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竹半跡/運転支所跡

2015-11-05 21:17:15 | 秋田の季節・風景
今年初め、秋田市中心部の通町そばの大町にある商業施設「サンパティオ大町」に入っていた、地元の老舗スポーツ店「竹半(たけはん)」が、旭川を越えた仲小路の菓子店「くらた」跡に移転していた。※この記事参照
サンパティオの竹半が抜けた部分は、今も空いたままの模様。壁面の「竹半」の文字も残ったまま。


来年春、サンパティオの中に、認可保育所が開園することが分かった。
秋田市子ども未来部子ども育成課のホームページ「秋田市内の教育・保育施設について」の一覧には、「サンパティオ大町保育所」が「平成28年4月認可保育所開園に向け準備中」とある。
所在地(番地)までしか明らかになっていないので、竹半撤退後のフロアではなく、サンパティオ内の別の場所にできるのかもしれないけど。
【6日追記】タイミングよく、6日付秋田魁新報経済面で報道された。やはり竹半跡にできる。「空き店舗になっていた1棟の1階部分約580平方メートルを改修」「0~5歳児を受け入れ、利用定員は最大約80人を想定」。人の往来を増やすことで活性化を意図するパティオ協同組合とともに、中小企業庁から補助金を受ける。新聞では「月内に設置認可に向けた申請準備に入る」という段階であることになっている(建前上であって、上記・後記の通り実際にはもっと進んでいるのでしょう)。

職員の募集なども一部行われているようで、それによれば「社会福祉法人 山栄会」が運営。現在の連絡先は、サンパティオ内にある「秋田クラーク高等学院」。
今まで知らなかったけれど、秋田クラーク高等学院、さらに秋田市でけっこう昔からある学習塾「寺小屋TEC進学センター」は、いずれも山栄会が関係しているらしい。(クラーク高等学院はフランチャイズみたいなのか?)しかも、その山栄会は、長野県佐久市が拠点だそう。
【6日追記】魁の記事には「山栄会は長野県内の4市と岩手県田野畑村で介護施設など9施設を経営」。山栄会の理事長が「2000年から全日型通信制高校・秋田クラーク高等学院を運営している」。とあり、「山栄会の理事長が、社会福祉法人とは別に秋田クラークも運営している」ということのようだ(社会福祉法人は学校を経営できないから?)。

保育施設には需要もあるのだろうし、街中の空いた場所の有効活用になっていいのでしょう。
かつて、ダイエー撤退後の秋田ニューシティには、保育園の分園が入居していたし。【6日追記】定員・規模はパティオのほうがずっと多くなりそう。


ちなみに、「サンパティオ大町保育所」というのは仮称かもしれないけれど、秋田市中央部(周辺の農村部以外)の私立園で、「保育“園”」ではなく「保育“所”」を名乗るのは珍しい。【6日追記】6日の魁には、「サンパティオ大町保育所」などの施設名称は一切出てこない。
法律上は「保育所」だが、各園の名称は「保育所」「保育園」どちらでも良いことになっている(今は英語の「ナーサリー」を名乗る園まである)。偶然なのか、秋田市では秋田市立は「所」、民間は「園」でほぼ統一されている。

※続きはこちら




秋田市泉のJR奥羽本線沿いに、JR東日本が太陽光発電設備を造ることになり、9月から工事が始まっていた。※この記事末尾で少々

線路が何本も敷かれて貨物駅などがあり、通称「操車場」と呼ばれる一帯。国鉄末期~分割民営化前後には、外側の一部が宅地になるなど縮小してはいるものの、今も広大。
Googleマップ航空写真より。この左上が貨物駅
秋田貨物駅本体より南東側(上り・秋田駅寄り)、菅野地下道と天徳寺地下道の間では、奥羽本線の上下線は大きく離れて走っており、その間には建物もあった。
そこは「秋田運転支所跡地」と呼ばれ、JR貨物ではなくJR東日本の所有地だそうで、そこに発電設備ができる。

経緯はよく分からないが、秋田運転支所は「秋田機関区」と呼ばれていた頃もあったらしく、今も「秋田機関区(跡地)」で通じるかもしれない。(秋田機関区は秋田駅に隣接していたものの名称でもある)
民営化直前の1987年に秋田運転区秋田運転支所、1992年に南秋田運転所秋田運転支所と改称され、1993年12月に秋田運転支所が廃止されている。
それから20年以上使われずに放置されていた土地が、やっと再び使われる。

上の航空写真の通り、この土地には3つの建物がある。
下り方向・北西側の「残」とあるのは、線路が中につながっていて車両が入れそうな建物。これはこのまま残る。将来的に新駅ができれば、その場所になりそう。

そこより右下・上り方向一帯に発電設備ができるので、マル1とマル2の建物は、今回の工事で解体。
マル1の建物も、線路とつながっていそう。先に解体されて、もうすっかりなくなったようだ。

今はマル2の建物が解体されていて、まもなく終わりそう。
現地は、線路沿いに樹木やススキがあって、道路からは見えにくい。列車の窓からはよく見えるけれど、ここは時速95キロで通過するから目を凝らさないといけない。
10月下旬。生け垣状の木々のすき間から
解体が進んでいたマル2の建物は、上りの線路際(泉釜ノ町側)に建つ、鉄筋コンクリート造らしい、学校の校舎くらいの4階建て。意識していなかったけれど、こんな大きなものが線路の間にあったんだな。

オフィスや研修施設でもあったのだろうか。

解体工事は、敷地が広い下り線側から手を付けていて、10月下旬の段階では上り線側壁面にシートが張られていた。上り側には列車見張員も配置されていた。
そんなわけで上り線側からは建物が直接見えなかったが、着工直前にストリートビューで撮影されていた。
2015年8月撮影のGoogleストリートビューより


以下、上り線と並行する歩行者自転車道から撮影。
菅野地下道の上から。中央奥が「残」の建物
少し上り方向へ進んで、
手前が「残」だいぶボロっちい。奥が解体中のマル2

 
線路によって隔離された場所でなかったら、廃墟として荒らされていたかもしれない。
かつての鉄道は多くの人によって動かされていて、秋田も、秋田市泉も、その重要な拠点の1つだったことをうかがわせる建物たちがなくなるという意味では、少々寂しいけれど、太陽光発電さらには新駅と、新たな活用に期待。

※この後、工事は無事に進んで、2016年3月24日から「秋田泉太陽電池発電所」として運用開始。
設置面積約2万5千平方メートル、定格発電電力約1300kW、想定年間発電電力量約170万kWh。
レールは撤去せずに、太陽光パネルの基礎として再利用しているとのこと。この記事参照。
※2019年に新駅設置が正式に決まり、「残」の建物が解体された

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4 コメント

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知らなかった (mugi-shochu)
2015-11-06 18:51:30
私も報道で竹半あと地に保育所ができることを知りましたが、秋田クラーク高等学院、寺小屋~の会社だとは知りませんでした。

中心部に少しでも活気が出てくれればいいですね。
返信する
更地さらさら (あんなか)
2015-11-07 01:05:29
最近の秋田市の建築業ネタはスクラップの事ばかりで鬱になります。
ひたすら壊す話ばかりでたまに風力発電や太陽光発電のパネル設置くらいでしょうか。
盛岡市や山形市辺りではマンション建設もあるみたいですが秋田市は全然ですね。

クラーク高等学院は私の中では謎でして良く分からないですね。
神戸のクラーク外語学院とはまた別で関係が無いみたいです。
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Unknown (Unknown)
2015-11-08 02:12:43
このコンクリの建物は秋田機関区~秋田運転支所の事務所だった建物です(秋田操車場・秋田操駅の本屋はまた別)。
93年頃に支所が廃止になってからずっと、何かに使われたという話も、使っているのを見たこともありません。ここへは泉踏切と天徳寺地下道から入る道(JRの私道・通常は封鎖)があり(以前は帝石踏切からも入ることができた)、かつて施設が現役だったころに一般公開の時に入ったことがあります。
返信する
コメントありがとうございます (taic02)
2015-11-08 20:17:30
>mugi-shochuさん
報道では寺小屋~との関係は言及されていませんが、3者それぞれのホームページ間でリンクが張られていますから、関係はあるみたいです。
あそことあそこが関係していたとは、思いもしなかったということはままありますが、信州と北東北の間では珍しいし、余計なお世話ですが連絡が取りにくそうです。

パティオの裏に新しい商業施設ができるとかいう話もあるし、期待しましょう。

>あんなかさん
明田地下道近く、JT向かいの「かおる堂中通ビル」なんかも、最近解体されました。
マンションができても入る人はいるのか、駐車場にしても…

第一高等学院ってのもありますが、県外に本拠地があってその分校の扱いなのでしょうか。私立高校が弱い秋田において、一定の需要はあるのでしょう。
クラーク高等学院は北海道が本拠地で、クラーク博士にちなんでいるらしいです。校長は、あの三浦雄一郎氏だそうです。

>Unknownさん
そう言われれば、踏切と地下道に車が入れる幅の道がありますね。地理を考えれば当然ですが、ここにつながっているわけですか!
貨物所有地の隣で、本線に挟まれ、JR東日本としては持て余していた場所だったのかもしれません。あるいは駅構想が本格化するのを待っていたのか。
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