者でもあります。

読んでいると、ヒロク二さんからは、「その挿絵いいじゃない。シャレているじゃない。」と言われたり、

「チョコレート工場の秘密」の訳が、田村隆一だと言うと、

「へぇー。」と言い、「そうなの。」と感心していました。

ヒロク二さんは、ミステリー好きで詩人の田村隆一が翻訳しているのをよく知っているので、

「あの人が訳している!」

だから、いいに違いない、というふうに考えが流れていっていると想像する。

話は、超がつくくらい賢い5才の女の子が主人公。

マチルダという名前だ。

本が大好きで、図書館の本を次々読む。

その本たるや、

チャールズ・ディケンズ著『ニコラス・ニクルビー』

チャールズ・ディケンズ著『オリバー・ツイスト』●

シャーロット・ブロンテ著『ジェーン・エア』●

ジェーン・オースティン著『自負と偏見』●

トマス・ハーディ著『ダーバビル家のテス』

メアリー・ウェッブ著『大地に帰りて』

ラディヤード・キップリング著『キム』

H・G・ウェルズ著『透明人間』

アーネスト・ヘミングウェイ著『老人と海』

ウィリアム・フォークナー著『響きと怒り』

ジョン・スタインベック著『怒りの葡萄』

J・B・プリーストーリー著『友だち座』

グレアム・グリーン著『ブライトン・ロック』

ジョージ・オーウェル著『動物農場』●

というリスト。

(後ろの●印は、わたしが読んだ本)

この中から、これから読もうと思う本を見つけたりしながら、

この本の選択に笑いが・・・。

なんといっても、5才の女の子が読む本だからという事と、

作者が何故これらを上げたのかという思いも加わって面白い。

とにかく、知能指数が違う5才の天才女の子が登場する。

ところが、その子の親は俗物で本のことを“クズ”と言い、「もっと役に立つことをしろ!」と怒鳴る。

本を読むと怒られるやら、罵られるマチルダの押し込められた怒りは、ちいさな身体にもたまる。

そして、こう言い決意する。

「かつてナポレオンがいったように、攻撃されたときには、反撃することだ。

 それがただひとつの思慮深いやりかただ」と呟き、

冷静に仕返しのいたずらを計画するのであった。

学校へ入学すると、今度は、とんでもない怪物のような校長が待ち受けている。

ミス・トランチブルという図体が大きく、ハンマー投げの選手のような校長だ。

この校長は、小さい子供が大嫌いなのだ。

マチルダは、この校長のことを

「彼女、すごく危険な人ね。どんなにひどいことでもやりそうだわ。

 この学校にいるのは、コブラといっしょに檻のなかにいるようなものよ。

 足がすごく早くなくちゃならないわね」と言ってのける。

生徒たちは、この校長に髪の毛をつかまれ、ハンマー投げのように投げられ、飛んでいくのだ。

むりやり特大のチョコレートケーキを食べさせられたり、

耳をねじまげられたり、数々の悲惨な暴力をうけることになる。

こういう事態に助け舟を出す、優しい先生がいるのだが、

その先生さえ、簡単に牛耳ってしまうのが校長だ。

その校長への怒りが頂点に達した時、マチルダは特殊な能力を持った。

頭脳とその能力を駆使して、校長への反撃を計画する。

最後は、やっぱり賢いマチルダ!!

となって、爽快感すら感じる展開です。

このお話を「児童虐待」のように感じて、子供に読ませることは・・・。

というような感想を持つ人もいるようですが、

イギリス人らしくブラックユーモアを効かせているのだと思います。

あの怪物のような校長のセリフとか行動は、滑稽なぐらい凄い。

人間じゃなくて“熊”のような凶暴さすら感じる表現に、笑いが起るぐらい。

だから、生徒に対してもグルグル振り回して、教室の窓から飛ばす。

すべてが大げさに表現されている面白さがなんともいえない。

■セリフを抜粋すると、

「お前を見ていると吐き気がするよ!」とザ・トランチブルはさけんだ。

「お前は歩く黴菌だ製造工場だ!わたしはきょう、これ以上お前の顔を見たくない!

 顔を壁に向けて、片足で立ってなさい!」

「ごちゃごちゃいうんじゃない。さもないと、足じゃなくて頭で立たせるぞ!

 さあ、いわれたとおりにやるんだ!」

と、こんな感じ。

こう書いているうちに、中学時代の体育の女教師を思いだした。

わたしの苦難の時間。

わたしは、運動能力がなかった人だ。

その教師が、わたしを指差し、「悪い見本をやれ!」って、走り幅跳びを皆の前で1人やらされたことがあったのを。

嘘みたいな話だが、その教師の顔がゴリラだった。

悪い見本をさせられた後、「何考えて飛んでいるんだ?」と聞かれ、

「いや、特になにも考えてません。」と言うと、

「頭を冷やせ!運動場一周走ってこい!」と、木の植わっている運動場のはずれを指された。

みじめな感じで、1人走りました。

しかし、その風貌と女教師の陰険さの方が際立っていたので、それほど気にしませんでした。

それに、悪い見本をさせられるより、走る方がましだ。

時間稼ぎと思い、ゆっくりと走ったのでした。

しかし、よく指差されたものだ。思い出してきた・・。

バスケットの授業でも、ストップと言われ止ると、

「何を考えてこのポジションにいるだ!行ってみろ!」と言われ、

ボールがこないところにいるんですとは言えず、「分かりません。」というと、

また、「走って来い。」と。

なんの役割も果たさない場所にいる人間を見たら、イライラするのだろうね。

しかし、わたしは人に迷惑にならないように考えて、その位置にいるという・・。

そう、ボールが自分に来ないところにワザワザいる。

ボールがわたしの手に渡ったら、すぐ相手にボールが渡ってしまうからだ。

だから、私的には正解なんです。

それが、ゴリラの教師には気に食わないのだと思います。

急に思い出しだけれど、よく似た教師がいたものだと書きながら驚いた次第。

事実は、小説より奇なりなのでしょうか?

たぶん、モデルはいるんでしょうね。

わたしの他にも、走らされている子がいました。

体育の出来ない子が大嫌いな先生でした。

 

本の名前と著者がこれほど引用されている児童書ってないと思います。

この物語を通して、ロアルド・ダールは、「読書は素晴らしい。」

と、いうことも伝えたかったような気がします。

文中には、

C・S・ルイス著の『ライオンと魔女』

トールキン『指輪物語』

ディラン・トマス(詩)

と、イギリスの名だたる作家の名前が登場します。

イギリスの支柱となる書物が上げられているのだろうか?

作者のお薦めの著書なのか、興味深い。

 

先週の768の記事でとりあげた、花が満開でした。

木蓮と書きましたが、「こぶしの花」だったようです。

お休み前のスーパーの遅い時間は、安くなっているのではないかと思い、7時頃に行ってみました。

すると、もう花が満開に。

下弦の月とこぶしの花を見ているうちに、気持ちが高揚してくるのが分かりました。

なんとか月も写したいと思って撮ってみた。

こぶしの花は、なんと清楚で清々しいこと!

 

手にとって読む本で感銘を受けるのは、イギリスのものが多くなっていっている今日この頃。

地味な味わいが好きだ。

マチルダのように、反撃するのは、夫にだとすると・・・、

救われないわねぇ~と思いました。

 

今日は、児童書の紹介になりましたが、大人が読んでも楽しい本だと思います。

こういう大げさな人物の描写に驚いたし、それが非常にうまくいっている。

その驚きを伝えたかったのだ。

それは、伝わっただろうか?

子供でこの本が好きな子は、何回も読むそうです。

その気持ち分かるなぁ~と、思いました。

なんの足しにもならない、内容でごめんなさいね。

今日もブログを最後までお読みくださった方、ありがとうございます。

 

 

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骸骨と人(スクラップブックより紹介768)と ビート・ゼェネレーション

2024-03-13 20:01:40 | Weblog

1階は、アトリエ&居間&キッチンになっています。

机の上の横に、スクラップブックが乗っていました。

それを開けて、チラッと見たとたん、ズーと眺めることに。

以前見た時よりも、加筆されていて完成度が高くなっているページがあって、

進化していました。

雑誌や写真の切り抜きに、自身の絵の切り抜きが貼られていました。

それに彩色が加えられ、「こんな絵あったけ?」と思ったり。

上の骸骨の絵がそれになります。

目が漫画の描く瞳のようにウルウルと輝いていて、

「何だ!この骸骨は!」と心の中で叫んだ。

左の目は、月夜。

右の目は、太陽が照る。

そして、内股で憤慨する骸骨。

頭には、何か刺さっているし・・・。

見ている内に、ちょっと笑ってしまった。

骸骨のところは部分で、全体はこんな感じ。

↑この人物の写真と呼応している。

一番上の靴は、ニューバランスのスニーカーの写真。

靴底が虹色だ。

「こういう靴、履きたかったのか?」とも思ってみる。

裸足の人物の写真の上に靴。

文明との対比?

写真の人物は、米国の詩人アレンギンズバーグだ。

写真の出所は、アレンギンズバーグが撮った写真集。

これは、今で言う自家撮りでしょう。

武内は、この本を所蔵していました。

(今買うと、8800円するらしい)

この本の写真は、破り取られ部屋のあちこちに貼ってあった時期がありました。

この写真集で印象に残った写真は、

台所でぼそぼそとした食事を取りながら、憂いのある表情で写っていた老人で、

その後ろには、ジュリアン・シュナーベルの割った皿を塗りこんだ絵が無造作に飾られていました。

不思議でならなかった。

その人物とシュナーベルの絵が結びつかなくて。

シュナーベルは、1980年代に活躍した画家で、新表現主義の画家。

まだまだ、シュナーベルが有名でない頃、絵を購入するような人だったのかな、と想像したり。

 

アレンギンズバーグは、第二次世界大戦後の文学に影響を与えたビート・ジェネレーションの中心人物。

乱暴な言い方をすれば、ヒッピー文化やベトナム反戦運動とも結びついた。

時代との相性が良かったのだと思う。

裸の写真は、自然回帰の思想からと思われる。

以前、もう1人のビート・ゼェネレーションの作家、

部屋の中で、ジャック・ケルアックの「地下街の人びと」という本がやたら目についた時があった。

「これはいいから、君も読みなさい。」と言われたことありました。

「もう、地下とか薄暗いところの話?暗い話と違うの?」と言うと、

なんてことを言うのだ!という顔で、わたしを見ていたっけ?

文体、文章に特徴があるのだろうな、という事は分かる。

武内が好きな文体は、

支離滅裂な表現やセンテンスの継ぎ目にくる単語の羅列に美意識を感じるもの。

わたしにとっては、苦痛になりそうな予感があって、未だ未読。

このタイプの作家に、ウイリアム・バロウズもいて、それも好きなようだ。

彼の小説に、「ジャンキー」というのがあり、

わたしは、遠巻きに背表紙を見るだけである。

というわけで、ビート・ゼェネレーション、御三家の本が我家にはあるのです。

 

そんなことを考えていた日の夜、1階に行くと、めずらしくヒロク二さんがテレビを付けていました。

画面を見ると、若いボブ・ディランが写っていました。

(3月12日のNHKの放送で)

それを見て、ボブ・ディランの番組は見るのか・・・、と思っていると

いきなり、ボブ・ディランとアレンギンズバーグが一緒に墓の前で写っている写真が映し出された。

わたしは、スクラップブックを見てから、ギンズバーグのことを考えていたので

このシンクロニシティに驚き、ブログの内容はこれにしようと決めた。

ギンズバーグが映し出されると、ヒロク二さんは「アメリカ人てのも面白いねぇ。」と言い、

キング牧師が映し出されると、「マーティン・ルーさー・キングも素晴らしい人なんよ。」と。

その後、黒人の公民権運動の様子が写った。

それを見ながら、このビート・ゼェネレーションの思考は、

今までの価値観を否定するような動きのムーブであり、アメリカらしいと思いました。

ヨーロッパでは、キリスト教からの重圧に対抗するために、

悪徳を行う、サド侯爵が現れ、フランスの哲学者サルトルが「神は死んだ。」と宣言する。

アメリカは、イギリスのプロテスタントの人々が移り住んだという経緯があり、

こちらもキリスト教の教義がきつく、なんらかの縛りから解放されたいという欲求があったかもしれない。

アメリカでは、ビート・ゼェネレーションがその役割を担なったのかもと。

ヨーロッパと違うのは、個人の反抗ではなく、大衆性があったことだと思う。

それは、一種の文化のように伝播力があったことにも驚く。

日本にもヒッピー達がいたと思いますが、この人達はどういうことを思って感化されたのか?

わたしはこういう時代を通過していないので、単なる流行のようにとらえていて、

ヒロク二さんに「ヒッピーだったの?」と聞くと、

「俺は、ヒッピーじゃない。画家だ。」というのですが、格好がそれぽい写真がチラチラある。

頭だって赤くて爆発していた写真を見つけたら、

「愚かしいことをしていたもんだ。」と言いながら、その写真は取り上げられた。

恥ずかしい過去の写真ということなのか?

ヒッピーと言われたくない感ありあり。

また、ヒロク二さんは、ジャズやロックにも傾倒して、ロック喫茶も経営した時期もある。

その頃は、8mmフィルムを取っていたという事です。

このビート・ゼェネレーションと言われた、文学、音楽、絵画に、接近し肉迫していたよう。

芸術の分野に限り、影響を受けまくっていた感じだ。

影響を受けた作品は、もしかしたらキッチュに見える作品かもしれないし、

センテンスとして、意表をつく形や線かもしれない。

ボブ・ディランは、ギンズバーグに影響を受けたと語っています。

最後は、ギンズバーグの『吠える』の文章を一部抜粋して、終わりたいと思います。

吠える

ぼくは見た ぼくの世代の最良の精神たちが 狂気に破壊されたのを 飢えてヒステリーで裸で、

我が身を引きずり ニグロの街並を夜明けに抜けて 怒りの麻薬を探し、

天使の顔をしたヒップスターたちが 夜の機械のなか 星のダイナモへの いにしえの天なる繋がりに焦がれ、

貧乏で襤褸ぼろでうつろな目でハイで 水しか出ないアパートの超自然の闇で 煙を喫って夜をすごし 

都市のてっぺんをふわふわ超えながらジャズを想い、

高架の下で脳味噌を天にさらし モハメッドの天使たちがよろよろ 光を浴びた長屋の屋上を歩くのを見て、

輝くクールな目で 方々の大学を通り抜け 戦争学者たちのただなか アーカンソーと ブレイクの光の悲劇を幻視し、~略~

柴田元幸訳、抜粋

こういう詩は、読んで体験しないと分からないと思います。

この感じ、ヒロク二さん好きそうです。

わたしは、物語派なのでこういうのは、苦手なんです。(汗)

 

↑もうすぐ咲きそうな木蓮のつぼみ。

買い物帰りなのですが、ビルの間の青空によく映えていました。

都会にも、春が来る。

これから、木蓮の花を見るのが楽しみです。

今日は、読まないビート二クの本を外から観察しているような感じで、

説得性が薄い気もしますが、武内の感性が少し分かる内容でもあったと思うのです。

内容が分かり難いというか、分からないものが好きな人です。

感覚派なんでしょう。

今日も、最後まで読まれた方、ありがとうございます。

 

 

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発芽(メモ紹介767)と 香月泰男の絵画“苦と喜び“

2024-03-05 16:56:08 | Weblog

大きいサイズのメモ。

52×39cm。

クレヨンと鉛筆、色鉛筆を使用。

わたしは武内の絵を最初に見る人である。

そして、意表を衝かれ気持ちが落ち着かなくなる人でもある。

この絵もそうでした。

「武内の頭の中は、いったいどういう風になっているのだろう。」とか、

「いったいこれは何だ!」とか、

「これは理解されるのだろうか?」とか、

「こうやって、摩訶不思議絵画によって、食えなくなるのか?」という不安が出てくる。

そう、初めて見た瞬間、驚くのが常。

しかし、時間が経過し見慣れてくると、目が慣れるのか、いろんな思いが出てきます。

今や気持ちは春待ち状態。

そんなこともあって、発芽しはじめた種のようなイメージを持ちました。

ピートバンの上で、ちょこんと根を出し始めた種のようだと。

昨年撒いたビオラの種は、まさしくこんな感じで、その後、双葉が出てきました。

そんなふうに見ていると、このメモの絵はたいへん可愛らしく思え、

明るい気持ちになる。

この絵を見ながら、夕食を食べていると、春を考えずにはいられない。

そう思って、横にいた武内を見た。

目が合うなり、「ウクライナのことを考えると憂鬱でねぇ。」という言葉が・・。

武内は、幼少の頃は戦中で、空中から狙い撃ちされたという経験があるので、

(飛行機の荷の重さを軽くする為に、アメリカ兵が捨石のように弾を消費することがよくあったという事です。

 決して殺そうと思って打ったものじゃないらしい。

 冗談半分に打ったんでしょうと、戦時の事に詳しい編集者の方が教えてくれました。

 冗談だとしても、エグイな、とわたしは思うのですが)

その恐怖や平和がない時代を思いだして、ウクライナのことを考えているようでした。

「そういう中で、わたしが絵を描くということは、どういうことだ。」

と、切実な顔をして言い、わたしを見る。

こういう問いかけは、答えがなく難しい。

武内の苦悩している姿を見て、かなり重苦しくなって憂鬱になっているようだ。

時々、こうやって重苦しくなることも悪いことではない。

親身になって思いやっているのが良くわかる。

武内のヒューマンな面が出ている。

そこで、わたしは、

「もし、ウクライナの人が絵を見て、心が明るくなって希望を持つ絵があったらいいじゃない?」と言った。

「そういう絵があったらいいじゃない?」と繰り返した。

その時、本当にそう思ったのです。

武内は、ちょっと気を取り直したようで、仕事台の前に座りに行った。

そういう絵があるなら、見てみたいものだ。

未知の分野ということです。

 

 

こういう話題になったことで、取り上げたい画家がいます。

「香月泰男」という画家です。

よくNHK等でも取り上げられる画家で、太平洋戦争にて、ソ連に抑留されシベリアの強制労働をさせられ、

この原体験を描いた画家として、よく紹介されます。

わたしは、この<シベリアシリーズ>を見て、

「なんとも暗く辛い絵だ。」という気持ちで一杯になり、黒い絵柄が脳裏に焼きついた。

それから、香月泰男という名前を見ただけで、その絵柄が浮かび見ないようになった。

このシリーズの絵を見ると、全部同じ気持ちで埋め尽くされるからだ。

↑香月泰男《復員〈タラップ〉》1967年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

これが、シベリアシリーズの一枚。

↑こちらも

《ダモイ》 1959年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

こういう絵が、わたしの脳には、この方の絵とすり込まれました。

ところが、美術雑誌、芸術新朝で紹介されたページの香月泰男氏を広げると、

↑こんなページが出てきたのです。

こちらは、山口県にあった香月泰男宅の台所の壁画。

思わず、「台所が、なんと素敵なこと!」と、うっとりしたのです。

ここで、香月泰男氏の絵のイメージが一転したのです。

他には、パリの街角を描いたものや、ブリキのおもちゃがありました。

↑この絵は、パリの街角を描いていますが、なかなか洒脱です。

シベリアシリーズとうって変わって、軽いタッチ。

↑このブリキの人形達も洒脱で、今にも動き出しそうだ。

もう、動いているのかも。

これは、<おもちゃ箱>シリーズだそう。

その雑誌の香月泰男の特集を眺め終わってから、

あの<シベリアシリーズ>ばかり紹介するのは、やめた方がいいのではないだろうかという思いが・・・。

評価が高いのが<シベリアシリーズ>らしいが、それもどうだろうか?

わたしには、どちらも等価に思われます。

人生の中には、辛いときもあれば楽しい時もあり、その両方があるということは貴重だ。

香月泰男氏の紹介では、その両面を取り上げてこそ作家を知ることになると思いました。

そのことによって、シベリアシリーズも違った観点から鑑賞することが出来そうです。

 

最後に、種を継いで育てているビオラに新しい色合いの花をつけました。

↑電球の色で暖色がかって写ってしまったのを、

なるべく花びらの色を再現と思いカラー調整で出してみました。

グレーがかった藤色に黄色の花びら。

食卓の机に置いていると、ヒロク二さんが、「新しい顔だねぇ。」と言う。

「もう、ビオラの花が顔に見えるのなら、あなたもわたしの仲間だね。

 長年見ていると、顔にしか見えないのォ。」

と言い、笑った。

このビオラの種は採取して、今年も育てるつもり。

 

今日は、大きなメモを紹介しました。

武内の絵を見て、脳がくるくると回転していつもと違う部分に刺激が行く時があります。

その感じが伝わっただろうか?

ウクライナでの紛争のことから、わき道にそれ、

シベリアでの過酷な試練を受けた「画家・香月泰男」の絵についてを書きました。

わたしが思い込んでいたように、暗く辛い絵の画家という認識を変えて、

美と生きる喜びの絵も素晴らしいと思って頂ければ幸いです。

最後まで読まれた方、いつもありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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