広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

秋田博'86

2016-08-19 00:25:28 | 昔のこと
以前から何度かアップしている、昭和末から平成初期頃のさまざまな思い出話を「昔のこと」カテゴリーを新設してまとめたいと思います。
過去の記事も、カテゴリーを変更して編入しようと考えていますが、内容によっては変えないものもあるかもしれません。
昔のアルバムの写真も掲載したいと思っていますが、カメラ、プリントサイズ、デジタル化方法から、画質は良くありません。



今回は、30年前・1986(昭和61)年の夏の思い出。
この年末からバブル景気が始まり、翌年春には国鉄が分割民営化してJRが発足することになる。
兵庫県が復元した北前船「辰悦丸」が日本各地を巡航し、6月には秋田港にも来た。(関連記事
日本全体も、秋田も、絶頂に向かってそわそわしだしていた、昭和最末期の始まりだった。

その年の夏休み中に開催されたのが、「秋田博'86」。
「あきたひろし」じゃなく「あきたはく」。「秋田博覧会」という意味なわけだが、正式名称が「秋田博'86」と略した形だったようだ。

「秋田博」は1969年にも開催されている。
こちらの秋田博は略称で、「八郎潟干拓記念 秋田農業大博覧会」が正式名称。1964年の干拓完成のほか、“明治百年”も記念し、農業分野以外の科学技術展示や遊園地的なものもあったらしい。
1969年8月2日から9月25日まで、「(秋田市の)臨海工業用地」と「大潟村総合中心地」の2会場で開催。臨海工業用地というのは、秋田運河沿いの寺内、今で言う臨海バイパス辺りだったようだ。
※以下、1969年の秋田博については言及しないので、「秋田博'86」のことを「秋田博」と表記します。

秋田博は、愛・地球博(2005年)のような「万博(ばんぱく。万国博覧会)」とも呼ばれる「国際博覧会」ではなく、いわゆる「地方博覧会」。
秋田博は1970年の大阪万博の前年と、1985年のつくば博(科学博)の翌年に当っているのは、意識していたのか。
地方博覧会は、戦前から日本各地で開かれていて、バブル前後が最高潮。1989年の横浜博はだいぶにぎわったし、1988年には「青函博」こと「青函トンネル開通記念博覧会」が青森市と函館で開催された(青森会場には行った)。
以降、1996年に東京で開催予定だったのを、青島都知事が中止した「世界都市博」などもあって下火になるも、2010年代でもちらほら開催されてはいる。


秋田博’86は、7月18日から8月24日、秋田市向浜の秋田県立スケート場とその周辺で開催。1969年の秋田博会場とは、秋田運河の対岸。
キャッチフレーズは「明日の秋田が見えてくる」。約38万人が来場した。

展示内容はいろいろ。
最先端の科学技術として、秋田市では同年から本格稼働することになる「キャプテンシステム」などの通信・コンピュータ関係(後に言うところのマルチメディア、IT、ITCの走り)や、細胞融合(【19日追記】実例としてはハクサイとカンランとも言われるキャベツで“ハクラン”、オレンジとカラタチで“オレタチ”などがあるが、どれが展示されたかは不明)などのバイオテクノロジー。
完成前の御所野ニュータウンである「秋田テクノポリス構想」、友好都市の中国・蘭州市から兵馬俑(復元ながら東北初展示)などが、展示された。
【25日追記】8月25日付秋田魁新報 情報ひろば面「内外の歴史」欄によれば、「御所野ニュータウン」の名称が決まったのが、1987年8月25日。秋田博の時点では、未定だったことになる。

僕も行ったので、そうした展示は見ているはずなのだけど、展示内容に関する記憶がまったくない。今にしてみれば、それなりにおもしろそうなのに…
当時のスナップ写真より会場の大看板。後ろはスケート場
覚えているのは、「明日の秋田が見えてくる」のキャッチフレーズ。
それに、始めてスケート場の中に入り(もちろん氷は張っていない)蒸し暑かったこと、屋外も暑かったこと。
イートイン&休憩スペースを兼ねたステージ付き大型テントで、まばらな客席を前にして若い男性演歌歌手が大音量でガンガン歌っていたことくらい。
前売り入場券。数年前のオークションサイトでは1100円の値が付いていたらしい!
秋田出身の矢口高雄氏による「釣りキチ三平」がマスコットキャラクター的存在だったようだ。(竿は持ってないけど、三平くんだよね?!)
こういうのって、当時でも作者や著作権表示をするのが一般的だと思われるが、ない。中央交通の三平バスでもそうだけど、矢口先生はそういうことにこだわらないのだろうか。

おもしろいのは、実行委員会事務局の場所。大町一丁目3-34の「ADビル4階」とある。
ダイエー(秋田ニューシティ)向かいの、「名店街」の跡にできた「ファッションアベニューAD(現・イーホテルショッピングモールという名のほぼ空きフロア)」かと早合点した。
でも、そのADは1987年オープンだし、所在地は大町二丁目だから違う。

所在地からすると、1ブロック北。広告会社「アド東北」本社がある位置だ。
1983年に建てられたビルで、現在は「ADTビル」と呼ばれているそうだ(同社盛岡支社もADTビルを名乗っている)。入場券が誤植だったのか、ファッションアベニューADとの混同を避けるために、後に「T」を加えたのだろうか。
また、事務局の電話番号は、現在は全国紙系列の広告会社(所在地も別)が使っている。関係があるのかは不明。


我々が訪れた日付は不明。竿燈まつりよりは後、お盆前後で、13日ではないはず。平日だったかもしれない。
上記の通り暑かったが、当時の気象データを見ると、最高気温30度になるかならないか日が続く頃。(今より明らかに気温が低い傾向だと思い知らされた)

会期は、小中学校の夏休みの少し前に始まり、北国の短い夏休みが終わるのと同じ頃に終了している。
もうちょっと長くすれば、学校単位で見学に来たり、涼しくなってからゆっくり来る客もいたようにも思える。


会場内以外で覚えているのは、会場へのアクセスのこと。続きます

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-08-19 01:57:20
同じですねえ~
秋田博に行ったことと、往復に乗った乗り物のことは覚えているのですが、肝心の展示内容の記憶がありません(笑)
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そんなもの? (taic02)
2016-08-19 17:42:10
そのくらいの年齢、そのくらいの昔のことならば、そんなもんなんでしょうかね。展示がどうしても見たくて行ったわけでもないでしょうし…
だけど、同じ年に学校で見学した、ゴミ処理場とか下水処理場のことは、それなりに覚えているのは、不思議です。
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未来の御所野 (FMEN)
2016-08-22 02:49:16
もしかして、モノレールの通っていて、今のヤマダ電気の北側に大規模団地や小学校がある大風呂敷を北海道並みに広げたあれてすか?
昔テルサに模型展示してあったやつですが。
ほんとうに希望希望だったんですね。
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記憶にございません (taic02)
2016-08-23 23:17:19
展示の記憶がまったくないので、なんとも言えません。
御所野ニュータウンの街開きはこの数年後ですから、時期的に工事は始まっていたでしょうね。
モノレール構想は、市内と秋田空港を結ぶものだったらしく、当時は既に空港はできて(移転して)いましたから、まだ計画中だったのか計画倒れが確定した後だったのか。

いろんな意味で、当時の展示を見てみたいです。
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